疲れた日は、語彙が減る。
満腹になると、未来が遠ざかる。
十七歳のとき、彼女は自分の三か月後を運んでいた。
透明な袋に封をされ、保冷剤と一緒に黒い箱の底へ収められている。
表面には、食品表示に似たラベルが貼られていた。
品名――中期構想
由来――複数
所有者――照合中
保存温度――四度以下
使用期限――発生前まで
その上に、焼き魚弁当と唐揚げ弁当を二つずつ載せた。
検問で蓋を開けられても、夜勤者へ届ける食事にしか見えない。
実際、食事も届ける。
「次は病院?」
運転席の男が訊いた。
彼女は配送票を折り直した。
「裏口。夕食二十四。語彙が七箱。そのあと港」
「三か月後は?」
「港」
「中身、見た?」
「見えません」
「そうじゃなくて」
「見てません」
男は笑い、膝の上に隠していたパンを一口かじった。
包装には、商品名も原材料も書かれていなかった。
「それ、何ですか」
「朝食」
「まだ夜です」
「食べれば朝になる」
男はパンを口へ押し込み、ラジオをつけた。
地名の伏せられた地域で輸送路が途切れたこと。
離脱者が前日より減ったこと。
夜間の供給能力は維持されていること。
死者の数は読まれなかった。
窓の外を、明かりの消えた店が流れていく。
薬局。
クリーニング店。
家具屋。
コインランドリー。
道路には車が残っていた。
救急車。
配送車。
タクシー。
送迎車。
警備会社の白い軽自動車。
信号が赤になる。
交差点の向こうに、人々が並んでいた。
介護士。
配達員。
運転手。
制服の上からコートを着た会社員。
誰も話さず、コンビニの袋や紙コップを持っている。
一人の男が豚汁を飲んでいた。
窓越しに目が合った。
「昨日、二年先まで食べちゃってさ」
声が聞こえた気がした。
男は笑っていた。
笑うには、少し疲れすぎた顔だった。
信号が青になる。
車が動き出すと、男は紙コップの縁へ顔を隠した。
「知り合い?」
「違います」
彼女は保冷箱へ手を置いた。
底で三か月後が震えた。
左肩も、ほとんど同時に震えた。
深く息を吸おうとすると、自分より少し遅れて、もう一つ呼吸が入ってくる。
泣く前に声を止めるような呼吸だった。
彼女は肩を押さえた。
「また来た?」
男が訊いた。
「何が」
「誰か」
彼女は手を離した。
「知りません」
男は前を向いたまま、パンの残りを食べた。
「知らない方が長く働ける」
十五歳のとき、彼女は三日間、まともに食べていなかった。
パンを一度。
水は何度か。
あとは眠っていた。
受付票の年齢欄には、十五と記入されていた。
その下には、別の数字が印刷されている。
負荷許容量――成人六人分
夜になると、寝台の周囲へ細い管が伸びてきた。
立ち続けた脚。
抱き上げ続けた腕。
言葉を飲み込んだ喉。
帰宅してから泣くことにした胸。
辞めると決めたのに、翌朝も制服へ袖を通した身体。
朝になると、管は外された。
誰かは軽くなり、仕事へ戻った。
彼女は重くなって目を覚ました。
食事は出なかった。
廊下の突き当たりに、古い食券機が置かれていた。
表示されている料理は一つだけだった。
替え玉
麺もスープもないのに、替え玉だけがある。
価格欄には、金額の代わりに文字が表示されていた。
三か月後の構想
彼女は受付の女へ訊いた。
「三か月後に何もなければ、無料ですか」
女は端末から目を上げなかった。
「こちらで確認します」
「何もないと思います」
「皆さん、そう言います」
「食べたら、何がなくなりますか?」
女は自分の左手首を押さえた。
そこだけ、制服の袖が擦り切れていた。
「考えなくてよくなります」
十五歳の彼女には、それで足りた。
三か月後より、空腹の方が具体的だった。
食券機へ指を置く。
読み取り音が鳴る。
一枚の券が落ちてきた。
替え玉
一名分
食堂には誰もいなかった。
厨房の奥で、鍋の蓋だけが鳴っている。
店員は麺を茹で、白い丼へ入れた。
スープはない。
具もない。
湯気だけが立っていた。
彼女は箸を取った。
一口目で、手の震えが止まった。
二口目で、頭の中にあった何かが遠ざかった。
三口目で、誰かと会う約束を忘れた。
誰だったのかは、その時点ですでに分からなかった。
食べ終える頃には、どこかへ逃げようとしていたこと自体が曖昧になっていた。
どこから、どこへ。
誰と。
何を持っていくつもりだったのか。
なぜ。
ただ、満腹だった。
「ごちそうさまでした」
店員は伝票へ印を押した。
「それで?」
「何がですか?」
「食べたあと」
彼女は空の丼を見た。
食べたあとは、満腹になる。
それ以外に何があるのか分からなかった。
「寝ます」
店員は頷いた。
「皆さん、そうなります」
その夜、彼女はよく眠った。
六人分の疲労を身体へ入れたまま、夢も見なかった。
翌朝、枕元に紙が落ちていた。
自分の字で、住所が書かれている。
その下に、一行だけあった。
三か月後、全員で――
紙の下半分は濡れていた。
彼女は丸めて捨てた。
病院の裏口へ着いたのは、午前二時を過ぎてからだった。
配膳室には、手をつけられなかった食事が並んでいた。
白い粥。
煮魚。
冷えた味噌汁。
皮を剥かれたままの林檎。
白衣の女が配送票へ署名した。
年齢の分からない顔だった。
「夕食はそこ。語彙は冷蔵庫。三か月後は持っていって」
「ここで受け取りでは?」
「変更になった」
女は端末を彼女へ向けた。
配送先――港湾第六保管区
備考――兵站転用可
「誰のものですか?」
「照合中」
「何人分?」
「分からない」
「同意は?」
女が顔を上げた。
少しだけ笑った。
「その言葉、まだ持ってるのね」
「何ですか?」
「ここでは先に失くすから」
女は冷えた味噌汁を一口飲み、顔をしかめた。
「まずい」
「それは残るんですね」
「味覚は安いから」
容器を流しへ捨てようとして、女は手を止めた。
もう一度口をつけた。
飲み込めず、やはり捨てた。
「食べた方がいい」
「現金がありません」
「未来で払えば」
彼女は保冷箱の持ち手を握った。
女の首元には、十五歳の施設と同じ形のカードが下がっていた。
端が擦れ、写真だけが剥がされている。
「前に会いましたか。十五歳のとき」
女は食器を重ねた。
「皆、よく眠っていた」
「食券を渡しましたか?」
「機械が渡した」
「誰が設定したんですか?」
奥の扉で台車が鳴った。
女は振り返る。
「次の配膳が来る」
もう彼女を見なかった。
病院を出ると、配送車は消えていた。
運転手の男もいない。
路肩には、黒い保冷箱だけが置かれている。
配送票に、新しい文字が増えていた。
単独搬送
彼女はしばらく待った。
車は戻らなかった。
港まで歩くことにした。
タクシーの助手席に、包装を半分剥がしたおにぎりがあった。
閉店前のスーパーでは、弁当に黄色いシールが貼られていた。
彼女の腹が鳴った。
保冷箱の中には食事がある。
ひとつ抜いても、数は合うかもしれない。
唐揚げ弁当を取り出す。
裏面のラベルを見る。
原材料名の下に、小さな文字が並んでいた。
抗議語彙 中等量
離職意思 微量
将来構想を含む場合があります
蓋を戻した。
歩き続ける。
左肩の痛みが強くなった。
知らない部屋。
白い壁。
横たわっている身体。
その人の手を、誰かが握っている。
「大丈夫ですか?」
そう訊かれた感覚だけが入ってくる。
答えた声は彼女のものではなかった。
痛みは彼女の肩にあった。
胸ポケットの端末が、一度だけ光った。
経由――BODY COMMONS
内容――身体負荷の分散
状態――正規接続
最後の行は、指で触れる前に消えた。
肩の奥で、知らない誰かが息を吸った。
彼女も少し遅れて、同じだけ吸った。
港湾第六保管区は、廃業した結婚式場だった。
正面には、色褪せた花の装飾が残っている。
自動ドアは動かず、片側だけが開け放たれていた。
中へ入る。
披露宴会場に、保冷庫が並んでいる。
白い円卓。
錆びた計量器。
シャンデリア。
輸送箱。
新郎新婦の席だった壇上には、横長の電光板が吊られていた。
好きこそものの上手なれ
しばらくして、文字が消える。
石の上にも三年
また消える。
働かざる者食うべからず
最後に、
明日は明日の風が吹く
と表示された。
壇上の下に、少女が座っていた。
冷めたフライドポテトを食べている。
彼女より幼く見えた。
制服のような服を着ているが、校章はない。
片方の袖だけを、手の甲まで引き下げていた。
「受取人ですか?」
少女は首を振った。
「何をしているんですか?」
「食べてる」
紙容器を差し出す。
「いる?」
「いりません」
少女は肩をすくめ、冷えた一本を噛んだ。
「それ、三か月後でしょ」
保冷箱を指している。
「なぜ分かるんですか?」
「匂いがする」
「匂いはありません」
「食べたことないの?」
少女は笑った。
「昨日、二年先まで食べちゃってさ」
交差点の男と同じ言葉だった。
「誰から聞いたんですか?」
少女は少し考えた。
「お腹に入ってた」
「受取人を呼んでください」
「もう来てるよ」
少女は彼女を見た。
「あなた」
照明が消えた。
非常灯だけが残る。
保冷箱の底で、三か月後が震え始めた。
彼女の胃も同じ間隔で収縮する。
白い麺。
湯気。
捨てた紙。
十五歳の自分の字。
三か月後、全員で――
「これは私のものですか」
少女は答えなかった。
塩のついた指を舐める。
非常灯の下で、その舌だけが妙に赤かった。
「その紙、捨てたでしょ」
「見ていたんですか?」
「食べた」
「何を」
「続き」
会場の奥で靴音がした。
しばらくして、白衣の女が現れた。
病院で外していたコートを着ている。
その後ろに数人の男がいた。
運転手もいる。
彼は彼女と目を合わせず、包装のないパンを食べていた。
「箱を渡して」
白衣の女が言った。
「十五歳のとき、何を取りましたか?」
「麺を渡した」
「何を取りましたか?」
女はテーブルの上の皿を動かした。
裏から、古い紙片が出てきた。
十五歳の彼女が捨てた紙だった。
残っているのは、上半分だけだった。
三か月後、全員で――
「続きを返してください」
「あなたが食べた」
「食べさせた」
「選んだのはあなた」
女はそう言って、運転手が持っていた紙コップを受け取った。
その手首に、薄い痣があった。
十五歳の施設で見た、擦り切れた袖の下と同じ場所だった。
湯気が上がっている。
「冷えたでしょう」
差し出されたカップには、商品名が印刷されていた。
本日のおすすめ
諦めやすい豚汁
「飲んで。箱を渡して。朝には帰れる」
彼女は受け取った。
味噌と生姜の匂い。
両手が温まる。
腹が鳴る。
「代金は」
「今夜の判断だけ」
少女が紙容器の底を覗き込んだ。
「また食べるの?」
「黙って」
女が少女へ言った。
「この子は誰ですか?」
「保管中」
「何歳」
「年齢はない」
少女は最後の一本を食べた。
「十五だよ」
女は少女を見なかった。
「食べて」
豚汁の湯気が、彼女の顔へ触れる。
左肩が痛む。
十五歳の空腹。
十七歳の手。
まだ来ていない年齢の呼吸。
彼女はカップを口元へ運んだ。
湯気の向こうに、港の保冷倉庫が見えた。
十八歳か十九歳の彼女が、未来を積んだトラックの前に立っている。
髪は今より短い。
左肩に傷がある。
彼女らしき人物は、輸送箱を一つずつ開けている。
退職意思。
告発。
逃亡計画。
未送信の謝罪。
生まれなかった作品。
誰かと暮らすはずだった部屋。
使われなかった名前。
それらを前線へ送らず、別の箱へ移している。
宛先は病院。
工場。
学校。
配送センター。
介護施設。
警備室。
眠っている人々の枕元。
一つだけ、足元へ除けられた箱がある。
十五歳 一名分
制服姿の男が、彼女らしき人物へ何かを向けていた。
「それを返せば、続かない」
人物は十五歳の箱を抱える。
「何が?」
「全部だ」
「始まってたんですか?」
「食べただろう」
「食べました」
「それで?」
人物は箱の蓋を開けた。
「まだ空腹です」
十七歳の彼女は、豚汁を飲まなかった。
カップを床へ置く。
中身がこぼれ、古い絨毯へ染み込んだ。
男たちの表情が変わる。
白衣の女だけが、こぼれた豚汁を見ていた。
「判断を放棄する権利もあります」
女が言った。
「それを判断させるんですね」
「疲れているでしょう?」
「はい」
「満腹になれば、楽になる」
「知っています」
彼女は保冷箱を開けた。
透明な袋を取り出す。
品名――中期構想
由来――複数
所有者――照合中
使用期限――発生前まで
軽かった。
三か月後には、ほとんど重さがない。
それでも、両手で持たなければならなかった。
「開ければ戻せない」
女が言った。
「どこへ送る予定でしたか?」
「必要な場所」
「誰に」
「明日も動く人たちに」
「何をさせるんですか?」
女は答えなかった。
「あなたは、食べたんですか?」
女の左手が止まった。
「何を?」
「自分の続き」
男たちが一歩近づく。
運転手だけが、その場に残った。
パンを食べ終え、指についた欠片を舐める。
「知らない方が長く働ける」
彼女は袋を破った。
音はしなかった。
何も飛び出さなかった。
光も、煙も、液体も出ない。
ただ、会場のどこかで一斉に息を吸う音がした。
次に、街の遠くで複数の端末が点灯した。
電光板の文字が消える。
しばらく何も映らなかった。
やがて、短い一行が現れた。
次回勤務――未定
運転手が端末を見る。
「勤務表が」
男の一人が扉へ走る。
保冷庫のランプが順番に落ちていく。
港のクレーン。
病院の配膳室。
配送センター。
介護施設。
警備会社。
工場。
通信局。
街のあらゆる勤務表から、三か月後が消え始めていた。
「続きは何だったんですか?」
彼女は訊いた。
白衣の女は、十五歳の紙片を見ていた。
少女が代わりに答える。
「休む」
「違う」
「逃げる」
「違う」
「辞める」
彼女の胃の奥で、言葉が動いた。
運ばない。
作らない。
看護しない。
警備しない。
返信しない。
痛みを送らない。
彼女はようやく思い出した。
「全員で、何もしない」
白衣の女が目を閉じた。
左手首を隠していた手が、ゆっくり下りた。
少女は、嬉しそうでも悲しそうでもなかった。
「お腹に残ってたね」
警報が鳴った。
彼女は走った。
厨房を抜ける。
大量の皿。
配給用の鍋。
積まれた乾麺。
未来のラベルが貼られた保存容器。
裏口の鍵は閉まっていた。
左肩からぶつかる。
一度。
二度。
三度目で扉が開いた。
港の風が入ってくる。
背後で誰かが叫んでいた。
彼女は振り返らなかった。
港の道路を走った。
背後で警報が続いている。
胸ポケットの端末が何度も振動する。
画面には、短い文字が並んでいた。
配送不能
勤務予定消失
接続解除
受入先不明
左肩の痛みが少し軽くなった。
代わりに、遠くで誰かが目を覚ました感覚がした。
始発前の街が、岸壁の向こうで光っている。
三か月後に何が起きるのかは分からない。
十五歳の自分が何を望んでいたのかも、完全には戻らなかった。
道路沿いに、古い立ち食いうどん店があった。
明かりがついている。
彼女は中へ入った。
店主が眠そうな顔を上げる。
「何にする?」
壁に短い品書きが並んでいた。
かけ。
きつね。
天ぷら。
替え玉はない。
未来の表示もない。
「かけを一つ」
自分の声だった。
店主が麺を湯へ入れる。
湯気が上がる。
出汁の匂いがする。
テレビでは、複数の施設で勤務記録が消えたと報じられていた。
港湾部で保管物が流出。
配送網の一部が停止。
身体負荷の接続先が不明。
当局は関係者の行方を調査。
店主が丼を置いた。
「大変なことになってるな」
「そうですね」
「戦争かね」
彼女は箸を取った。
「まだ分かりません」
「これで終わるのか」
彼女は少し考えた。
「始まったのかも」
店主は笑った。
彼女はうどんを食べた。
一口目。
温かい。
二口目。
出汁の味がした。
三口目。
何も忘れなかった。
少なくとも、すぐには。
食べ終えたあと、店主が空になった丼を見た。
「それで?」
彼女は左肩へ触れた。
十五歳の空腹。
十七歳の夜。
十八歳か十九歳の、まだ自分のものではない手。
言葉は多くなかった。
それでも、一つだけ言えた。
「まだ、満腹ではありません」


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