住所、七文字先の月

雨に濡れた駅のホームに置かれた透明な傘。遠くに人影が立ち、青い空にはわずかに二重にずれた月が浮かんでいる。

窃盗犯逮捕

午前九時十二分。

男は、駅前のコンビニエンスストアで、透明な傘を一本持って出た。

雨は降っていなかった。

男は傘を盗んだことを否定しなかった。

「俺のだと思った」

警察官は傘を裏返した。

柄の内側に、小さく名前が書かれていた。

男の名前ではなかった。

「じゃあ俺のじゃないな」

警察官は何も答えなかった。

店員が調書に署名した。

男はパトカーに乗せられた。

乗る直前、警察官は決められた文言を読み上げた。

男はほとんど聞いていなかった。

七文字だけ、抜けていた。

そのとき、それに気づいた者はいなかった。

留置場で男は眠れなかった。

隣の房に、ずっと咳をしている男がいた。

廊下では何度か靴音がした。

午前三時過ぎ、誰かが自動販売機で缶コーヒーを買った。

落ちる音がした。

男は天井を見た。

白かった。

何もなかった。

朝になって弁護士が来た。

国選だった。

「傘ぐらいで大げさじゃない?」

弁護士は答えず、書類を読んでいた。

何度かページを戻した。

「逮捕のとき、何て言われました?」

「なんか、あなたには何とかする権利があるとか」

「それだけですか」

「知らないよ」

弁護士は警察が作成した記録を見た。

「録音、残ってますかね」

男は顔を上げた。

「何かある?」

「確認します」

その言い方が、少しだけ気に入らなかった。

駅前のスーパー

レジが一台閉まっていた。

担当者が警察署に呼ばれていた。

理由は客には知らされなかった。

入口には、

一部商品の入荷が遅れています

と貼り紙があった。

卵。

牛乳。

ティッシュペーパー。

乾電池。

乾電池だけ、なぜ遅れているのか分からなかった。

昼過ぎ、年配の女が店員に尋ねた。

「今日もないの?」

店員は倉庫を見に行った。

「ありませんね」

「昨日もそうだった」

「そうですね」

「いつ入るの?」

「確認します」

女は待った。

店員は戻ってこなかった。

夕方、男は釈放された。

傘を盗んでいなかったからではない。

逮捕時の手続について確認が必要になったからだった。

署を出ると、雨が降っていた。

向かい側のコンビニには透明な傘が何本も並んでいた。

一本、名前がないように見えた。

買えば七百円。

財布には二千百八十円。

ホテル代には足りない。

男は走った。

信号を一つ越えたところで、後ろから誰かが呼び止めた。

振り返らなかった。

翌朝、男は弁護士事務所にいた。

「訴えると金になる?」

弁護士は露骨に嫌そうな顔をした。

「そういう話ではありません」

「でも違法だったんだろ」

「違法と決まったわけではないです」

「じゃあ何だったの」

「手続上の問題があった可能性があります」

「同じじゃん」

「違います」

男には違いが分からなかった。

金になる可能性があるなら、それでよかった。

弁護士は説明した。

告知文の一部が抜けている。

記録には全文を読み上げたと書かれている。

録音と記録が一致していない。

男は途中から笑い始めた。

「じゃあ嘘ついたんだ」

「そう単純に言わないでください」

「でも書いたんだろ」

「経緯を確認します」

「また確認か」

弁護士は黙った。

「それ、誰に言えばいいの?」

その質問から始まった。

警察官は事情を聞かれた。

読み飛ばした覚えはないと言った。

音声を三回聞いた。

七文字がなかった。

「抜けてますね」

監察官は記録した。

「なぜ記録には全文告知済みと?」

「いつもそうしているので」

「いつも?」

「読み上げたあと、定型で入力します」

「今回は?」

「読んだと思っていました」

監察官はそこに線を引いた。

警察官は机の上の録音機を見た。

赤いランプが点いていた。

「今のも残りますよね」

「はい」

それ以降、警察官は何も言わなかった。

裁判所では似た記録が増えていた。

告知内容の欠落。

録音と調書の不一致。

故意か過失か。

証拠能力に影響するか。

地下の書庫で、書記官が段ボール箱を抱えていた。

「これ、どこに置けばいいですか」

上司は棚を見た。

空いていなかった。

「一旦、そこ」

「昨日のがあります」

「じゃあ隣」

「通路です」

棚は奥まで続いていた。

一番奥は照明が切れていて見えなかった。

書記官が聞いた。

「奥、空いてましたっけ」

上司は目を細めた。

「見えないな」

箱は通路に置かれた。

側面に、

逮捕手続関連

と書かれていた。

その日の午後、消防署から連絡が来た。

一週間後、男は別のコンビニで万引きをした。

おにぎりを二つ。

鮭と昆布。

店を出て三十メートルほど歩いたところで警備員に止められた。

男は素直に袋を出した。

前とは違う警察官が来た。

名前を端末に入力した。

画面を見た。

「以前にも?」

「傘」

警察官は告知文を読み始めた。

一文字ずつ確かめるように。

途中で止まり、最初から読み直した。

十分以上かかった。

「もう分かったよ」

警察官はやめなかった。

全文を読み終え、

「以上です」

と言った。

額に汗が浮いていた。

男は何度か住む場所を変えていた。

今の住所を証明できるものがなかった。

「本人確認書類はありますか」

免許証を出した。

「こちら、以前の住所ですね」

「そう」

「現在お住まいの場所が分かるものは?」

「ない」

「賃貸契約書など」

「ホテル」

窓口の女は端末を見た。

「住民票上の住所はどうされますか」

「だからそれを決めに来た」

「住所が決まらないと変更できません」

男は笑った。

女は笑わなかった。

「じゃあ今、俺はどこに住んでることになってる?」

以前の住所を読み上げられた。

「そこ、もう知らない奴住んでるよ」

「こちらではそうなっています」

男は画面を見た。

「じゃあ俺より、その画面の方が正しいんだ」

後ろの番号表示が進んだ。

四二一。

四二二。

四二三。

男は椅子に戻った。

隣に若い男が座っていた。

スマートフォンの画面上部に赤い印が残っていた。

若い男が指で払った。

消えた。

すぐにまた震えた。

男は横から見た。

警察補充任用候補者 登録継続中

「何それ」

「警察のやつです」

「警官なの?」

「まだ」

「なるの?」

「来年から」

「なりたいの?」

「別に」

「じゃあ何で」

「選ばれたんで」

四二四。

また震えた。

若い男は見ずに消した。

「それ消していいの?」

「通知は」

「じゃあ終わり?」

「いや」

「何が残るの」

若い男はスマートフォンをポケットに入れた。

「俺じゃないですか」

四二五

逮捕時の告知について新しい通達が出た。

全文を音声記録に残す。

確認者を記録する。

必要に応じて再確認する。

翌月には補足が出た。

ある署では、路上で男を拘束したまま、警察官三人が一台の端末を囲んでいた。

四十二分後、拘束された男が聞いた。

「俺、まだ捕まってんの?」

誰もすぐには答えなかった。

通行人がその様子を撮った。

SNSに、

警察が三人でスマホを見てる

と載った。

翌日、警察広報が説明を出した。

一箇所に誤字があった。

訂正文の日付も間違っていた。

男は若い男と二度目に駅で会った。

若い男は女と一緒だった。

「あ、この人?」

若い男が嫌そうな顔をした。

「違う」

「傘の人でしょ」

「何で知ってんの」

女は笑った。

「こいつ来年警官なんですよ」

「知ってる」

「え、もう言ったの?」

若い男は黙っていた。

「すごいですよ。人殺し捕まえたんで」

「人殺しっていうか」

若い男が言った。

「そのときはまだ死んでなかった」

女は止まった。

「そこ?」

男が聞いた。

「誰が死んだの」

「警官。刺されたんですよ。で、こいつが犯人押さえて」

「押さえたっていうか」

「新聞にも出たよね」

「名前は出てない」

「でも公務員になれるんでしょ。いいじゃん」

「なれるっていうか、なる」

「何が違うの」

若い男は答えなかった。

電車が入ってきた。

三人とも乗った。

女だけ次の駅で降りた。

降り際、

「羨ましいけどな」

と言った。

若い男は聞こえなかったふりをした。

六月

駅前のスーパーでレジが二台閉まった。

一台は担当者が事情聴取。

もう一台は人員不足。

乾電池はまだ入ってこなかった。

棚には、

入荷未定

と貼られていた。

客はそこで立ち止まらなくなっていた。

若い男のスマートフォンには、ときどき通知が来た。

任用対象年度を確認してください

消した。

基礎履修項目があります

消した。

携帯を替えた。

来た。

行政通知のアプリを消した。

翌朝、別の場所に出た。

数日間電源を切った。

起動すると三件並んでいた。

「携帯捨てれば」

「次のにも来ますよ」

「持たなきゃいい」

「いろいろ使えなくなるんで」

「住所変えたら?」

「関係ないです」

若い男は通知を払った。

「本人に来るんで」

男は笑った。

「怖いな」

「便利ですよ」

若い男も笑った。

男は旅館で清掃をしていた。

日雇いだった。

シーツを剥がす。

ゴミを集める。

浴室を流す。

午後四時になると現金でもらった。

本人確認はほとんどなかった。

男は気に入っていた。

ある日、客室の机に財布が置かれていた。

三万円ほど入っていた。

免許証もあった。

男はしばらく見た。

財布を閉じた。

フロントへ持っていった。

「忘れ物」

女将が言った。

「珍しいね」

「何が」

「返すんだ」

男は笑った。

「名前書いてあるから」

男が弁護士事務所へ行ったのは、そのあとだった。

「金どうなった?」

弁護士は前より疲れていた。

「まだです」

「何してんの」

「私の対応も確認対象になってます」

「何したの」

「あなたの件で照会を出したでしょう」

「知らん」

「その範囲が適切だったか」

男は笑った。

「誰が確認してんの」

弁護士は椅子にもたれた。

「それを今、確認してます」

「で、金は?」

「まだです」

若い男が犯人を捕まえた日のことを、男が本人から聞いたのはもっと後だった。

立ち飲み屋。

テレビでは音のないニュースが流れていた。

「お前、本当に捕まえたの?」

「何を」

「人殺し」

「その言い方やめてくださいよ」

「じゃあ犯人」

若い男はビールを飲んだ。

「警官が追いかけてたんですよ」

「うん」

「角曲がったら倒れてて」

「刺された?」

「たぶん、その前に」

「で?」

「逃げようとしたんですけど」

男は笑った。

「英雄じゃないじゃん」

「だから違うって言ってるでしょう」

「でも捕まえた」

「通知が来たんですよ。近くにいた人みんなに」

重大犯罪。

現場の警察官が動けないこと。

周辺市民に逃走防止への協力義務が発生したこと。

「全部は読んでないです」

「無視したら?」

「場合によっては駄目みたいです」

「で、向かってった?」

「道塞ごうとして」

「勇敢じゃん」

「違う方向に避けたんです」

「誰が」

「俺が」

若い男は笑った。

「犯人も同じ方に来て」

「ぶつかった?」

「はい」

「それで?」

「転びました」

「どっちが」

「両方」

男は声を出して笑った。

「近くの人が刃物蹴ってくれて、俺が上に乗って」

「捕まえてるじゃん」

「そういう記録になってます」

「実際もそうだろ」

若い男はグラスを見た。

「そうなんですかね」

事件から半年後。

若い男のスマートフォンに、

補充任用候補者として登録されました

と出た。

登録期間は五年。

選ばれるとは限らない。

そこまで読んで閉じた。

三年後。

倉庫で段ボールを積んでいるときに、また来た。

任用年度が決定しました

通知を消した。

昼休みにもう一度開いた。

内容は変わっていなかった。

その頃、若い男と一緒にいた女は仕事を探していた。

面接を三つ受けた。

一つは返事がなかった。

一つは不採用。

一つは選考中。

駅前で男と会った。

「あいつもう警察?」

「まだ」

「いつ?」

「知らん。来年とか」

「いいな」

「嫌らしいよ」

「贅沢」

女はスマートフォンを見た。

新しい通知はなかった。

「決まってるんでしょ」

「らしい」

「いいじゃん。決まってるなら」

男は答えなかった。

女は求人サイトを開いた。

「私は何にも決まらない」

電車が来た。

女は乗った。

男は乗らなかった。

二本のレールは、遠くで一本に見えた。

もちろん、そこで交わっているわけではなかった。

警察官を調査する警察官が増えた。

検察官の判断について審査を求める件数も増えた。

監察委員。

第三者委員会。

外部有識者。

独立性。

透明性。

新聞には似た言葉が並んだ。

適正。

適切。

公平。

検証。

再発防止。

誰も反対しなかった。

反対する理由がなかった。

若い男の履修画面には項目が並んでいた。

刑法。

刑事訴訟法。

警察法。

交通法規。

救急。

倫理。

報告書作成。

「試験あるの?」

「試験じゃないです」

「じゃあ何」

「知っといた方がいいやつ」

「やってる?」

「全然」

「じゃあ警官なれないじゃん」

若い男は顔を上げた。

「なります」

「勉強してなくても?」

「それと任用は別なんで」

男は笑った。

「警官になる方が先なんだ」

スマートフォンが震えた。

未履修項目があります

若い男は消した。

その年の八月、男はまた逮捕された。

今度は暴行だった。

酔った客と揉めた。

先に殴ったのはどちらか分からなかった。

監視カメラには途中からしか映っていなかった。

警察官は告知文を読み上げた。

完璧だった。

横で二人が確認していた。

一人が録音した。

もう一人が確認欄に署名した。

「今の完璧?」

警察官は無視した。

「一文字も抜けてない?」

「黙ってください」

「黙秘権あるんだろ」

警察官が止まった。

「あります」

「じゃあ黙る」

男は笑った。

その後、本当に何も喋らなかった。

三日後、男は釈放された。

被害届が取り下げられた。

署を出ると、若い男が入口近くにいた。

「何でいるの」

「講習」

「もう警官?」

「まだです」

画面には、

基礎法規講習 未修了

と出ていた。

「受けた?」

「途中で寝ました」

「駄目じゃん」

「そうですね」

二人は歩いた。

「今日の講習、あなたの事件出てましたよ」

男は足を止めた。

「俺?」

「たぶん」

「名前出てた?」

「伏せてました」

「じゃあ俺じゃないかもしれないだろ」

「そうですね」

「何だよ」

「俺の事件も教材だと全然違う感じでしたから」

「どんな」

「市民の迅速かつ勇敢な判断」

男は笑った。

「逃げようとしてたのにな」

「はい」

「嘘じゃん」

若い男は前を見た。

「嘘でもないんでしょうね」

その頃から、電車の遅延が増えた。

事故ではなかった。

点検。

確認。

協議。

安全確認。

関係機関との調整。

理由は毎回違った。

駅員の放送はだいたい同じだった。

「ご迷惑をおかけしております」

男はホームで一時間待った。

若い男は参考書を枕にして寝ていた。

男は起こさなかった。

隣の老人が新聞を読んでいた。

「昔はこんなに遅れなかった」

「電車?」

老人は首を振った。

「全部」

男は線路を見た。

遠くへ行くほど、二本の間隔は狭くなっていた。

同じ日の夕方。

スーパーで年配の女が米の棚を見ていた。

何もなかった。

最初に乾電池を聞かれたときと同じ店員を呼び止めた。

「米、いつ入るの?」

店員は口を開いた。

「確認――」

止まった。

空の棚を見た。

「分かりません」

「そう」

年配の女は別の棚へ行った。

店員はその場に残った。

大学の研究室で、人工衛星の軌道予測に小さな誤差が続いていた。

最初は十数メートル。

次に数十メートル。

計算式を見直した。

観測機器も交換した。

それでも残った。

学生が、

「時間の方がずれてるんじゃないですか」

と言った。

教授は笑った。

学生も笑った。

翌日。

学生は別のソフトウェアで同じ計算をした。

二枚の結果を机に並べた。

笑わなかった。

若い男は仕事を失った。

警察官になるからではなかった。

倉庫の配送量が減り、契約が更新されなかった。

「ちょうどいいじゃん」

「何が」

「どうせ警官になるんだろ」

「そうですね」

少しして、

「でも、それとこれは別じゃないですか」

と言った。

「警察まで何ヶ月?」

「八ヶ月」

「勉強すれば」

「嫌です」

初めて、はっきり言った。

「警官が?」

「勉強が」

「どっちだよ」

若い男は答えなかった。

その夜、男にメッセージが来た。

駅前の立ち飲みまだ開いてましたっけ

知らん

十分後。

開いてた

男は行った。

軽微な案件を任意捜査へ回す署が増えた。

任意であることを確認する書類が作られた。

署名を拒否した場合、その拒否が任意かどうか。

会議は次回に持ち越された。

地下書庫の箱の一部は会議室へ移された。

書記官はその会議室で会議をすることになった。

「前回の議事録どこですか」

「たぶん後ろです」

「たぶん?」

「移動記録がまだ反映されてなくて」

会議は議事録を探すところから始まった。

それ以上奥へ行くには、いくつか箱をどける必要があった。

スーパーでは乾電池が戻ってきた。

米はなかった。

誰も驚かなかった。

若い男のスマートフォンに、

訓練服発送済み

と出た。

数日後、段ボール箱が届いた。

開けずに玄関へ置いた。

一週間。

二週間。

男が部屋に来たときもそのままだった。

「それ何」

「警察の」

男は勝手に開けた。

紺色の訓練服。

新品の匂い。

名前の札。

若い男の名字。

男はそれを持ち上げた。

「もう名前書いてあるじゃん」

若い男は見ていた。

「返せないな」

「返せますよ」

「警官にならないなら?」

「その場合は」

「ならないの?」

「なります」

男は笑った。

「どっちなんだよ」

若い男も笑った。

「俺も分からないです」

男は名札を箱へ戻した。

蓋は閉めなかった。

同じ頃、裁判所は一つの大きな判断を出した。

公権力を行使する主体は、その行為について審査を受け得なければならない。

立場による例外は認められない。

新聞各紙は一面で報じた。

男は読まなかった。

若い男からメッセージが来た。

これ俺も入るんですかね

知らん

少しして、

まだ警官じゃないだろ

夜になって、

一回は警察権使ってる扱いみたいです

男は返信しなかった。

数日後、その判断を出した裁判官について申立てが出された。

審理の過程に問題があったという。

そのニュースは二面だった。

翌日は三面。

一週間後には小さな記事になった。

その頃には別の問題が起きていた。

学生は観測所へ手伝いに行くようになった。

夜になると月がよく見えた。

理論上の位置。

観測された位置。

補正後の位置。

三つが一致しなくなっていた。

原因の候補は多かった。

機器。

大気。

時刻同期。

座標系。

ソフトウェア。

地球の自転。

計算モデル。

研究者の一人がホワイトボードに、

基準点

と書いた。

その下に、

どこを固定するか

と書いた。

別の研究者が消そうとした。

学生が言った。

「それ、残しといてください」

理由は聞かれなかった。

帰りの電車で、学生は窓の外に月を探した。

雲で見えなかった。

警察学校への入校まで三週間になった。

若い男は何も準備していなかった。

髪も切っていなかった。

参考書は最初の二十ページより先へ進んでいなかった。

救急講習だけは修了していた。

「短かったから」

スマートフォンには、

未履修項目:17件

と出た。

消した。

一週間後。

未履修項目:17件

消した。

男と河川敷に座っていた。

川は橋の向こうで曲がり、その先は見えなかった。

コンビニで買った缶ビールを飲んだ。

「逃げれば?」

「どこに」

「知らん。遠く」

「来ますよ」

「何が」

「通知」

「携帯捨てろ」

「本人に来るんで」

男は笑った。

「嫌なら辞めればいいじゃん」

若い男は川を見た。

「まだ始まってないのに?」

男は何も言わなかった。

「犯罪って、やる前から犯罪者なんですか」

「知らん」

「警官は?」

「何が」

「なる前から警官なんですか」

「俺に聞くなよ」

「そうですよね」

川は見えないところまで続いていた。

その夜、ホテルの屋上へ上がった。

非常階段の鍵は壊れていた。

立入禁止と書いてあった。

二人とも気にしなかった。

遠くに裁判所。

警察署。

市役所。

病院。

駅。

どこにも明かりがついていた。

男は煙草を吸った。

禁止だった。

「それ、駄目ですよ」

「警官かよ」

「まだ違います」

月が出ていた。

「月ってあんな位置だっけ」

若い男も見た。

「知らないです」

それだけだった。

スマートフォンが震えた。

入校まで18日

若い男は消した。

翌朝

駅前のスーパーは営業していた。

入口には、

本日は通常営業しております

と貼られていた。

レジも三台動いていた。

卵もあった。

牛乳もあった。

乾電池もあった。

米だけがなかった。

誰も困っているようには見えなかった。

入校前日。

若い男のスマートフォンに、

未履修項目:17件

と出た。

消した。

数分後。

任用予定に変更はありません

それも消した。

夜、男にメッセージを送った。

明日朝早いらしいです

寝ろ

返事はしなかった。

若い男は警察学校へ入った。

男は知らなかった。

三日後にメッセージが来た。

なりました

何に

しばらくして、

たぶん警官

男は笑った。

飯まずい?

普通

会話はそこで終わった。

学生は大学の屋上にいた。

昼だった。

前夜の観測データをスマートフォンで見ていた。

画面を閉じた。

空に薄い月が出ていた。

位置を確かめようとした。

建物の縁。

アンテナ。

遠くの鉄塔。

どれを基準にしても、見る場所を少し動けば関係が変わった。

学生はしばらく見ていた。

講義へ戻った。

数ヶ月後、男は駅で透明な傘を見つけた。

雨は降っていなかった。

ベンチに立てかけてあった。

持ち上げた。

柄を見た。

名前はなかった。

周囲を見た。

誰も見ていない。

そのまま歩いた。

改札の手前に警察官がいた。

若い男だった。

制服を着ていた。

髪が短くなっていた。

二人とも足を止めた。

男は傘を少し上げた。

「これ、俺の」

若い警察官は傘を見た。

「名前ないですね」

「ない」

ベンチの方を見た。

誰も来なかった。

無線が鳴った。

若い警察官は応答した。

男は待った。

無線が切れた。

若い警察官は男を見た。

傘を見た。

何か言いかけた。

また無線が鳴った。

今度はすぐ返事をした。

走っていった。

男はその場に残った。

呼び止められなかった。

許されたわけでもなかった。

改札を通った。

ホームへ降りた。

電車は遅れていた。

理由は表示されていなかった。

傘を膝の間に置いた。

線路は遠くへ伸びていた。

二本だった。

遠くでは一本に見えた。

その向こうに昼の月があった。

薄かった。

少しだけ位置が違う気がした。

もちろん、そんなことが分かるはずはなかった。

電車が来た。

男は乗った。

傘も持っていった。

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