前の日、楽しみすぎて眠れなかった。
翌朝、目的地まで来たら、店は閉まっていた。
彼女は「臨時休業」の紙を読んで、僕より先に笑った。
「笑うところ?」
「だって」
「昨日、寝てないんだけど」
「それは知らない」
入口のガラスに、白い紙が四隅だけテープで留められている。
臨時休業。
理由はない。
日付だけが、今日だった。
僕は念のためガラス越しに中を覗いた。
椅子は机の上に逆さに載せられ、照明も消えている。
「ほんまに休みやな」
「臨時休業って書いてあるからね」
「もしかしたら奥にいるかもしれん」
「いたとしても休みでしょ」
正しい。
朝の電車でも、彼女は向かいの窓に映った僕を見ていた。
「眠そう」
「寝てないから」
「何してたの」
「今日のこと考えてた」
「そんなに?」
「楽しみな予定あると寝れへん」
「小学生?」
そのときも笑われた。
昨夜、布団の中で何度も順番を並べた。
店へ行く。
中を見る。
少し歩く。
時間があれば何か食べる。
最初の一つだけが、ガラス一枚向こうに残っている。
彼女が鞄の紐を肩に掛け直した。
「どうする?」
「分からん」
「私も」
どちらもスマートフォンを出さなかった。
道路の向こうをバスが通る。
店の横に、駅から来たときには見ていなかった細い道があった。
「とりあえず歩く?」
「どっち」
「こっち」
「何かある?」
「知らん」
「じゃあ行こう」
店の脇を抜けると、すぐ住宅地になった。
ベランダいっぱいの植木鉢。
前輪だけ外された自転車。
衣装ケースを植木台にしている家。
閉じたシャッターには、塗り直す前の店名が薄く残っている。
二階の網戸の向こうに猫がいた。
僕らが通り過ぎても、首だけを動かして追ってくる。
「ずっと見てる」
「監視されてるな」
「何したの」
「臨時休業の店に来た」
「罪が弱い」
猫は最後まで動かなかった。
角を曲がる。
家。
駐車場。
自動販売機。
細い用水路。
宅配便の車。
「この道で合ってる?」
「どこに?」
「知らない」
「じゃあ合ってる」
自動販売機の横で、彼女が急に足を止めた。
「これ」
足元に青いボタンが落ちていた。
一センチほどの、小さな丸。
端が少し欠けている。
四つある穴の一つから、白い糸が短く伸びていた。
彼女がしゃがむ。
「誰のだろう」
「服の人」
「それは分かる」
「じゃあ聞かないで」
「どんな服だったと思う?」
「知らん」
「紺のコート」
「青やのに?」
「だから」
「何がだからなん」
彼女は拾ったボタンを僕の掌に置いた。
「はい」
「何」
「今日の記念」
「いらん」
「せっかく来たのに閉まってた記念」
「なおさらいらん」
返そうとすると、彼女は両手を背中に回した。
仕方なくポケットへ入れた。
「捨てないの?」
「今ここで捨てたら、また落ちてるだけやん」
「じゃあ持って帰るんだ」
「一旦」
また歩いた。
十分ほどしても、何もなかった。
「何もないね」
「びっくりするくらい何もないな」
「選んだ道、失敗じゃない?」
「何かを目指してないから失敗ではない」
「便利な考え方」
彼女が道路脇の低いコンクリート壁に腰を下ろした。
「もう休む?」
「ちょっと座りたい」
「俺、もうちょい先行きたい」
「行ってきたら」
「一人で行くほどではない」
彼女が横に置いた鞄を持ち上げた。
僕も座る。
向かいの家では、白いシャツの袖が風に押されていた。
物干し竿に巻きついて、外れて、また巻きつく。
スーパーの袋を左右に一つずつ持った男が通り過ぎる。
彼女が靴の先で小石を転がした。
「こういうの、嫌いじゃない」
「何が」
「予定なくなるの」
「なんで」
彼女がこちらを向いた。
その向こうから、大きな白い犬が現れた。
「あれ見て」
「でか」
「かわいい」
「熊みたい」
「犬に失礼」
犬は飼い主より半歩前を歩き、僕らには一度も顔を向けなかった。
角を曲がって、白い尻尾だけが消えた。
彼女が立ち上がる。
「行こ」
「さっきの続きは?」
「何だっけ」
「予定なくなるの嫌いじゃないって」
「ああ」
「なんで」
「犬来たから忘れた」
「犬すごいな」
それ以上は聞かなかった。
今度は彼女が先を歩いた。
三つ目の角を曲がると、小さな店があった。
入口の黒板には、
COFFEE
TEA
SANDWICH
その三つだけ。
「ここ入る?」
「情報少な」
「今日に合ってる」
「何が」
「知らん」
「そればっかり」
扉を開ける。
客は二人だった。
僕はコーヒー。
彼女は紅茶。
サンドイッチを一つ頼んだ。
最初から二つに切られていたので、何も言わず一つずつ取った。
「普通だね」
「普通やな」
「でも悪くない」
「うん」
コーヒーも普通だった。
「最初の店より、こっちの方が良かったりして」
「向こう行ってないから分からん」
「じゃあ次行ったら比べよう」
僕はカップを置いた。
「次?」
「何」
「いや」
彼女はもう紅茶を飲んでいた。
僕も飲む。
一口目と同じ味だった。
店の奥に、小さな本棚があった。
食べ終わると、彼女が立った。
「ちょっと見てくる」
「うん」
薄い本を一冊抜く。
数ページ読んで戻す。
別の本を手に取ったあと、また最初の本へ戻った。
僕は冷めたコーヒーを飲みながら見ていた。
もう一度、同じ本を抜く。
彼女が顔を上げた。
目が合う。
「何」
「何も」
「ずっと見てたでしょ」
「見てた」
「怖」
「三回同じ本取るから」
「数えてたの?」
「暇やった」
「怖」
彼女はその本を持って戻ってきた。
「買うの?」
「迷ってる」
「買えば」
「そう言われるとやめたくなる」
「めんどくさ」
「そういう人です」
しばらくして、彼女は本を棚へ戻した。
「買わんの?」
「うん」
「三回も取ったのに」
「三回取ったからって買うとは限らない」
「そうなんや」
「そうです」
会計をして外へ出た。
入ったときより空が暗かった。
数分歩くと、細かい雨が落ちてきた。
彼女が鞄から折り畳み傘を出す。
「持ってるやん」
「えらいでしょ」
「珍しい」
「失礼」
開いた瞬間、一本だけ骨が逆方向を向いた。
「あ」
「壊れてるやん」
「昨日は普通だった」
「今日はそういう日やな」
彼女が骨を押す。
戻らない。
「貸して」
「直せる?」
「たぶん」
「その言い方信用できない」
傘を受け取って金具を触った。
隣の骨が歪んだ。
「あ」
「増えた」
「元からかもしれん」
「絶対今」
その瞬間、風が吹いた。
傘が音を立てて、きれいに裏返った。
彼女が固まる。
一秒遅れて、二人とも笑った。
「もう閉じよ」
「雨降ってるけど」
「差してる方が被害出てる」
傘を閉じた。
閉じても少し曲がっていた。
そのまま濡れて歩く。
雨脚は強くならない。
彼女が水たまりを大きく避けた。
避けた先の、小さな水たまりを踏んだ。
「あ」
白い靴下の先が、じわっと灰色になる。
「今の完璧やったな」
「うるさい」
「一個目めっちゃ丁寧に避けたのに」
「見てた?」
「見てた」
「最悪」
駅まで歩いた。
ホームで電車を待つ。
彼女の片方の靴下だけ、まだ濃い。
僕の袖もところどころ雨を吸っていた。
電車が来る。
二人分の席が空いていた。
座った途端、朝から少し後ろを歩いていた眠気が追いついてきた。
「寝たら?」
「寝るかも」
「昨日寝てないもんね」
「誰のせいやと思ってる」
「知らない」
「今日のせい」
「今日が楽しみで昨日寝なかったんでしょ」
「そう」
「じゃあ自分のせい」
「臨時休業に言って」
彼女が笑った。
電車が動く。
背もたれに頭を預け、目を閉じた。
「そういえば」
また開ける。
「ん」
「今日、どこ行く予定だったっけ」
口を開く。
店の名前が出てこない。
「あれ」
「忘れた?」
「待って」
「昨日寝れないくらい楽しみだったのに?」
「名前だけ」
「名前忘れたの?」
「出てこんだけ」
彼女が笑う。
数秒して、やっと出てきた。
僕が店の名前を言う。
「ああ、それ」
彼女も思い出したように言った。
それだけだった。
ポケットに手を入れる。
指に小さく硬いものが触れた。
青いボタン。
掌に出す。
「まだ持ってたの」
「捨てるところなかった」
「今日の記念でしょ」
「違います」
「じゃあちょうだい」
「なんで」
「いらないんでしょ」
「いらんけど」
「じゃあ」
少し考える。
「これは俺が持っとく」
「いるんじゃん」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題?」
「知らん」
彼女が笑った。
僕の掌に指を伸ばし、ボタンを一度だけ転がす。
裏返る。
「こっち、全然青くないね」
「ほんまや」
表よりずっと薄い。
糸の残った穴の周りだけ、少し色が違っている。
彼女はもう触らなかった。
僕はポケットへ戻す。
電車が次の駅に停まる。
人が降りる。
人が乗る。
扉が閉まる。
「次、あの店開いてるかな」
「調べとく」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「前の日に?」
「前の日に」
「また寝ないんでしょ」
「たぶん」
少し間があく。
「次は昼からにする?」
「それなら寝れるかも」
「ほんとに?」
「たぶん」
彼女が笑う。
僕はもう一度、背もたれに頭をつけた。
今度は目を閉じなかった。
駅で電車を降りる。
改札を抜ける。
彼女の鞄から、壊れた傘が半分飛び出している。
「じゃあ」
「うん」
「また」
「また」
彼女はそのまま人の流れに混ざっていった。
振り返らない。
僕も反対へ歩く。
十歩ほど進んだところで、ポケットの中から小さく硬い音がした。
立ち止まる。
もう一度歩く。
また鳴る。
青いボタンが、鍵に当たっていた。



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