その夏、彼は冷蔵庫の麦茶をどこに置いたか思い出せなかった。
青い蓋の容器は、いつもの場所にあった。
右側の棚。
手前。
見れば分かる。
なのに、手を伸ばす前に少し迷った。
身体は覚えていた。
頭だけが遅れていた。
見つかった。
飲めた。
味はいつも通りだった。
だから、その朝のことは忘れた。
数日後。
駅へ向かう途中、近所の犬の名前が出てこなかった。
白い毛。
少し垂れた耳。
門の前の日陰。
毎朝そこにいる。
小学生の頃から知っている犬だった。
飼い主に聞いたことがある。
名前を呼んだこともある。
写真も残っている。
スマートフォンを開けば、名前は出てくる。
見れば分かる。
「ああ、そうだった」
と思う。
でも、最初にその名前を覚えた時のことだけがなかった。
夏だった。
蝉が鳴いていた。
毎年聞く音。
子どもの頃から聞いている音。
昔はうるさいと思っていた。
今も、うるさいと思う。
ただ、それだけだった。
夜。
窓を少し開けていた。
風を入れるためだった。
外から音が入ってくる。
車。
遠くの話し声。
どこかの家のテレビ。
虫の声。
小さな影が部屋へ入った。
蚊だった。
壁に止まる。
しばらく動かない。
六本の細い足が、壁紙のわずかな凹凸を拾う。
羽を一度だけ震わせる。
そして、また止まる。
彼は手で払った。
一度目は外れた。
二度目も逃げた。
三度目。
見失った。
その夜。
眠りに落ちる直前。
胸の奥で、小さな音がした。
羽音に似ていた。
けれど、耳ではなかった。
身体の内側で、そう感じた。
目を覚ます。
暗い部屋。
胸に手を置く。
心臓は動いている。
いつもの速さ。
いつもの音。
その近くで、一瞬だけ別の動きがあった。
朝
胸に小さな赤い跡があった。
蚊に刺されたような跡。
しかし、痒くなかった。
病院へ行くほどではなかった。
痛みもない。
熱もない。
生活は続けられた。
帰宅すると、以前はベランダへ出ていた。
いつから始めたのかは分からない。
夏の終わりになると、そうしていた。
暗くなる前の空を見る。
近所の音を聞く。
数分だけ立つ。
ある日。
玄関を閉め、そのまま部屋へ入った。
翌日も。
その次の日も。
一ヶ月後。
ベランダへ出ていたことを思い出した。
でも、なぜそうしていたのかは分からなかった。
祖母は昔、夏になると窓を閉めろと言っていた。
蚊に刺されるから。
それだけだった。
子どもの頃は面倒だと思っていた。
暑いのに窓を閉める理由が分からなかった。
祖母が本当に心配していたのか。
ただ昔からそう言っていただけなのか。
今となっては分からない。
ある夜
駅前の店で買い物をした。
レジ横に、小さな蚊取り線香が置いてあった。
彼はそれを手に取った。
店員が袋に入れながら言った。
「これ、毎年買う人多いんですよ」
少し笑った。
「うちも買ってるんですけど、去年どこに置いたか分からなくなって」
彼は何も言わなかった。
家に帰る。
蚊取り線香に火をつける。
煙がゆっくり広がる。
窓の外で虫が鳴いている。
いつもの夏の音。
壁を見る。
小さな蚊がいた。
細い足で、ゆっくり歩いている。
彼はしばらく見ていた。
叩こうとは思わなかった。
翌朝。
冷蔵庫を開けた。
麦茶はいつもの場所にあった。
青い蓋。
手前の棚。
彼はそれを取り出した。
飲んだ。
そのあと、空になった容器を洗った。
水を入れた。
茶葉を入れた。
冷蔵庫へ戻した。
何年もそうしてきたように。



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