彼は、人との間にある距離を測ることが習慣になっていた。
近づきすぎない。 踏み込みすぎない。
相手が言葉にしなかったものを、勝手に拾わない。
それは冷たさではなかった。
むしろ、相手をそのまま残しておくための方法だった。
人は、見られることで変わる。
誰かに名前をつけられることで、その人自身ではなく、その名前に近づけられてしまうことがある。
優しい人。
寂しい人。
強い人。
そういう分類は便利だった。 しかし便利なものほど、本人から遠ざかる。
彼は、人を見ることが得意だった。
声の変化。
返事までの間。
笑う前に一瞬だけ止まる呼吸。
疲れた時だけ変わる歩幅。
そういうものに気づいてしまう。
だからこそ、見ないようにしていた。
一度覚えたものは消えない。
知らなかった頃には戻れない。
彼は、それを何度も経験していた。
誰かを理解したと思った瞬間、その人が自分の作った像から外れた時、失望する。
相手が変わったのではない。
自分が勝手に固定していただけだった。
その間違いを繰り返したくなかった。
だから、彼は誰かを特別にしないようにしていた。
特別という言葉の中には、優しさだけではなく、所有したいという感情も混ざるからだった。
彼女と会った時も、最初は何も思わなかった。
ただ、彼女には妙な癖があった。
話している途中で、自分の手を見る。
指先を動かす。
手の甲を眺める。
何かを確認するように、ゆっくり触れる。
「何を見てるの」
彼が聞いた時、彼女は少し笑った。
「手」
「自分の?」
「そう」
「変わってるね」
「そうかな」
彼女は自分の手を見たまま言った。
「前と違うから」
その言葉の意味を、彼はすぐには理解しなかった。
「手が?」
「身体って、知らないうちに時間が残るから」
その日からだった。
彼は彼女の手を覚えるようになった。
寒い日は指先が少し赤くなる。
考え事をすると親指に触れる。
緊張すると、片方の手をもう片方で包む。
覚える必要などなかった。
しかし、覚えていた。
そのことに気づいた時、彼は安心より先に違和感を覚えた。
自分だけが知っている。
その感覚が、少し嬉しかった。
そして、その嬉しさが嫌だった。
相手を大切に見ているつもりだった。
しかし、その奥に別の感情があった。
自分だけが気づいた、という満足。
自分だけが持っている情報のような感覚。
それは、彼が最も避けたかったものだった。
「また見てる」
ある日、彼女が言った。
彼は反射的に視線を外した。
「見てない」
言った瞬間、自分で分かった。
嘘だった。
彼女は責めなかった。
「前は見てなかったよね」
その言葉が残った。
彼女は彼の変化にも気づいていた。
「考えている時、少し黙る」
「そんなの誰でもある」
「でも、あなたは考え終わるまで返事をしない」
彼は何も言えなかった。
自分だけが観察していたと思っていた。
違った。
彼女もまた、彼を見ていた。
それが怖かった。
見られるということは、自分の中にも相手に渡っているものがあるということだった。
彼は距離を取ろうとした。
連絡を少なくした。
会う理由を作らなかった。
しかし、離れようとすると、逆に細かなことが増えた。
返信が来る時間。
文章の短さ。
使う言葉。
見ないようにする努力が、彼女を考える時間になっていた。
ある日、彼女が誰かと話していた。
楽しそうだった。
彼は安心した。
彼女には自分以外の場所がある。
それは良いことだった。
そう思った直後、相手が言った。
「今日、少し疲れてる?」
その一言で胸の奥がざわついた。
その人も気づいた。
彼女の声の違い。
返事の間。
小さな変化。
自分だけが知っていると思っていたものを、別の誰かも見つけた。
その瞬間、彼は自分でも嫌になる感情を持った。
「最近少し疲れてる?」
彼は、彼女を見るより先にその人を見た。
「最近寝不足だからじゃない?」
そう言ってから、彼女を見る。
彼女は少し眉を上げただけだった。
しかし、すぐに否定した。
違う。
そんな単純なものではない。
そう思おうとした。
でも、理由を探すほど、自分の醜さが見えてきた。
彼女が幸せならいい。
そう考える自分と。
その幸せの中に自分がいないことを嫌がる自分がいた。
彼女が手袋をしてきた日、彼は落ち着かなかった。
最初は気のせいだと思った。
しかし、しばらくして分かった。
いつも見えていたものが見えない。
それだけで、不安になっていた。
「寒い?」
彼が聞くと、彼女は頷いた。
「少し」
「だから手袋?」
「うん」
短い沈黙。
彼女は彼を見た。
「見えないね」
「何が?」
「私の手」
彼は答えなかった。
「見えなかったら、どうするのかなって思った」
その言葉を聞いて、彼の中で何かが揺れた。
大丈夫と言えばよかった。
寒くないか聞けばよかった。
いつもの自分なら、そうした。
しかし口から出た言葉は違った。
「見せて」
言ったあと、息が止まった。
彼女も黙った。
心配だったから。
寒そうだったから。
理由はいくつも浮かんだ。
どれも口に出す気にはならなかった。
彼女は少し黙った。
「前なら言わなかった」
彼は頷いた。
「そうだね」
「……」
「嫌じゃない」
彼女は言った。
「でも、嬉しいと思った自分も少し嫌」
彼が、顔を上げた。
そして、手が触れた。
偶然ではあった。
しかし、避けることもできた。
物を渡すだけだった。
普通なら、一瞬で終わる。
けれど二人とも、離すべき瞬間に少し遅れた。
その短さだけが残った。
翌日、彼女がペンを差し出した。
彼は一度、手を出しかけた。
止まった。
彼女の指を避けるように、少し上を持った。
ペンだけを取るには、不自然な位置だった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、彼の手を見た。
「何」
「別に」
彼女は視線を戻した。
少しして、また別のものを渡された。
今度は彼女の方が、机の上に置いた。
手渡さなかった。
彼はそれを取った。
それだけだった。
会話は続いた。
前の日のことには触れなかった。
それなのに、その日は何かを受け渡すたび、二人の間に一度だけ小さな間ができた。
帰る時、彼女が鍵を持ち上げた。
「これ」
彼は手を出した。
彼女も差し出した。
二人とも、途中で少しだけ止まった。
結局、彼女は鍵を机に置いた。
彼はそこから取った。
数日後、部屋が少し暑かった。
彼女は話しながら袖をまくった。
一度。
もう一度。
布が肘の少し下で止まった。
彼は見た。
すぐに目を戻した。
「今、見た?」
彼女が言った。
「袖を」
「袖?」
「まくったから」
「うん」
彼女はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、袖が少しずり落ちた。
彼女はまた上げた。
今度は彼を見ながら。
彼は見なかった。
机の上に置かれた紙を見た。
文字を追った。
一行目を読んだ。
二行目まで行って、何も頭に入っていないことに気づいた。
彼女がコップを持つ音がした。
彼は顔を上げた。
袖はまだ上がったままだった。
次の日も普通に話した。
同じように笑った。
同じように帰った。
彼は以前よりも彼女を見ないようにした。
しかし、見ないことは忘れることではなかった。
見ない努力そのものが、彼女を意識している証明になった。
彼女が飲み物を置く音。
椅子に座る時の小さな動き。
名前を呼ばれた時の反応。
身体に残るものは、特別な瞬間だけではなかった。
その次に会った時、彼女の指に小さな傷があった。
紙で切ったらしい。
細い赤い線だった。
彼が気づくより先に、隣にいた人が言った。
「血出てる」
彼女は指を見た。
「あ、本当だ」
「絆創膏あるよ」
相手が鞄を探した。
彼女が手を差し出した。
彼はそれを見ていた。
相手が彼女の指を持った。
ほんの少し。
絆創膏を貼るためだけだった。
「自分でできるでしょ」
言葉が出た。
二人が彼を見た。
彼女も。
彼自身も、少し遅れて自分の声を聞いた。
「いや」
彼は言った。
「そのくらいなら」
何を続けるつもりだったのか分からなくなった。
相手は笑った。
「別にいいじゃん」
「そうだね」
彼も笑った。
彼女だけは笑わなかった。
絆創膏が貼られた。
その後、彼は一度も彼女の指を見ないようにした。
帰り際、
「さっき」
彼女が言った。
「何」
「なんであんな言い方したの」
彼は歩きながら答えた。
「傷、小さかったから」
「うん」
「わざわざ貼らなくても」
「そうじゃなくて」
彼は黙った。
彼女もそれ以上言わなかった。
家に帰ってからも、その場面だけが残っていた。
彼は水を飲んだ。
鞄を置いた。
服を脱いだ。
手を洗った。
蛇口を閉めたあとも、洗面台の前に立っていた。
傷が小さかったからだ。
そう思った。
本当に、それだけだった。
大げさにする必要がないと思っただけだ。
彼女が嫌がっていたように見えたから。
そこまで考えて、止まった。
彼女は嫌がっていなかった。
手を差し出していた。
彼はタオルで手を拭いた。
一度畳んだ。
また開いた。
濡れている場所を内側にして、もう一度畳んだ。
それでも頭から消えなかった。
相手の指が、彼女の指に触れていた。
ただそれだけだった。
次に会った時、彼は最初から彼女の手を見なかった。
顔だけを見る。
話している時も。
飲み物を取る時も。
彼女が髪に触れた時も。
見ない。
途中で彼女が黙った。
机の上に手を置いた。
以前、よく置いていた場所だった。
彼の視界の端に入った。
親指が少し動いた。
彼は見なかった。
しばらくして、また動いた。
彼女が言った。
「今日、全然見ないね」
彼は顔を上げた。
「何を」
彼女は自分の手を見た。
それから彼を見た。
「分かってるくせに」
彼は答えなかった。
「嫌だった?」
彼女が聞いた。
「何が」
「この前」
絆創膏はもうなかった。
傷だけが細く残っていた。
彼はそこを見た。
見てしまった。
彼女は、その瞬間だけ少し笑った。
「まだある」
そう言って、自分の指先で傷をなぞった。
彼は何も言わなかった。
「見ないようにしてる?」
彼女が聞いた。
「してない」
「また早い」
彼女は笑った。
彼も少し笑った。
けれど、その笑いの後、二人ともすぐには次の言葉を出さなかった。
彼は、しばらく会わない方がいいと思った。
予定を入れた。
返信も短くした。
次に会う話が出ても、日にちを決めなかった。
その週の終わり、彼女から、
「近くまで行く」
とだけ連絡が来た。
会うとは書いていなかった。
彼も、
「そうなんだ」
と返した。
それだけだった。
そのあと、部屋を片づけた。
机の上の紙をまとめた。
空になっていた飲み物を買いに出た。
彼女が以前飲んでいたものを手に取った。
レジへ向かう途中で止まった。
棚へ戻した。
別のものを取った。
少し歩いた。
戻った。
最初のものをもう一度取った。
家に戻ってから、自分が何をしているのか考えないようにした。
彼女からは、その日は何も来なかった。
冷蔵庫には、彼がほとんど飲まないものが一本増えていた。
数日後、彼女はまた来た。
冷蔵庫を開けた。
「これ」
彼女が一本取り出した。
「飲んでいい?」
彼は少し遅れて頷いた。
「いいよ」
彼女は蓋を開けた。
一口飲んだ。
「これ、好きなの覚えてた?」
「たまたま」
彼女は彼を見た。
何も言わなかった。
彼も見返した。
彼女の片方の手は、机の上にあった。
以前と同じ場所だった。
傷はもうほとんど見えなかった。
彼は一度だけ視線を落とした。
彼女の指が動いた。
右手の薬指に親指が触れる。
考えている時の癖だった。
彼は気づいた。
彼女も、彼が気づいたことに気づいた。
「また見てる」
彼女が言った。
今度は否定しなかった。
彼女も手を隠さなかった。
彼は触れなかった。
離れもしなかった。
そのまま少し話した。
彼女が帰ったあと、空になった容器が机の上に残っていた。
彼はそれを捨てた。
自分の手を洗った。
布団に入った。
目を閉じた。
最初に浮かんだのは顔ではなかった。
手だった。
もう見ない方がいいと思った。
次に会った時、自分が最初に何を探すのかも分かっていた。
間違っていると思った。
それでも、次に会った時、最初に探すものが見つからない方が嫌だった。



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