駅から十分ほど歩いたところに、小さな庭があった。
建物と建物のあいだに残された、細長い土地だった。
昔は花壇だったらしい。
縁には割れた石が並び、中央には古い蛇口があった。
蛇口をひねっても水は出なかった。
雨が降ると、その下だけ黒く湿った。
誰かが花を植えることもなかった。
遥は学校へ行くとき、そこを通った。
灰色の猫をよく見かけた。
晴れた朝には、低い石の上で腹を温めていた。
遥が近づくと、ときどき目だけを開けた。
一度だけ名前を考えた。
二つほど浮かんだ。
どちらも口には出さなかった。
次の日にも猫はいた。
朝に温かくなる石。
雨の入らない板の下。
鳥の匂いが残る壁際。
古い雄の尿の匂いが消えない角。
猫はそこだけ避けた。
石の下には小さな虫がいた。
猫が飛び降りると、石の端から砂が落ちた。
虫は奥へ入った。
雨の日
猫は板の下へ移った。
石の隙間には水が流れ込んだ。
細い脚が水に触れた。
虫はさらに奥へ潜った。
水はしばらく増えた。
やがて止まった。
庭の端には草が生えていた。
コンクリートの裂け目から何本も伸びていた。
根の先には湿った土があり、その先には硬いものがあった。
片側の葉には朝だけ光が当たった。
反対側の葉は壁に触れていた。
風が入るたび、葉の裏表が入れ替わった。
その中の一本に、小さな白い花が咲いた。
遥は立ち止まった。
しゃがんだ。
スマートフォンを取り出そうとして、やめた。
風が吹いた。
花が横を向いた。
遥も少し首を傾けた。
数日後、金網に白い紙が貼られた。
建物の絵が印刷されていた。
下には工事の日付が並んでいた。
家に帰って、遥は母親に言った。
「裏のところ、なくなるって」
「裏のどこ?」
遥は少し黙った。
「学校行く途中のとこ」
「ああ」
母親はそれで会話を終えた。
工事が始まった。
最初に板が外された。
灰色の猫が塀を越えた。
石が運ばれた。
草がまとめて引き抜かれた。
細い根の先から湿った土が落ちた。
透明な袋の中で、葉が重なった。
遥は金網の外から、いつも猫が寝ていた石のあった辺りを見た。
もう何もなかった。
大きな機械が入った。
土が削られた。
地面の高さが変わった。
翌朝、灰色の猫が金網のそばにいた。
中へ入ろうとして、何度か顔を差し込んでいた。
遥は足を止めた。
猫は金網に沿って歩いた。
以前、板のあった側へ向かった。
行き止まりになって戻ってきた。
遥はしゃがんだ。
猫が近くまで来た。
手を伸ばした。
猫の鼻先が指に近づいた。
前脚が動いた。
手の甲に熱い線が走った。
遥は手を引いた。
血が細く浮いた。
猫は塀の向こうへ走った。
家に帰ると、母親が傷を洗った。
「猫?」
遥は頷いた。
消毒液がしみた。
その夜、手を曲げると三本の傷が引きつった。
次の日には赤みが薄くなった。
工事は続いた。
蛇口がなくなった。
土が見えなくなった。
柱が立った。
壁ができた。
窓がついた。
遥は毎朝、その前を通った。
猫の寝ていた石の場所が分からなくなった。
白い花のあった亀裂も見つけられなくなった。
傷はかさぶたになった。
授業中、遥はときどきそこを爪でなぞった。
硬かった。
ある朝、かさぶたの端が制服の袖に引っかかった。
遥は剥がした。
下に薄い桃色の線が残った。
建物が完成した。
白い壁の一階に駐輪場ができた。
裏には低木が等間隔に植えられた。
遥は前を通った。
壁が白かった。
新しいゴムと塗料の匂いがした。
植え込みの端から、一本だけ別の草が出ていた。
細い茎。
丸い葉。
花はなかった。
遥はしゃがんだ。
葉の上に黒い虫がいた。
指を近づけた。
虫は動かなかった。
遥が指を曲げると、手の甲の線も曲がった。
あと数センチ下げれば触れた。
虫が先に動いた。
葉の裏へ回った。
遥は手を下ろした。
数日後、帰り道で灰色の猫を見た。
新しい建物の裏にいた。
遥は立ち止まった。
耳の形が似ていた。
背中の毛も似ていた。
猫も遥を見た。
数メートルのあいだに誰もいなかった。
遥は手をポケットに入れた。
猫は植え込みへ入った。
草の葉が揺れた。
黒い虫が葉の裏から出た。
猫の耳がそちらへ向いた。
前脚が上がった。
駐輪場で自転車が倒れた。
猫は振り返った。
虫は茎を伝って下へ移った。
猫は走った。
遥のすぐ横を通り過ぎた。
遥は身体を引いた。
猫はそのまま道路の向こうへ消えた。
翌朝、草の葉に穴が開いていた。
虫はいなかった。
遥は立ち止まらなかった。
制服の裾が葉先を擦った。
茎が大きく曲がった。
遥はそのまま歩いた。
しばらくして葉が持ち上がった。
完全には元の位置へ戻らなかった。
昼になると、壁の影が移った。
曲がった葉の先だけが先に光へ出た。
小さな虫が一匹、低木の根元から這い出した。
葉の穴を避けて進んだ。
道路の向こうで灰色の猫が一度だけ振り返った。
遥はもう学校にいた。
手の甲には、よく見なければ分からない三本の線が残っていた。



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