彼の身体はベッドにあった。
意識だけが、もう本棚の前まで歩いていた。
肩をぶつけたはずのない角が、なぜか痛かった。
目を開ける。
本棚は少し離れたところにある。
肩に触れる。
何もない。
カーテンの隙間だけが白くなっていた。
その向こうでは、もう誰かの一日が始まっているらしい。
テーブルには飲みかけの水がある。
グラスの縁に、薄く唇の跡が残っていた。
昨日の自分。
眠る前の自分。
いまベッドにいる自分。
同じ口だった。
指で跡をなぞる。
少し薄くなった。
スマートフォンを見る。
日付が変わっている。
数時間前まで今日だったものが、もう昨日と表示されていた。
彼だけが、その境目をまだ通っていない。
目を閉じる。
ベッドが少し沈んだ。
誰かが起き上がる。
自分だった。
裸足の彼が机の横を通る。
本棚の角を避ける。
今度はぶつからない。
窓際まで歩いていく。
その背中を、ベッドに残った彼が見ている。
カーテンに手が伸びる。
開けるな。
光が床を一本だけ横切った。
人生に入ってくるな。
朝に。
今日に。
まだ届いていない誰かの言葉に。
目を開ける。
カーテンは閉じていた。
床にも光はない。
本棚はさっきと同じ場所にある。
それだけだった。
スマートフォンが震えた。
「大丈夫?」
彼は入力欄を開く。
大丈夫。
消す。
大丈夫じゃない。
消す。
疲れた。
消す。
もう無理。
カーソルがその後ろで何度か点滅した。
消す。
会いたい。
指が止まった。
消す。
放っておいて。
それも消した。
何も書かれていない入力欄だけが残る。
スマートフォンを伏せた。
誰かに触れてほしかった。
抱きしめられたところから、自分の形が決まっていくところを想像した。
肩。
背中。
腕。
手が離れたら、そこからまた曖昧になる。
キスでもいいかもしれない。
その人が部屋にいるところまで考える。
椅子に座る。
テーブルのグラスを少しずらす。
水を飲む。
コンセントを探す。
充電器を貸して、と言う。
冷蔵庫を開ける。
そこで止めた。
玄関から先には入ってきてほしくなかった。
抱きしめてほしい。
脱ぎっぱなしの服は見ないでほしい。
触れてほしい。
冷蔵庫の中身は知らないでほしい。
キスをしてほしい。
そのあと当然のように、自分の生活の続きを始めないでほしい。
床には昨日脱いだシャツ。
椅子の背にはタオル。
片方だけ裏返った靴下。
彼はシャツへ手を伸ばす。
触れる前に戻す。
誰も来ない。
それなら、このままでいい。
ベッドから足を下ろした。
床が冷たい。
右足を少し上げる。
下ろす。
左足も。
もう一度、右足。
冷たさは同じだった。
立ち上がる。
身体が動いたあとから、自分がついていく。
一歩。
もう一歩。
壁には触れなかった。
冷蔵庫を開ける。
プリンが一個あった。
三日前に買ったものだった。
食べようと思っていた。
いつ食べるつもりだったのかは、もう思い出せない。
手に取る。
賞味期限を見る。
まだ大丈夫だった。
戻す。
閉める。
少しして、また開ける。
同じ場所にある。
閉める。
三回目も同じだった。
プリンだけは、彼が何度見ても同じところにいた。
スマートフォンが震える。
「寝た?」
さっきの人だった。
「起きてる」
それだけ送る。
すぐに既読になる。
入力中。
消える。
また出る。
消える。
彼は眺めていた。
誰かが玄関まで来て、呼び鈴を押さずに帰っていく。
また来る。
また帰る。
画面の中では、それが何度か繰り返された。
やがて、
「そっか」
と来た。
それだけだった。
スマートフォンをテーブルに置いた。
シャワーを浴びる。
髪を洗う。
顔を洗う。
首を流れていく湯を手で拭う。
頭皮に指を立てる。
頬を擦る。
腕に水が当たる。
排水口へ泡が消えていく。
目を閉じなかった。
鏡は真っ白に曇っていた。
手のひらで拭く。
男が一人現れた。
濡れた髪。
洗った顔。
少し赤くなった頬。
彼は鏡の男を見た。
鏡の男も、こちらを見ている。
新しい服に着替える。
もう一度見る。
少しだけ、外へ出られそうな人間になっていた。
玄関へ行く。
靴を見る。
片方を手に取る。
床へ置く。
上がり框に座る。
足を入れればいい。
そこから先の景色はすぐに浮かんだ。
玄関の扉を開ける。
階段を下りる。
駅まで歩く。
改札を抜ける。
電車に乗る。
窓の外に街が流れる。
どの場面も途中から始まり、次の場面が来る前に消えていく。
歩道を並んで歩く二人。
自転車を止める人。
二階の窓で、カーテンを閉める手。
電車は進んでいる。
彼はまだ玄関に座っていた。
靴にも足を入れていない。
しばらくして、靴を元の位置に戻す。
立ち上がる。
部屋へ戻った。
冷蔵庫を開ける。
プリンはまだ同じ場所にいた。
四回目だった。
取り出す。
スプーンを持って、床に座る。
さっき鏡にいた男なら、椅子に座る気がした。
彼は床のまま蓋を剥がした。
一口食べる。
甘かった。
人生を楽しみたい、と思った。
その言葉だけが、部屋よりずっと大きかった。
プリンを見る。
表面にスプーンで削った跡が残っている。
二口目を食べる。
一口目より美味しかった。
窓の向こうに、まだ起きていない一日がいくつか浮かんだ。
知らない場所を歩いている。
誰かの隣にいる。
何かを見て笑っている。
帰り道が惜しい。
自分がそこにいる。
けれど、どの景色にも手を伸ばせなかった。
スプーンを持っている右手を見る。
親指を動かす。
人差し指を動かす。
止める。
また動かす。
スプーンが少し傾いた。
三口目を食べる。
窓の外を車が一台通った。
鳥が一度鳴いた。
彼は二度目を待った。
何も聞こえない。
もう一口食べる。
プリンの底が透けてきた。
向こう側に自分の指が見える。
食べ終わる。
空になった容器をテーブルに置く。
捨てようと思った。
立ち上がる自分が見える。
容器を持つ。
ゴミ箱まで歩く。
蓋を開ける。
手を離す。
乾いた音がする。
彼はまだ床にいた。
空の容器もテーブルの上にある。
想像の中の彼だけが、先に戻ってきた。
スマートフォンを見る。
「そっか」
二文字だけが残っている。
彼は返さなかった。
画面の向こうには人がいる。
こちらには彼がいる。
そのあいだに、それ以上の言葉は増えなかった。
少し寂しかった。
スマートフォンを伏せる。
少し安心した。
カーテンの前まで歩く。
手を伸ばす。
布に触れる。
ざらついている。
指で少しつまむ。
今度は、手を離さなかった。
カーテンを少し開ける。
光が床を横切る。
さっき見たものとよく似ていた。
もう少し開ける。
窓ガラスに人影が映る。
一瞬、向こう側に立っているように見えた。
瞬きをする。
人影も瞬きをした。
カーテンを最後まで開ける。
朝はとっくに始まっていた。
彼が追いついているのかは、分からなかった。
眩しくて目を細める。
窓に映った男も、同じように目を細めた。
そのまま、しばらくそこにいた。



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