帰るところ

夕暮れの住宅街を歩く女性の後ろ姿に、三本の青い洗剤、濡れた皿、固定電話が重なるイメージ

「三百八十六円です」

女は財布を開く。

百円玉を三枚、台に置く。
五十円玉。
十円玉を一枚。
もう一枚。

小銭入れを傾ける。
手のひらに硬貨が落ちる。

五円玉。
一円玉。

一枚つまんで台に置く。

店員が硬貨を見る。
女も見る。

「あら」

もう一度、小銭入れに指を入れる。
隅をなぞる。

「あった」

一円玉を置く。

「三百八十六円、ちょうどお預かりします」

女は財布を閉じる。

レジ袋には、青い洗剤が一つ入っている。

「ありがとうございました」

「どうも」

袋を持つ。

後ろには二人並んでいる。

女は脇へ寄り、財布を鞄に入れる。

店を出る。

外はまだ明るい。

袋を下げたまま、少し先の家電量販店へ入る。

店の奥に、固定電話が並んでいる。

女は通路を歩く。

棚を見る。
頭上の案内を見る。
通路の先を見る。

少し戻る。

また棚を見る。

電話が鳴る。

肩が上がる。

足が止まる。

白い固定電話が鳴っている。

もう一度。

女は近づき、受話器を取る。

「はい、もしもし。どちら様ですか?」

耳に当てる。

待つ。

「もしもし」

何も聞こえない。

受話器を少し離して見る。

また耳へ戻す。

そのとき、真後ろで電話が鳴る。

振り向く。

黒い電話。

もう一度鳴る。

白い電話の受話器を戻し、黒い電話へ行く。

受話器を取る。

「もしもし」

待つ。

「もしもし」

向こうは静かだ。

少しして、受話器を戻す。

隣の電話を見る。
その隣も見る。

手を伸ばす。

止める。

手を下ろす。

遠くで店内放送が流れている。

女は頭上の案内を見る。

通路の先を見る。

また歩き出す。

家に戻る。

靴を脱ぐ。

レジ袋を台所へ持っていく。

戸棚を開ける。

青い洗剤が一本ある。

その奥にも一本ある。

戸棚の中を見る。

手に持った袋を見る。

新しい洗剤を出す。

二本の隣に置く。

三本並ぶ。

一番奥のものだけ、少し後ろにある。

手前へ出す。

真ん中の一本を少し右へ寄せる。

三本の正面が揃う。

見る。

戸棚を閉める。

蛇口から水が流れている。

皿を一枚取る。

スポンジに洗剤をつける。

中央をこする。
縁を回る。
裏返す。
裏もこする。

水に当てる。

泡が流れる。

布巾の上に置く。

次の皿。

茶碗。
小皿。
もう一枚。

一枚ずつ洗う。

最後の皿を流す。

スポンジを絞る。

蛇口を閉める。

静かになる。

女は流しの前にいる。

布巾の上の皿を一枚取る。

まだ濡れている。

表を見る。
裏返す。

水滴が指に落ちる。

親指で縁をなぞる。

皿を傾ける。

一滴落ちる。

スポンジを取る。

洗剤をつける。

蛇口をひねる。

水の音が戻る。

皿をこする。

表。
縁。
裏。

水に当てる。

布巾の上へ戻す。

隣の皿を手に取る。

窓の外を見る。

向かいの家の窓に明かりがついている。

道路の街灯もついている。

時計を見る。

五時を少し過ぎている。

もう一度、窓を見る。

しばらく立っている。

「帰らないと」

鞄を取る。

財布。
鍵。
ハンカチ。

鞄を閉じる。

上着を着る。

玄関で靴を履く。

部屋の明かりを消す。

外へ出る。

鍵をかける。

ドアノブを引く。

動かない。

鍵を鞄へ入れる。

歩き出す。

最初の角を曲がる。

古い木造の家。

その隣は、新しい三階建てになっている。

女は通り過ぎる。

低い塀が続く。

塀の向こうは駐車場になっている。

立ち止まる。

駐車場を見る。

また歩く。

道の向こうに大きなマンションがある。

少し先には古い瓦屋根。

その隣に、白い壁の新しい家。

角を右へ曲がる。

細い道に入る。

軒先に植木鉢が並んでいる。

一軒の前で歩みが遅くなる。

表札を見る。

通り過ぎる。

もう一軒。

見る。

違う。

歩く。

明るいコンビニがある。

女は止まる。

店を見る。

後ろを見る。

来た道へ戻る。

一つ目の角を曲がる。

歩く。

止まる。

右を見る。
左を見る。

「あれ」

少し戻る。

さっきのコンビニは見えない。

前を見る。

「家へ帰らないと」

歩き出す。

空は暗くなっている。

さっきまで開いていた店のシャッターが下りている。

薬局の看板はまだ明るい。

人通りは少なくなっている。

女は歩く。

古いアパート。
新しいマンション。
細い路地。
広くなった道路。

交差点で止まる。

信号が変わる。

ほかの人が渡る。

女も渡る。

向こう側へ着く。

少し歩く。

立ち止まる。

後ろを見る。

また歩く。

薬局の明かりが消えている。

車の音だけが続く。

大きな道路へ出る。

道路の向こうに交番がある。

信号が青になる。

女は横断歩道を渡る。

「どうされました?」

警察官が顔を上げる。

女は鞄の紐を握る。

「家に帰るところなんですけど」

道路の方を見る。

「場所が分からなくなって」

「お家の住所、分かりますか?」

女は町名を言う。

番地まで続ける。

警察官が紙に書く。

「すみません、もう一度お願いします」

同じ住所を言う。

警察官が紙を見る。

端末を見る。

「お名前は?」

女は答える。

「漢字は?」

一文字ずつ答える。

警察官が入力する。

「ご家族のお電話番号、分かりますか」

女は少し考える。

「〇六……」

止まる。

待つ。

「〇六……」

その先が出ない。

「電話帳なら分かるんだけど」

「携帯電話は持ってます?」

女は鞄を開ける。

財布。
鍵。
ハンカチ。
レシート。

底まで手を入れる。

「ないねえ」

「鞄の中、確認させてもらってもいいですか」

「はい」

鞄を渡す。

警察官が机の上へ置いていく。

財布。
鍵。
ハンカチ。
レシート。

警察官がレシートを手に取る。

今日の日付。

青い洗剤の商品名。

財布の中のカードを見る。

もう一人の警察官を呼ぶ。

二人で端末を見る。

女は入口を見る。

道路を見る。

「少し座って待っていてくださいね」

「帰らないと」

「今、確認しますから」

「遅くなっちゃう」

警察官が椅子を引く。

女は時計を見る。

座る。

膝の上に鞄を置く。

入口を見る。

やがて、外にパトカーが止まる。

「こちらへ移りましょうか」

女は鞄を持って立つ。

携帯電話を充電器へ差しかける。

画面が光る。

知らない番号。

時計は零時を過ぎている。

女は画面を見る。

電話が切れる。

充電器を差す。

数秒後、また同じ番号が表示される。

出る。

「はい」

「夜分遅くにすみません。警察です」

充電器に触れていた手が止まる。

名字を確認される。

「そうです」

「お母さまを保護しています」

女は立ったまま聞いている。

「お怪我はありません」

「どこですか」

場所を聞く。

「そこですか」

電話の向こうで声がする。

「こちらに座って待っていてくださいね」

少し離れて、

「帰るところなんです」

上着を取る。

「今から行きます」

電話を切る。

鍵を取る。

玄関まで行く。

止まる。

部屋へ戻る。

財布を取る。

明かりを消す。

玄関へ戻る。

警察署の椅子に母が座っている。

膝に鞄を置いている。

壁の時計を見る。

入口を見る。

机の向こうを見る。

また時計を見る。

自動ドアが開く。

娘が入ってくる。

母が顔を上げる。

「あら」

娘が前まで来る。

「何してたの」

母は少し笑う。

「帰るところだったの」

「どこへ?」

母は住所を言う。

町名。

番地。

娘は黙っている。

「そこ、もうないよ」

母が娘を見る。

「ない?」

「うん」

「そうなの」

入口を見る。

時計を見る。

「いつから?」

「何が?」

娘は母を見る。

母も娘を見る。

警察官が机の上のものを鞄へ戻していく。

財布。
鍵。
ハンカチ。

レシートだけが残る。

娘が取る。

今日の日付。

青い洗剤の商品名。

「これ、今日買ったの?」

母がレシートを見る。

「買ったの?」

娘はレシートを見る。

母を見る。

何も言わず、鞄へ入れる。

「帰ろう」

母が立つ。

鞄を肩に掛ける。

「だから帰るところだったの」

娘は母を見る。

少しして、

「うん」

自動ドアが開く。

母が先に外へ出る。

右へ歩く。

娘は左へ行く。

数歩離れる。

娘が止まる。

振り向く。

「こっち」

母が止まる。

振り向く。

娘を見る。

右を見る。

娘を見る。

しばらく立っている。

向きを変える。

娘の方へ歩いてくる。

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