プリンは四回目もそこにいた

朝の光が差し込む部屋で、窓辺に立つ男性とベッドに残る半透明の姿、床を埋める巨大なプリン。

彼の身体はベッドにあった。

意識だけが、もう本棚の前まで歩いていた。

肩をぶつけたはずのない角が、なぜか痛かった。

目を開ける。

本棚は少し離れたところにある。

肩に触れる。

何もない。

カーテンの隙間だけが白くなっていた。

その向こうでは、もう誰かの一日が始まっているらしい。

テーブルには飲みかけの水がある。

グラスの縁に、薄く唇の跡が残っていた。

昨日の自分。

眠る前の自分。

いまベッドにいる自分。

同じ口だった。

指で跡をなぞる。

少し薄くなった。

スマートフォンを見る。

日付が変わっている。

数時間前まで今日だったものが、もう昨日と表示されていた。

彼だけが、その境目をまだ通っていない。

目を閉じる。

ベッドが少し沈んだ。

誰かが起き上がる。

自分だった。

裸足の彼が机の横を通る。

本棚の角を避ける。

今度はぶつからない。

窓際まで歩いていく。

その背中を、ベッドに残った彼が見ている。

カーテンに手が伸びる。

開けるな。

光が床を一本だけ横切った。

人生に入ってくるな。

朝に。

今日に。

まだ届いていない誰かの言葉に。

目を開ける。

カーテンは閉じていた。

床にも光はない。

本棚はさっきと同じ場所にある。

それだけだった。

スマートフォンが震えた。

「大丈夫?」

彼は入力欄を開く。

大丈夫。

消す。

大丈夫じゃない。

消す。

疲れた。

消す。

もう無理。

カーソルがその後ろで何度か点滅した。

消す。

会いたい。

指が止まった。

消す。

放っておいて。

それも消した。

何も書かれていない入力欄だけが残る。

スマートフォンを伏せた。

誰かに触れてほしかった。

抱きしめられたところから、自分の形が決まっていくところを想像した。

肩。

背中。

腕。

手が離れたら、そこからまた曖昧になる。

キスでもいいかもしれない。

その人が部屋にいるところまで考える。

椅子に座る。

テーブルのグラスを少しずらす。

水を飲む。

コンセントを探す。

充電器を貸して、と言う。

冷蔵庫を開ける。

そこで止めた。

玄関から先には入ってきてほしくなかった。

抱きしめてほしい。

脱ぎっぱなしの服は見ないでほしい。

触れてほしい。

冷蔵庫の中身は知らないでほしい。

キスをしてほしい。

そのあと当然のように、自分の生活の続きを始めないでほしい。

床には昨日脱いだシャツ。

椅子の背にはタオル。

片方だけ裏返った靴下。

彼はシャツへ手を伸ばす。

触れる前に戻す。

誰も来ない。

それなら、このままでいい。

ベッドから足を下ろした。

床が冷たい。

右足を少し上げる。

下ろす。

左足も。

もう一度、右足。

冷たさは同じだった。

立ち上がる。

身体が動いたあとから、自分がついていく。

一歩。

もう一歩。

壁には触れなかった。

冷蔵庫を開ける。

プリンが一個あった。

三日前に買ったものだった。

食べようと思っていた。

いつ食べるつもりだったのかは、もう思い出せない。

手に取る。

賞味期限を見る。

まだ大丈夫だった。

戻す。

閉める。

少しして、また開ける。

同じ場所にある。

閉める。

三回目も同じだった。

プリンだけは、彼が何度見ても同じところにいた。

スマートフォンが震える。

「寝た?」

さっきの人だった。

「起きてる」

それだけ送る。

すぐに既読になる。

入力中。

消える。

また出る。

消える。

彼は眺めていた。

誰かが玄関まで来て、呼び鈴を押さずに帰っていく。

また来る。

また帰る。

画面の中では、それが何度か繰り返された。

やがて、

「そっか」

と来た。

それだけだった。

スマートフォンをテーブルに置いた。

シャワーを浴びる。

髪を洗う。

顔を洗う。

首を流れていく湯を手で拭う。

頭皮に指を立てる。

頬を擦る。

腕に水が当たる。

排水口へ泡が消えていく。

目を閉じなかった。

鏡は真っ白に曇っていた。

手のひらで拭く。

男が一人現れた。

濡れた髪。

洗った顔。

少し赤くなった頬。

彼は鏡の男を見た。

鏡の男も、こちらを見ている。

新しい服に着替える。

もう一度見る。

少しだけ、外へ出られそうな人間になっていた。

玄関へ行く。

靴を見る。

片方を手に取る。

床へ置く。

上がり框に座る。

足を入れればいい。

そこから先の景色はすぐに浮かんだ。

玄関の扉を開ける。

階段を下りる。

駅まで歩く。

改札を抜ける。

電車に乗る。

窓の外に街が流れる。

どの場面も途中から始まり、次の場面が来る前に消えていく。

歩道を並んで歩く二人。

自転車を止める人。

二階の窓で、カーテンを閉める手。

電車は進んでいる。

彼はまだ玄関に座っていた。

靴にも足を入れていない。

しばらくして、靴を元の位置に戻す。

立ち上がる。

部屋へ戻った。

冷蔵庫を開ける。

プリンはまだ同じ場所にいた。

四回目だった。

取り出す。

スプーンを持って、床に座る。

さっき鏡にいた男なら、椅子に座る気がした。

彼は床のまま蓋を剥がした。

一口食べる。

甘かった。

人生を楽しみたい、と思った。

その言葉だけが、部屋よりずっと大きかった。

プリンを見る。

表面にスプーンで削った跡が残っている。

二口目を食べる。

一口目より美味しかった。

窓の向こうに、まだ起きていない一日がいくつか浮かんだ。

知らない場所を歩いている。

誰かの隣にいる。

何かを見て笑っている。

帰り道が惜しい。

自分がそこにいる。

けれど、どの景色にも手を伸ばせなかった。

スプーンを持っている右手を見る。

親指を動かす。

人差し指を動かす。

止める。

また動かす。

スプーンが少し傾いた。

三口目を食べる。

窓の外を車が一台通った。

鳥が一度鳴いた。

彼は二度目を待った。

何も聞こえない。

もう一口食べる。

プリンの底が透けてきた。

向こう側に自分の指が見える。

食べ終わる。

空になった容器をテーブルに置く。

捨てようと思った。

立ち上がる自分が見える。

容器を持つ。

ゴミ箱まで歩く。

蓋を開ける。

手を離す。

乾いた音がする。

彼はまだ床にいた。

空の容器もテーブルの上にある。

想像の中の彼だけが、先に戻ってきた。

スマートフォンを見る。

「そっか」

二文字だけが残っている。

彼は返さなかった。

画面の向こうには人がいる。

こちらには彼がいる。

そのあいだに、それ以上の言葉は増えなかった。

少し寂しかった。

スマートフォンを伏せる。

少し安心した。

カーテンの前まで歩く。

手を伸ばす。

布に触れる。

ざらついている。

指で少しつまむ。

今度は、手を離さなかった。

カーテンを少し開ける。

光が床を横切る。

さっき見たものとよく似ていた。

もう少し開ける。

窓ガラスに人影が映る。

一瞬、向こう側に立っているように見えた。

瞬きをする。

人影も瞬きをした。

カーテンを最後まで開ける。

朝はとっくに始まっていた。

彼が追いついているのかは、分からなかった。

眩しくて目を細める。

窓に映った男も、同じように目を細めた。

そのまま、しばらくそこにいた。

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