出生時、私は複数形だった

施術台に横たわる人物と、床下で無数の身体へ枝分かれする白い光の線

赤の他人に、身体を預けたいと思う夜がある。

触れられたいのでも、治してほしいのでもない。

自分の身体を、自分だけで支え続けることに疲れた夜だ。

予約画面には、空いている時間と料金が並んでいた。

店名は《BODY COMMONS》。

施術内容の欄には、短く書かれていた。

身体負荷の分散。

その下に、小さな注意書きがあった。

分散先を利用者が指定することはできません。

意味は分からなかった。

肩が少しでも軽くなるなら、それでよかった。

最も短い枠を選び、名前と連絡先を入力した。

店は、駅から少し離れた雑居ビルの三階にあった。

一階の薬局は閉まっていた。

二階の窓には、何も書かれていない白い紙が貼られている。

エレベーターの操作盤には、三階だけ数字がなかった。

印のない場所を押すと、扉が閉じた。

上昇する感覚はなかった。

少しして扉が開く。

薄暗い廊下の先に、小さな看板が出ていた。

《BODY COMMONS》

受付にいた人が顔を上げた。

「ご予約のお名前をお願いします」

名前を告げる。

端末を確認したあと、その人は私の顔を見た。

「本日の身体は、ご本人のもので間違いありませんか?」

聞き間違えたのだと思った。

「はい」

「出生時から、継続して使用されていますか?」

冗談だと思い、少し笑った。

受付の人は笑わなかった。

「はい」

端末に緑色の印がついた。

痛む場所を尋ねられた。

肩。

首。

背中。

場所は分かる。

けれど、どのように痛むのかが分からなかった。

重い。

張っている。

鈍い。

詰まっている。

言葉を一つずつ当ててみる。

どれも間違いではない。

どれも十分ではなかった。

自分の身体のことなのに、その状態を正確には説明できない。

施術者は頷き、端末へ短く入力した。

その人は私の仕事を知らない。

生活も、過去も、ここへ来るまでに何があったのかも知らない。

私も、その人がどこで暮らし、どんな一日を終えてここにいるのか知らない。

それでも数分後には、私より先に、私の背中を見ることになる。

「身体負荷の分散に同意されますか?」

「マッサージですよね」

「一般的には、そう呼ばれています」

「どこへ分散されるんですか?」

「接続可能な身体です」

「誰の身体ですか?」

施術者は少し間を置いた。

「その質問には、あまり意味がありません」

通常施術へ変更できると言われた。

「何が違うんですか?」

「通常施術では、何も移りません」

「では、疲れは?」

「残ります」

私は同意欄へ指を置いた。

カーテンで仕切られた小さな部屋へ案内された。

着替えを渡される。

「準備ができたら、うつ伏せでお待ちください」

一人になる。

上着を脱ぐ。

シャツを脱ぐ。

眼鏡を外す。

財布、鍵、スマートフォンを籠へ入れる。

名前や住所や連絡先を証明するものが、身体から一つずつ離れていく。

渡された服へ着替え、細いベッドに横になった。

穴の空いた枕へ顔を伏せる。

見えるのは床だけだった。

床材の下を、細い白い線が流れていた。

水道管のようにも、血管のようにも見える。

ときどき途中で枝分かれし、壁の向こうへ消えていった。

自分の背中がどう見えているのか分からない。

肩の高さが違うのか。

背骨が曲がっているのか。

疲労がどこに現れているのか。

身体は自分のものなのに、自分より他人の方がよく見える場所がある。

扉を軽く叩く音がした。

「失礼します」

ベッドがわずかに沈んだ。

タオル越しに、手が背中へ置かれる。

触れられた瞬間、自分がどれほど力を入れていたのかを知った。

肩が上がっていた。

首が縮んでいた。

奥歯を噛んでいた。

指先まで、何かを持ち続けるように固くなっていた。

「力を抜いてください」

肩を下げる。

顎を緩める。

手を開く。

呼吸を深くする。

力を抜くために身体へ命令を出すほど、身体は固くなった。

「そのままで大丈夫です」

その言葉を聞いて、ようやく息が抜けた。

力を抜けなくてもいいと言われた瞬間、力が抜けた。

施術者の手が、肩甲骨の内側へ触れた。

床の下を流れていた白い線が、一斉に明るくなった。

「まだ何もしていません」

尋ねる前に、施術者が言った。

「身体が、接続先を探しています」

背中の奥で、何かが開いた。

穴ではなかった。

ずっと閉じていた扉が、身体の中に一枚だけあったのだと分かる感覚だった。

そこから冷たい空気が入り、知らない誰かの呼吸が聞こえた。

浅い呼吸。

速い心拍。

布が擦れる音。

遠くで鳴る警報。

私は顔を上げようとした。

「動かないでください」

施術者の手が背中を押さえた。

「誰かいます」

「います」

「どこに?」

「接続先です」

床の白い線が、壁の向こうへ伸びていく。

建物の外へ。

道路の下へ。

都市のさらに奥へ。

無数の光が、夜の下を流れているのが見えた気がした。

「負荷を送ります」

肩にあった重さが、わずかに動いた。

押し出されたのではない。

遠くから引かれた。

自分の中にあったものを、別の身体が受け取ろうとしている。

「待ってください」

「止めますか?」

肩はまだ痛かった。

首も固かった。

目の奥には、その日ずっと見ていた画面が焼き付いていた。

帰宅してからも消えなかった言葉が、頭の中を回り続けていた。

止めてほしいと思った。

同時に、このまま続けてほしいと思った。

「相手は、大丈夫なんですか?」

「接続可能な身体だけが選ばれます」

「誰が決めるんですか?」

施術者は答えなかった。

手の圧が少し強くなる。

背中全体へ広がっていた重さが、一箇所へ集められていった。

そこにあったのかと思った。

身体が、一枚の地図のように感じられた。

首の付け根。

肩甲骨の内側。

腰の少し上。

押されるたび、知らなかった地名が読み上げられる。

私はそこに住んでいたはずなのに、その土地の名前を知らなかった。

肩の重さが、もう一度引かれた。

今度は、白い部屋が見えた。

細い窓。

窓の向こうに広がる、赤い砂。

部屋には誰かが横たわっていた。

顔は見えない。

その人が、私の肩の痛みを受け取っていることだけが分かった。

次の瞬間、肩が軽くなった。

「今のは誰ですか?」

「未来側の接続です」

「未来?」

「現在だけが、身体を所有しているわけではありません」

意味を理解する前に、施術者の手が首へ移った。

今度は深い海が見えた。

海面の光は届かない。

暗い水の中で、巨大な生き物のようなものが呼吸していた。

その内部に、無数の身体が眠っている。

地上から送られてくる疲労を、夢も見ずに受け取っていた。

立ち続けた脚。

働き続けた手首。

飲み込まれた言葉。

人前で保留された涙。

それらが光の管を通り、海底へ沈んでいく。

「どうして、こんなことを」

施術者は答えなかった。

手が腰へ移る。

そこには、自分でも気づいていなかった重さがあった。

押されるたびに、身体の内側から何かが剥がれていく。

眠れなかった夜。

終わったあとに追いついた疲労。

説明できないまま残っていた苦しさ。

痛みだけではない。

身体が長いあいだ代わりに持っていたものが、少しずつ抜かれていった。

「これは、疲労だけですか?」

「身体が負荷と判断したものです」

「記憶も?」

「身体がそう判断すれば」

左肩が震えた。

白い部屋の人が、もう一度見えた。

今度は、その人がわずかに身を起こした。

顔は分からない。

けれど、私の痛みがその人のものになったことだけは分かった。

肩が、怖いほど軽くなった。

自分の重さが、自分から離れていく。

そのたび、遠くで誰かが息を吸った。

知らない子ども。

病室で朝を待つ人。

海底で眠る身体。

まだ生まれていない誰か。

私は、自分の身体を自分だけで支えてきたつもりだった。

けれど、軽くなるということは、重さが消えることではなかった。

行き先が見えなくなるだけだった。

「止めてください」

手が止まった。

「中止しますか?」

「送ったものを戻せますか?」

「できます」

「誰から?」

「接続された身体から、少しずつ」

白い部屋の人。

海底で眠る身体。

遠くの誰か。

そこから自分の疲労を回収する場面を想像した。

軽くなった肩へ、再び重さが戻る。

一度渡したものを、自分のものだから返せと言う。

それが正しいのか分からなかった。

「あなたには、何も移らないんですか?」

施術者の手首が、わずかに震えた。

「移ります」

「何が?」

「選択です」

その人は言った。

「どの身体へ、何を送ったか。それだけは、こちらに残ります」

初めて、施術者の身体を見ようとした。

顔は見えない。

けれど、指の節は硬く、右肩は左より少し下がっていた。

誰かを軽くするたび、別の誰かを重くする。

その判断だけを、施術者は身体へ残している。

「続けますか?」

床の下では、無数の光が流れていた。

誰かが眠るたび。

誰かが働くたび。

誰かが泣くことを後回しにするたび。

負荷は行き先を探していた。

ひとりでは持てない重さを、見えないほど薄くして、別の身体へ渡していく。

「続けてください」

私は言った。

施術者の手が、再び背中へ置かれた。

「今度は、受信を含みます」

「何が来るんですか?」

「空いているものです」

意味を尋ねる前に、身体が重くなった。

最初に来たのは、知らない人の眠気だった。

次に、長く立ち続けた脚の震え。

誰かが言えなかった謝罪。

病室で朝を待った人の浅い呼吸。

白い部屋で赤い砂を見続けていた人の孤独。

それらは雨の粒のように、少しずつ身体へ落ちてきた。

肩。

胸。

手のひら。

瞼。

どれも自分のものではない。

それでも身体は、所有者を区別しなかった。

痛みには名前がない。

疲労も、どこから来たのかを説明しない。

身体へ入った瞬間、すべてが自分の感覚になった。

「苦しいですか?」

「分かりません」

本当に分からなかった。

自分の苦しさではない。

けれど、自分が感じている。

他人のものだと知っていても、身体の内側では分けられない。

「止めますか?」

私は首を振った。

重くなるほど、自分の輪郭が曖昧になった。

どこまでが今日の疲労で、どこからが他人なのか。

背中にあるものは、昨日のものなのか。

遠い未来から来たものなのか。

分からない。

それでも、自分だけで支えていると思っていたときほど孤立してはいなかった。

私は床を見ていた。

施術者は私の背中を見ていた。

同じものは見ていない。

それでも、無数の身体が接続された一つの風景の中にいた。

「人間は、どこまで一つの身体なんですか?」

私は尋ねた。

施術者は、私の肩へ手を置いた。

「どこまでを、自分だけで支えたいですか?」

それが答えだった。

「仰向けになってください」

身体を起こし、向きを変える。

自分で動いた瞬間、重さが戻ってきた。

けれど、それはもう自分だけの重さではなかった。

腕を持ち上げる。

脚をずらす。

頭を枕へ置く。

天井には、薄い照明と換気口、小さな染みがあった。

その染みが、夜の地球に見えた。

都市の光から、細い線が伸びている。

地下へ。

海へ。

まだ存在しない時間へ。

「痛くないですか?」

腕を伸ばされながら、尋ねられた。

「大丈夫です」

今度は、本当にそう思った。

施術が終わる頃、意識が何度か途切れた。

そのたびに、知らない場所で目を覚ました。

白い部屋。

海底の暗闇。

雪に埋もれた道路。

窓のない寝台。

どの身体にも完全には入れなかった。

けれど、どの身体からも完全には離れられなかった。

「以上です」

背中から手が離れた。

触れられていた場所へ、冷たい空気が入る。

床下の光は消え、部屋はただの施術室へ戻った。

「ゆっくり起きてください」

一人になっても、すぐには起き上がれなかった。

身体を自分へ戻す方法が分からなかった。

指を動かす。

腕を曲げる。

足を床へ下ろす。

そのたび、遠い場所で誰かが同じ動きをした気がした。

着替える。

眼鏡をかける。

財布と鍵とスマートフォンをポケットへ戻す。

名前や予定や連絡先が、再び身体へ接続される。

鏡に映っているのは、いつもの顔だった。

けれど、それが一人分の身体に属しているようには見えなかった。

受付で料金を支払った。

「本日の接続記録を保存しますか?」

受付の人が尋ねた。

「保存すると?」

「次回、同じ接続先を優先できます」

白い部屋。

海底。

知らない眠気。

誰かの謝罪。

すでに少しずつ薄れていた。

私は保存を選んだ。

店を出る。

エレベーターの鏡に、自分が映った。

肩は軽くなっていた。

その代わり、身体のどこかに、知らない重さが増えていた。

胸の奥に浅い呼吸がある。

左脚には、長く立ち続けたあとの震えがある。

喉には、言わなかった謝罪が引っかかっている。

どれも自分の記憶にはなかった。

けれど、身体の中では、最初から自分のものだったように馴染んでいた。

駅へ向かって歩く。

信号の向こうに、知らない人が立っていた。

その人が左肩へ手を置いた。

同じ瞬間、私の肩にも小さな痛みが走った。

信号が青になる。

互いに歩き出す。

すれ違う直前、その人は私の顔を見た。

何かを確かめるような目だった。

私は声をかけなかった。

その人も何も言わなかった。

通り過ぎてから振り返る。

もう、どの人だったのか分からなかった。

帰宅し、玄関の鍵を開ける。

靴を脱ぐ。

鞄を置く。

鏡の前に立つ。

そこにいるのは、いつもの自分だった。

けれど右手を上げようとすると、左手が先に動いた。

息を吸おうとすると、自分より少し早く、胸の奥で誰かが息を吸った。

身体の内側に、いくつかの動作が重なっていた。

どれが自分のものなのか、確かめようとした。

名前を言う。

住所を言う。

今日の日付を言う。

それらはすべて正しかった。

それでも、身体だけが返事をしなかった。

スマートフォンが点灯した。

《BODY COMMONS》から通知が届いていた。

接続記録を保存しました。

その下に、見覚えのない項目が追加されていた。

使用中の身体:複数

画面を閉じる。

もう一度開く。

表示は消えていた。

鏡を見る。

自分の顔がある。

その奥で、ほんの一瞬だけ、知らない誰かが瞬きをした。

私は目を閉じた。

暗闇の中で、白い部屋と、海底と、雪に埋もれた道路が同時に見えた。

遠い場所で、誰かが腕を上げた。

私の腕も、遅れて持ち上がった。

出生時から、自分の身体を一人で使っていたのだと思っていた。

その証明を求められたことは、一度もなかった。

コメント

コメントする