最初に置いていったのは、歯ブラシだった。
朝、洗面台に二本並んでいた。
昨夜まで一本だったかどうか、もう思い出せない。
白い柄に、青い毛がついている。
ドラッグストアで三本まとめて売っているような、ごく普通の歯ブラシだった。
歯を磨きながら鏡を見る。
眠そうな自分の顔。
その後ろに、半分だけ開いた浴室の扉。
床にはバスタオルが二枚落ちている。
一枚は自分の。
もう一枚は、その人が使ったもの。
まだ少し湿っていた。
歯を磨き終えて、口をゆすぐ。
コップを戻す。
二本の歯ブラシが触れた。
離そうとして、やめた。
寝室へ戻ると、まだ眠っていた。
布団の中で背中を向けている。
床には昨日の服。
黒い靴下。
薄いシャツ。
ジーンズ。
下着は見えなかった。
どこにあるのだろうと思ってから、カーテンへ手を伸ばした。
朝の光が入る。
「まぶしい」
布団の中から声がした。
「起きてた?」
「今起きた」
目は閉じたままだった。
カーテンを閉める。
「何時?」
「九時半」
「まだ寝る」
「どうぞ」
返事はなかった。
台所へ行く。
冷蔵庫を開ける。
卵。
納豆。
豆腐。
昨日の残り。
ビールが一本。
牛乳はない。
その人が来ると、牛乳がなくなる。
自分はコーヒーに少し入れるだけだが、その人はそのまま飲む。
冷蔵庫を開け、牛乳を出し、コップに注ぎ、立ったまま飲む。
前に一度、
「座れば」
と言った。
「すぐ飲み終わるから」
それから何度も、その光景を見ている。
冷蔵庫の前。
裸足。
片手に牛乳。
寝起きの髪。
思い出そうとしなくても、残っている。
卵を二つ割る。
一つは黄身が崩れた。
トースターへパンを二枚入れる。
一人でいる朝は、何も作らないことも多い。
コーヒーだけで終わる。
今日は皿を二枚出す。
白と灰色。
一人暮らしを始めた頃、食器は一つずつあれば足りた。
皿。
茶碗。
箸。
コップ。
いまは二人分ある。
二枚セットで買った皿。
もらいもののマグカップ。
コンビニでもらったスプーン。
増やそうとした覚えはない。
捨てなかったものが残った。
寝室から足音がする。
昨日貸したTシャツを着ている。
裾が太腿の途中まである。
下に何か履いているのか、一瞬分からなかった。
見ようとしたわけではない。
見えてしまっただけだった。
「牛乳ない」
冷蔵庫を開けながら言う。
「昨日飲んだでしょ」
「全部飲んだっけ」
「たぶん」
「買わないと」
「帰りに」
「今日帰るの?」
振り向かずに聞かれる。
「帰るんじゃないの」
「うん」
冷蔵庫を閉める。
何も持たずにこちらへ来る。
「何作ってる?」
「卵」
「見れば分かる」
フライパンを覗き込む。
肩が触れそうになって、自分の身体を少しずらす。
「パン焦げてない?」
言われてトースターを見る。
少し焦げていた。
後ろで笑っている。
二人で食べる。
向かいではなく、テーブルの角を挟んで座る。
足を伸ばすと当たりそうな距離だった。
途中で、本当に当たる。
「ごめん」
どちらからともなく言う。
足を引く。
数分後、また当たる。
今度は何も言わなかった。
食べ終わると、その人は皿を流しへ持っていく。
水を出す。
「置いといていいよ」
「洗う」
「あとでまとめてやる」
「二枚しかない」
スポンジに洗剤をつける。
自分は座ったまま、その背中を見る。
借りたTシャツの肩が少し伸びている。
昨日まで、自分が着ていた服だ。
水の音。
皿が触れる音。
鼻をすする音。
咳。
呼吸。
テレビはついていない。
帰る前にシャワーを浴びたいと言う。
「タオル借りる」
「昨日のあるよ」
「昨日のは洗うんじゃないの」
「まだ洗ってない」
「じゃあ新しいの」
棚から白いタオルを出す。
渡す。
指が少し触れる。
浴室の扉が閉まる。
水の音が始まる。
自分は床に落ちた服を拾う。
靴下。
シャツ。
ジーンズ。
ジーンズは椅子へかける。
シャツを拾った時、匂いがした。
汗。
柔軟剤。
その人が使っている何か。
香水ではない。
シャンプーかもしれない。
少しだけ鼻を近づけた。
浴室の水音は続いている。
シャツをすぐ洗濯かごへ入れる。
シャワーが止まる。
しばらくして扉が開く。
湯気が廊下へ流れる。
「ドライヤーどこ?」
「洗面台の下」
「ない」
見に行く。
その人は濡れた髪をタオルで押さえている。
首に水滴が残っている。
肩にも。
服はもう着ていた。
昨日着てきたシャツ。
しゃがんで洗面台の奥からドライヤーを出す。
「そこ」
「ほんとだ」
渡す。
コンセントを差す。
大きな音がして、会話が途切れる。
浴室の床にタオルが二枚ある。
昨日のもの。
今日のもの。
拾って洗濯かごへ入れる。
その上にシャツ。
その上から靴下。
自分の服と混ざる。
帰る時、その人は歯ブラシを持っていかなかった。
「これ忘れてる」
玄関で言う。
「置いといて」
「いいの?」
「また使うし」
「いつ?」
「また来た時」
靴を履く。
立ち上がる。
「邪魔?」
「別に」
「じゃあ置いといて」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
洗面台へ戻る。
白い歯ブラシ。
自分の歯ブラシ。
二本。
午後、洗濯をする。
自分の服。
タオル。
その人のシャツ。
靴下。
洗濯かごの底に、黒い下着が一枚あった。
忘れていったらしい。
手に取る。
一度だけ迷う。
連絡するほどでもない。
洗っておけばいい。
他の服と一緒に洗濯機へ入れる。
スタートを押す。
水が溜まる。
服が沈む。
シャツもタオルも靴下も下着も、白い泡の中で絡まる。
一時間後。
洗濯機の蓋を開ける。
湿った空気が上がってくる。
一枚ずつ取り出す。
シャツ。
タオル。
靴下。
下着。
同じ洗剤の匂いがする。
ベランダへ出る。
下着をどこへ干すか少し迷う。
外から見えにくい場所にする。
隣に自分のものも干す。
風が吹く。
二枚が同じ方向へ揺れる。
その人の身体は、もう知らないものではない。
それでも、干された黒い布を見ている方が、少し落ち着かなかった。
風だけが触れている。
夜、連絡が来る。
「パンツない」
画面を見て笑う。
「ある」
「やっぱり」
「洗った」
数秒して、
「勝手に洗った?」
と来る。
「嫌だった?」
「いや」
そのあと、
「なんか恥ずかしい」
と来る。
ベランダを見る。
暗い中で、黒い布が揺れている。
「今さら」
と返す。
「そうなんだけど」
そこで終わる。
四日後、その人が来る。
仕事帰りだった。
玄関を開けると、スーパーの袋を持っている。
「牛乳買った」
最初にそれを言った。
「自分で飲んだくせに」
「だから買った」
冷蔵庫へ入れる。
取り込んで畳んでおいた下着を渡す。
「畳んだの?」
「畳むでしょ」
「パンツまで?」
「他のと一緒に」
受け取る。
少し笑う。
「何」
「いや」
「何」
「別に」
鞄へしまう。
夕飯を作る。
玉ねぎを切る。
その人は冷蔵庫からビールを二本出す。
一本渡される。
「まだ料理中」
「一口だけ」
開ける。
飲む。
冷たい。
玉ねぎを炒めていると、後ろから腕が伸びる。
棚の塩を取る。
「邪魔」
「ごめん」
背中に身体が少し触れた。
ほんの一瞬。
その人はもうテーブルへ戻っている。
油が跳ねる。
玉ねぎを混ぜる。
ビールを一口飲む。
食べ終わってソファに座る。
映画を見る。
途中で、その人が横になる。
頭が膝に乗る。
「重い」
「知ってる」
動かない。
髪が腿に触れる。
呼吸するたびに少し動く。
手は腹の上に置いたまま。
そのまま映画を見る。
いつの間にか眠っている。
エンドロールになっても起きない。
「終わったよ」
返事はない。
頬が膝に押しつけられている。
口が少し開いている。
しばらくそのままにする。
足が痺れてくる。
首の後ろへ手を入れ、頭を持ち上げる。
重い。
ソファへ下ろす。
ブランケットをかける。
テーブルには、その人のスマートフォンと眼鏡と鍵と財布がある。
本人は何も持たずに眠っている。
夜中に起こす。
「ベッド行く?」
目を開ける。
「何時?」
「一時」
「寝てた?」
「ずっと」
起き上がる。
ブランケットが落ちる。
ベッドへ行く。
照明を消す。
暗くなる。
手を伸ばす。
向こうからも触れる。
キスをする。
服を脱ぐ。
どこへ手を置くか。
どこで息が変わるか。
身体はもう、互いに知っている。
途中で、昼間の黒い布が浮かぶ。
洗濯ばさみに挟まれ、風に揺れていた。
すぐ消える。
終わったあと、その人は水を飲みに行く。
裸のまま台所へ向かう。
「服着れば」
「なんで」
「別に」
冷蔵庫を開ける。
中の明かりが身体を照らす。
ペットボトルを取り出し、そのまま飲む。
「それ、俺も飲むんだけど」
その人が笑う。
「飲む?」
渡される。
同じ場所へ口をつける。
朝
台所から包丁の音がする。
目を開ける。
「何してる?」
「朝ごはん」
「勝手に?」
「卵使うよ」
「どうぞ」
また眠る。
次に起きた時、味噌汁の匂いがしている。
台所へ行く。
その人は昨日のTシャツと、自分のスウェットを履いている。
「それも俺の」
「服なかった」
「あるでしょ」
「昨日着てたの着たくない」
「帰る時どうするの」
「着る」
味噌汁をよそう。
卵焼き。
ご飯。
味噌汁。
向かいで食べている。
口元に少し汁がつく。
舌で取る。
一瞬だけ目が止まる。
「何」
「何でもない」
味噌汁を飲む。
帰る前、洗面台で並んで歯を磨く。
鏡に二人。
口の中は泡だらけだった。
肘が当たる。
「狭い」
「一人用だから」
「二人用買えば」
「なんで」
返事はない。
うがいをする。
白い歯ブラシが洗われ、また自分の隣へ戻る。
その週、その人は来なかった。
歯ブラシだけがある。
冷蔵庫の牛乳も残っている。
賞味期限まであと三日。
コーヒーへ多めに入れる。
翌日も。
その次の日、まだ残る。
夜、冷蔵庫の前に立つ。
牛乳を出す。
そのまま口をつけそうになって、止まる。
コップを一つ出す。
連絡は普通に来る。
忙しいだけらしい。
洗面台に歯ブラシ。
風呂場にシャンプー。
冷蔵庫に牛乳。
棚にヘアゴム。
コンセントには充電器。
一本だけ違うメーカーの缶ビール。
ヘアゴムは何週間も同じ場所にある。
黒い輪。
次に来た時、その人は何も言わず、それで髪を結んだ。
物は少しずつ増えた。
替えの下着。
靴下。
Tシャツ。
小さな容器。
文庫本。
薬。
棚の隅。
洗面台。
ベッド脇。
空いているところに入っていく。
ある日、引き出しを一つ空ける。
「ここ使えば」
「何で?」
「物増えてるから」
「そんなにない」
「ある」
開ける。
空っぽ。
その人はしばらく見ている。
「いいの?」
「空いてるし」
「住んでるみたい」
「住んでないでしょ」
「そうだけど」
一つずつ入れていく。
下着。
靴下。
Tシャツ。
ポーチ。
「見ないで」
「何で」
「なんとなく」
「もう見えてるけど」
「だから見ないで」
背中を向ける。
後ろで引き出しが閉まる。
夜、買い物へ行く。
卵。
牛乳。
ビール。
歯磨き粉。
トイレットペーパー。
シャンプーの棚で、その人が止まる。
「これ高くない?」
「じゃあ別の買えば」
「ここでしか使わないのに?」
「知らない」
少し迷って、いつものものをかごへ入れる。
家に帰る。
牛乳は冷蔵庫へ。
歯磨き粉は洗面台へ。
シャンプーは浴室へ。
トイレットペーパーはトイレへ。
少しして、その人が出てくる。
「紙替えといた」
「ありがとう」
あとで入ると、新しいロールがついている。
端だけ、きれいに折れていた。
夏になる。
ある夜、その人は風呂上がりのまま床に座ってアイスを食べていた。
片足を立てている。
膝に小さな傷がある。
「それどうした?」
「何」
「膝」
見る。
「ああ」
指で触る。
「どこかでぶつけた」
「いつ」
「知らない」
数日後。
同じ場所に、かさぶたができている。
また数日後。
薄くなる。
その次に見た時には、どこだったか分からなくなっていた。
夜、眠っている。
布団から片足だけ出ている。
足の裏がこちらを向いている。
かかと。
少し乾いた皮膚。
爪。
照明を消す。
冬になる。
布団へ入るなり、
「冷たい」
と言って、足をこちらへ押しつけてくる。
「やめて」
「温かい」
「冷たい」
足を離す。
追いかけてくる。
「やめろって」
笑う。
結局、そのままになる。
しばらくすると、冷たさがなくなる。
朝。
先に起きる。
その人は丸まったまま寝ている。
台所へ行く。
湯を沸かす。
マグカップを二つ出す。
一つは自分の。
もう一つは、いつからかその人が使うものになった。
コーヒーを淹れる。
牛乳を入れる。
片方だけ、少し多め。
カップをテーブルに置く。
少しして、寝室から足音がする。
「コーヒー?」
「うん」
椅子に座る。
飲む。
「ちょうどいい」
自分のカップを持つ。
窓の外を見る。
ベランダに二人分の洗濯物がある。
タオル。
シャツ。
靴下。
下着。
「今日、洗濯する?」
「する」
「これも」
着ていたTシャツを脱ぐ。
下には薄い肌着を着ている。
渡される。
受け取る。
まだ少し温かい。
その人はもう冷蔵庫へ向かっている。
「何してるの」
「何も」
Tシャツを洗濯かごへ入れる。
洗濯機を回す。
水の音。
その人は冷蔵庫の前で牛乳を飲んでいる。
午後には、
タオルは乾く。
食器は棚へ戻る。
床の髪は吸われる。
シーツの皺も伸びる。
洗濯機が止まる。
蓋を開ける。
湿った空気が上がる。
一枚ずつ取り出す。
タオル。
シャツ。
靴下。
その人がさっきまで着ていたTシャツ。
もう冷たい。
広げる。
皺を伸ばす。
ハンガーへ通す。
ベランダへ出る。
風が吹く。
隣に自分の服を掛ける。
部屋の中から、冷蔵庫の扉が閉まる音がする。
「牛乳、もうないよ」
と声がする。
「また買えばいい」
そう返して、次の洗濯物を取る。


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