小説– tag –
-
昨日の雨は誰のもの
駅前の薬局から「薬」の字が消え、代わりに雨が売られていた。撮ったはずの写真はなく、SDカードには見知らぬ女が写っている。ポケットに入れた青い石も、いつの間にか変わり始めていた。 -
娘が見ていない時間
朝、戸棚にあった青い洗剤は二本だった。夜、母の家へ戻ると三本になっている。電話は鳴る。皿はまだ乾ききっていない。母はいない。 -
帰るところ
買い物を終え、皿を洗い、夕方になる。「帰らないと」と家を出た女は、知っているはずの道を歩き続ける。 -
本日分、終了
この町では、一日に一度だけ、嘘が物になる。朝のうちに嘘を「消化」する習慣のなかで、「大丈夫」と答えたあとに現れた白い箱が、やがて町の当たり前を揺らしていく。 -
六畳、五十七デシベル
この街では、声の大きさで家賃が決まる。一デシベルにつき、月千円。声を小さくするほど暮らしは安くなり、話さなくても生活できる街で、私は少しずつ自分の声を使わなくなっていった。 -
洗濯物の共同生活
歯ブラシ、下着、牛乳、引き出し、傷、まだ温かいTシャツ。誰かと暮らすほどではない関係の中で、身体は少しずつ生活に残っていく。 -
一メートルあとで
その駅では、人の名前を呼ぶと、その人の身体が声のした方へ少し近づく。名前を知ったことで始まった一メートルの移動と、自分の足で選ぶ距離についての物語。 -
身体以外、出勤済
ある朝、私の影だけが先に会社へ行っていた。最初は席に座れば戻ってきた。やがて影は戻らなくなり、私が会社へ行かなくても、仕事だけは以前より正確に進み続けた。 -
ひとりぶんの空
私は、一日に七分だけ透明になる。見えなくなっても、身体はそこにあり、声も出る。人とすれ違い、席に座り、仕事をしながら、見えることと存在することの違いを少しずつ知っていく。 -
猫がいるなら、異常なし
閉館後の建物には、毎晩どこかに猫がいた。水漏れの前、閉まりきらない扉の前、そして何もない場所。警備システムが「異常なし」を記録し続ける夜、猫だけが別の何かを見ていた。 -
死んだものの呼び名
名前をつければ、それは何かになる。死んだ人、死体、河、溝口、山﨑。呼び名が揺れても、そこで起きたことと、残された身体だけは消えない。 -
見えたものから、順に助けた
絵を描くときだけ眼鏡をかける男。ある日、レンズに残った青い絵の具を通して、一本の木の周りにだけ降る雨を見つける。それから男は、色を変えながら、これまで見過ごしていたものに足を止めるようになる。 -
Collection: 彼女たちの時間
それぞれの時間をたどる13の物語。 -
誤字は感情として扱われません
生放送字幕の仕事をする私は、泣きそうな感情を「後ろへ送る」方法を覚えてきた。ある市民会館の閉館式典で、毎週水曜日に通い続けた女性の言葉と、字幕にできなかった数秒の沈黙に出会う。 -
傘をしまえない夜、私に恋愛は向いていない。
誰かを好きになることより、好きになった人の隣で、自分を失わない方法を知らなかった。近づきたいのに怖い。離れたいのに寂しい。二人分の人生を残したまま、一緒にいる距離を探す女性の短編。 -
雀の鳴く距離
外から聞こえていると思っていた雀の声は、部屋の中にあった。一羽を外へ出すと、今度はもう一羽が入ってくる。内と外、近さと遠さが何度も入れ替わる、二羽の雀との短い時間。 -
父がいなくなるので、鍋をする
父に残された時間は、あと三か月だった。それでも僕たちは旅行へ行かず、庭に水をやり、スーパーへ行き、鍋の肉を選んだ。限りある時間のなかで残っていく、何でもない一日の話。 -
一万語で死ぬ人生
言葉を使うたび、病変が進む。残された言語活動量は一万語前後。言葉を節約し始めた彼は、ある日「セミは一週間で死ぬ」という常識が正確ではないことを知る。 -
心のお腹は、人ひとり分
妹の心のお腹には、二十八本の歯があった。父と母が言わなかったことを食べるたび、家の中から争う声は消えていく。やがて妹は、そこに座ったまま家族の人数からいなくなった。 -
きょうがまだ帰ってこない
昨日のことは全部覚えている。でも、そこにいた自分だけが少し遠い。写真、レシート、木陰、ひぐらし、右手の感触。残されたものを辿りながら、昨日という他人から自分へ帰っていく。 -
声とアルブメンのあいだ
人は、顔を見る前に、その人を知ってしまうことがある。声、呼吸、体温、匂い。身体から先にこぼれたものが、触れるより前に誰かの内側へ入り込んでいく。 -
プリンは四回目もそこにいた
身体はベッドにあるのに、意識だけが先へ歩いていく。朝、人、理想の一日。現実に追いつけない身体のそばで、それでも「人生を楽しみたい」という感覚だけが残っていた。 -
いらんけど、俺が持っとく
楽しみにしていた店は、臨時休業だった。予定をなくした二人は、知らない道を歩き、青いボタンを拾い、壊れた傘のまま雨に濡れる。いらないはずの一日が、ポケットの中に残るまでの話。 -
黒く湿った、誰のものでもないあいだ
学校へ向かう途中にあった、小さな庭のような場所。猫が眠り、虫が潜り、草が光を受けていた。やがて土地は工事で姿を変える。それでも、そこにいたものたちの時間は完全には消えなかった。 -
それから、手渡さなくなった
見ないようにするほど、覚えてしまう。彼女の手、その癖、触れた一瞬。距離を守ろうとするほど、二人の間には消せないものが増えていった。 -
悲嘆検索結果
自分がいなくなった時、悲しむ人は何人いるのか。数字で存在を証明しようとした人間が、最後に見つけたものとは。 -
空白の羽根の手触り
その夏、彼は冷蔵庫の麦茶をどこに置いたか思い出せなかった。身体は覚えていた。頭だけが遅れていた。小さな羽音とともに、失われたものの輪郭が静かに浮かび上がる。 -
腐敗する世界で、僕だけが土になれない。
人は死んだ後、どこへ行くのか。少年は祖父の死をきっかけに、身体が消えることと、存在が消えることは同じではないと知っていく。森の中で見つけた腐敗したものは、終わりではなく、別の生命へ渡る途中の姿だった。 -
Loading: 不在確認
朝は始まっていた。冷蔵庫も洗濯機もテレビも動いている。それでも、ひとつひとつの日常にうまく接続できない。普通に戻ろうとする小さな行動の隙間から、言葉にならない危うさがこぼれていく朝の話。 -
住所、七文字先の月
透明な傘を一本持って出た男。逮捕時の告知から、七文字だけが抜けていた。小さな手続のずれは、記録、住所、警察、そして月の位置へと静かに重なっていく。
12
