彼女は、恋愛が向いていないと思っていた。
けれど、それは誰かを好きになれないという意味ではなかった。
むしろ、好きになった後のほうが、ずっと難しかった。
夜、仕事から帰ると、彼女は玄関に傘を立てかけたままにしていた。
数日前の雨の日から、乾いた傘をしまえずにいる。
テーブルには飲みかけのコーヒー。
ベッドの横には、途中まで読んだ本。
洗濯機の中には、明日の朝に回そうと思った服が残っている。
何も特別ではない部屋だった。
でも、その部屋に戻るたび、彼女は一人でいる時間の形を思い出した。
彼女は、スマートフォンを見る前に少し迷った。
見ても何も変わらないかもしれない。
見なければ、もっと気になるかもしれない。
画面を開く。
新しい通知はない。
最後のメッセージは数時間前のままだった。
たった数時間。
それなのに、その間に何かが遠くなったような気がした。
彼女は画面を閉じる。
しばらくして、また開く。
そんな自分に気づいて、少しだけ笑って、少しだけ嫌になる。
彼女は、人の小さな変化を覚えていた。
昨日より少し短い返事。
いつもより少し低い声。
笑っているのに、どこか違う表情。
「大丈夫」
と言われるほど、大丈夫ではない理由を探してしまう。
相手は何も変わっていなかったのかもしれない。
変わったのは、彼女のほうだったのかもしれない。
それでも、一度気づいたものは消えなかった。
彼女は、恋人という名前がついた瞬間に、関係の形が少し変わることが怖かった。
付き合う前は自然だった
会いたい時に会った。
帰り道を少し遠回りした。
意味のない話をした。
コンビニで買った飲み物を交換した。
相手はいつも、苦いコーヒーを選んだ。
彼女が甘いものを選ぶと、
「子どもみたいだね」
と笑った。
その言葉に少し腹を立てながら、その時間が好きだった。
でも、「恋人」になった途端、
毎日連絡すること。
記念日を覚えること。
将来を考えること。
好きと言葉にすること。
それらが正しい形のように置かれる。
昨日まで嬉しかったことが、今日から守るべきものになる。
彼女は、その境目が少し苦手だった。
彼女には、一緒に歩いた夜の記憶があった。
雨が止んだ帰り道。
相手はいつも、信号が青になってもすぐには渡らなかった。
車が来ないことを確認して、少しだけ周りを見てから歩き出す。
急ぐわけでもない。
遅れるわけでもない。
ただ、その人にはその人の歩く速度があった。
彼女は、その数秒が好きだった。
手を伸ばせば届く距離。
でも、まだ触れていない距離。
近づこうと思えば近づける。
でも、そこには相手の時間が残っている。
彼女は考えていた。
「好き」と「付き合う」の間には、本当はもっとたくさんのものがあるのではないか。
朝、眠そうな顔を見ること。
体調が悪い日に、何もできなくても隣にいること。
機嫌の悪い時間も、その人の一部として受け止めること。
同じ部屋にいて、別々のことをしていても安心できること。
その人が、自分とは違う人生を持っていることを喜べること。
そして、自分の人生も手放さないこと。
彼女は、相手を縛りたいわけではなかった。
その人には、その人だけの時間があってほしい。
知らない町へ行ってほしい。
知らない人と出会ってほしい。
自分の知らない景色を見ていてほしい。
その人の世界が、自分だけで閉じてしまうことは望んでいなかった。
でも、誰かに向けた笑顔を見て、理由のない寂しさを覚えることがあった。
返信を待っている自分に気づいて、隠したくなることもあった。
自由でいてほしい。
でも、特別でいたい。
相手を大切にしたい。
でも、自分も大切にされたい。
その二つは、いつも同じ場所にあった。
優しさだと思っていたもの
彼女は、自分は優しい人間だと思っていた。
でも、ある時気づいた。
相手を傷つけたくないと言いながら、本当は自分が傷つくことを怖がっていた。
期待する前に距離を取る。
欲しいと言う前に諦める。
失う可能性があるものには、最初から少し離れて触れる。
それは優しさではなく、自分を守るための方法だったのかもしれない。
「会いたい」と言えない夜
彼女はメッセージ欄に、
「会いたい」
と入力した。
四文字だった。
それだけだった。
送ることは簡単だった。
でも、その四文字の中には、
「あなたが必要です」
という意味まで含まれている気がした。
彼女は、送信ボタンの前で指を止めた。
誰かに必要とされたい。
誰かに愛されたい。
そんな自分を認めることが、少し怖かった。
彼女が怖れていたのは、一人になることではなかった。
誰かの中に入りすぎて、自分がどこにいるのかわからなくなることだった。
だから、欲しかったのは、一つになることではなかった。
二人分の人生が残ったまま、同じ時間を過ごせることだった。
きれいな場所へ行きたい。
知らない町を歩きたい。
くだらないものを見つけて笑いたい。
疲れた日は、同じ部屋で別々のことをしたい。
そして、また持ち寄りたい。
今日見たもの。
途中まで読んだ本。
変な夢。
少し嫌だったこと。
名前のわからない花。
その人が見たものと、自分が見たものを、テーブルの上に並べるように。
彼女は今でも、恋愛が向いていないと思うことがある。
近づきたいのに怖い。
触れたいのに、触れる直前で止まってしまう。
選ばれたいのに、求めすぎることが怖い。
失いたくないのに、所有したくはない。
まだ、その矛盾の中にいる。
彼女はまだ、その距離を恋愛と呼べるのかわからなかった。
ただ、いつか誰かと歩きながら、
「この前さ」
と、それぞれの続きを話せる日が来るなら。
その時間を、少しだけ信じていた。


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