その建物では、閉館してからの方が、たくさんのものが起きていた。
人はいなくなる。照明もほとんど消える。
それでも猫だけは、眠らなかった。
少なくとも、私は三年間、一度も眠っているところを見なかった。
昼間、建物は人が管理している。
受付には二人いる。
清掃員が床を拭き、ゴミを回収する。
設備担当が空調を見て、切れた照明を交換し、閉まりにくい扉を調整する。
展示室の鍵を開ける人がいる。
閉める人がいる。
夕方になると、それらを一つずつ元へ戻していく。
人を外へ出す。
窓を確認する。
照明を落とす。
扉を施錠する。
空調を夜間運転へ切り替える。
最後の職員が帰る。
そこで一日が終わるように見える。
けれど、人がいなくなっても建物は止まらない。
天井では空調が低く鳴っている。
地下ではポンプが動いている。
エレベーターは無人のまま待機階へ戻る。
監視カメラは廊下を映している。
火災報知器は煙を待っている。
漏水センサーは水を待っている。
人感センサーは、人がいないことを確認し続けている。
それから、猫がいる。
私はそこで夜間警備をしていた。
初日は夕方の五時に入った。
制服。
無線。
警備端末。
鍵の束。
建物は地上四階、地下二階。
一階に受付とロビー。
二階と三階に展示室や会議室。
四階に事務室と資料室。
地下には倉庫と機械室。
巡回は一晩に四回。
二十三時。
一時。
三時。
五時。
扉、窓、非常口、設備。
異常があれば記録。
警報が出れば現場を確認。
必要なら責任者へ連絡。
一通り説明が終わったあと、担当者が鍵の束を渡しながら言った。
「あと、猫には触らないでください」
私は鍵を受け取ったまま顔を上げた。
「猫?」
「います」
「館内に?」
「夜になると」
「飼ってるんですか」
「さあ」
「噛むとか?」
「そういうわけじゃないです」
「じゃあ、なんで触ったら駄目なんですか」
担当者は少し考えた。
「決まりなので」
防火扉の前に物を置かないでください、とでも言うような声だった。
理由は聞かなかった。
最初に猫を見たのは、その日の二十三時だった。
二階の廊下。
大きな窓の前に座っていた。
灰色の猫だった。
暗い場所では黒く見え、非常灯の下では銀色に近かった。
首輪はない。
耳は少し長い。
尻尾も長い。
こちらを見た。
私は立ち止まった。
猫も動かなかった。
「こんばんは」
言ってから、自分で少し変だと思った。
猫は鳴かない。
近づかない。
逃げもしない。
ただこちらを見ていた。
担当者の言葉を思い出して、その横を通った。
振り返る。
まだ窓の前にいる。
一時には地下へ下りる階段にいた。
三時には受付の椅子。
五時には三階の廊下。
いつ移動したのか分からなかった。
夜の建物では小さな音までよく聞こえる。
自分の靴底。
鍵の束。
服の擦れる音。
空調。
水。
リレー。
それなのに、猫の足音は一度も聞かなかった。
翌日もいた。
その次の日も。
場所は毎晩違った。
ロビー。
階段。
窓際。
展示室の前。
給湯室。
倉庫の横。
最初の一週間だけ、私は猫の位置をメモした。
二十三時 二階北廊下。
一時 一階受付。
三時 地下階段。
五時 三階展示室前。
次の日。
二十三時 一階南窓。
一時 三階倉庫横。
三時 二階踊り場。
五時 一階ロビー。
三日目。
二十三時 見つからず。
一時 地下機械室前。
三時 地下機械室前。
五時 四階廊下。
規則は見つからなかった。
一週間でやめた。
猫の居場所は、仕事には関係がなかった。
少なくとも、その頃はそう思っていた。
ある夜、三階の一室だけ照明がついていた。
308号室。
小さな多目的室だった。
閉館後は消灯しているはずだった。
扉の細いガラスから中を見る。
誰もいない。
蛍光灯だけが白く点いている。
警備端末を見る。
異常なし。
閉館後の入退室記録もない。
鍵を開けた。
猫が部屋の中央に座っていた。
机は壁際。
椅子は重ねられている。
何もない床の真ん中で、猫だけが壁を見ている。
私は照明を消した。
部屋が暗くなる。
「行くよ」
猫は動かなかった。
私は廊下へ出た。
扉を閉める。
数歩歩いて振り返る。
猫が廊下にいた。
いつ出てきたのか分からなかった。
次の夜も308号室の照明はついていた。
猫もいた。
消した。
一時に通ると、またついていた。
翌朝、設備担当へ伝えた。
「308、夜中に照明が勝手につきます」
「何時頃です?」
「二十三時と一時」
「センサー式じゃないですよね」
「普通のスイッチです」
担当者はメモを取った。
私は付け加えた。
「猫がいるときだけついてる気がします」
ペンが止まった。
「猫が?」
「はい」
担当者は少しだけ考えてから言った。
「じゃあ、そのままでいいです」
「照明を?」
「猫がいるなら」
「故障じゃないんですか」
「前にも一回、見てます」
「直した?」
「直しました」
「でもまたつく」
「そうですね」
担当者は工具箱を持ち上げた。
「猫が使ってるんじゃないですか」
冗談かどうか分からなかった。
その夜から、308号室に猫がいるときは消さなくなった。
朝には消えていた。
誰が消したのかは知らない。
数か月後、猫は地下の倉庫Bの前にいた。
十二月。
外は雨だった。
一時の巡回。
猫は扉から少し離れた場所に座り、倉庫を見ていた。
鍵はかかっている。
私は横を通った。
三時。
まだいた。
同じ場所。
扉の前に立ち、耳を澄ました。
何も聞こえない。
焦げ臭くない。
水の音もしない。
ドアノブに触る。
冷たい。
夜間用の鍵なら開けられる。
でも警報は出ていない。
開ける理由がなかった。
五時。
まだいた。
私は業務記録の備考欄に、
「地下一階倉庫B前 猫長時間滞在」
と書いた。
正式な記録に「猫」と書くのは少し変だった。
朝番の職員が来た。
「昨夜、何かありました?」
「特には」
言ってから思い出した。
「猫がずっと地下の倉庫の前にいました」
職員の顔が変わった。
「どっち?」
「B」
鞄を受付へ置いたまま地下へ行った。
私もついていった。
鍵を開ける。
照明をつける。
最初は何も見えなかった。
奥へ進む。
床の隅だけ色が違う。
濡れていた。
天井を見る。
配管の継ぎ目から水が落ちる。
一滴。
しばらくして、また一滴。
下に積まれた段ボールの角が湿っている。
まだ広がってはいなかった。
その日の昼に配管は修理された。
それから夜間警備の引き継ぎ事項に、一行増えた。
猫が長時間同じ場所にいる場合は報告する。
猫専用の欄が作られたわけではない。
備考欄へ書く。
それだけだった。
それから私は、巡回の途中で猫を見るようになった。
一月。
四階事務室前。
一回目。
猫がいる。
二回目。
まだいる。
室内を確認する。
異常なし。
翌日の夕方、コピー機の電源部品から焦げた匂いが出た。
二月。
裏口。
猫がいる。
扉は閉まっている。
念のため手で押す。
少し動いた。
ラッチが最後までかかっていなかった。
三月。
二階展示室。
猫が壁際に座っている。
翌日も同じ場所。
設備担当が壁裏を調べる。
空調ダクトの固定金具が緩み、小さな振動が出ていた。
警報が鳴るほどではない。
故障でもない。
数値も正常範囲。
「猫、聞こえてるんですかね」
設備担当が言った。
私は壁へ耳を近づけた。
何も聞こえなかった。
「人間より?」
「猫ですから」
その一言で大抵のことは説明できた。
水。
熱。
振動。
匂い。
音。
人間が気づくより早く、猫が何かを感じる。
特別なことではない。
そう思うことにした。
その方が楽だった。
五月の夜。
猫は二階の廊下の真ん中にいた。
扉も窓もない。
壁と壁の間。
ただ少し広くなっているだけの場所だった。
一時。
まだいる。
三時。
まだいる。
私は床を触った。
濡れていない。
熱くない。
匂いもしない。
天井を見る。
照明。
スプリンクラー。
監視カメラ。
壁へ耳を当てる。
何も聞こえない。
翌朝、設備担当も調べた。
図面まで出した。
配管なし。
電気設備なし。
空調設備なし。
「何もないですね」
そう言った。
次の夜、猫はいなかった。
一週間後も何も起きなかった。
一か月後も。
私はその場所を通るたびに少しだけ速度を落とした。
何もない。
そのままだった。
そこで初めて困った。
猫がいる場所には理由がある。
そう思い始めていた。
水漏れ。
熱。
扉。
振動。
あとから何かが見つかれば、理由になる。
何も見つからない場合だけ、理由が残る。
私は自分で決めた。
同じ場所に二回続けていたら確認する。
一回なら気にしない。
そうしないと、何でも意味を持ち始める。
猫が窓を見ている。
窓に何かある。
猫が椅子を見ている。
椅子に何かある。
猫が階段に座る。
階段に何かある。
それでは仕事にならない。
それでも、いつからか警備端末より先に猫を見る夜が増えた。
地下へ下りる。
猫が歩いている。
少し安心する。
そのあと端末を見る。
異常なし。
ある朝、職員に言った。
「警備会社より猫の方が信用されてません?」
「警備会社の人がそれ言います?」
「水漏れも猫が先でしたし」
「まあ」
「カメラもセンサーもあったのに」
職員は窓口の鍵を揃えながら言った。
「センサーって、見る場所が決まってるじゃないですか」
その言葉だけが残った。
その夜、警備室のモニターを眺めた。
十六分割。
ロビー。
正面入口。
裏口。
二階廊下。
三階廊下。
地下倉庫前。
駐車場。
非常階段。
誰もいない。
画面の隅で時刻だけが進む。
02:11:04。
02:11:05。
02:11:06。
警備システムの表示。
正常。
正常。
正常。
モニターの右端に猫が映った。
一階ロビー。
猫は自動ドアの前を横切り、カメラの死角へ消えた。
私はそのまま画面を見ていた。
数分後、別のカメラに現れた。
二階北廊下。
歩いている。
立ち止まる。
画面の端に人感センサーの表示が出る。
反応あり。
猫が少し進む。
反応なし。
また進む。
反応あり。
その先で猫は廊下を外れた。
カメラには壁しか映らなくなった。
次の画面にはいない。
私は席を立ち、二階へ向かった。
猫は非常階段の手前にいた。
壁際に置かれた消火器の横。
何もない場所。
こちらを見ない。
廊下でもない。
扉の前でもない。
設備の前でもない。
猫は、床と壁が交わる角を見ていた。
私はそこまで行った。
しゃがむ。
埃。
壁。
床。
それだけ。
猫が一歩動いた。
壁から離れる。
私も立つ。
その瞬間、天井の人感センサーの赤いランプが一度だけ点滅した。
私に反応したのか、猫に反応したのか分からなかった。
猫はそのまま階段へ向かった。
私は戻ってモニターを見た。
廊下。
空。
人感センサー。
反応なし。
猫のいた角は、カメラには映っていなかった。
翌朝になっても、そこでは何も起きなかった。
その夜から、猫がどこを見ているのかを考えるのをやめた。
正確には、答えを探すのをやめた。
翌月、警備システムが新しくなった。
モニターが大型化した。
映像解析も入った。
動くものを自動で囲む。
人物。
車両。
動物。
研修でメーカーの担当者が説明した。
「夜間に人物を検知すると、自動でアラートが出ます」
同僚が聞いた。
「猫も出ます?」
「動物として判定されると思います。小動物は除外設定もできます」
「館内に猫いるんですけど」
担当者は笑った。
「そうなんですか」
システム稼働初日の夜。
二階の廊下に猫が映った。
黄色い四角が猫を囲む。
画面右上。
ANIMAL
数秒後、枠が消える。
猫は廊下の奥へ歩く。
また黄色い枠。
ANIMAL
角を曲がる。
消える。
機械も猫を見ていた。
けれど、猫は警報にはならなかった。
そこにいることが許されていたからだ。
数週間後。
三時の巡回から戻ると、アラートが一件残っていた。
02:47。
三階東廊下。
PERSON。
私は録画を開いた。
誰もいない廊下。
奥から猫が歩いてくる。
黄色い枠。
ANIMAL。
猫が途中で止まる。
その少し後ろ。
何もない空間に赤い枠が出た。
PERSON。
私は再生を止めた。
何もいない。
再生する。
赤い枠は二秒ほど残った。
PERSON。
猫が振り返る。
赤枠が消える。
私は三階へ行った。
誰もいない。
扉は施錠。
窓も閉まっている。
入退室記録なし。
警報なし。
映像を何度も見た。
影。
反射。
ノイズ。
誤検知。
どれかだろうと思った。
報告書には、
「映像解析による誤検知と思われる」
と書いた。
朝、職員に映像を見せた。
猫が止まる。
赤い枠。
猫が振り返る。
職員は二度見た。
「人、いないですよね」
「いないですね」
「猫、振り返ってますけど」
職員は映像を止めたまま少し見ていた。
「まあ」
と言った。
「猫ですから」
その場所では、その後何も起きなかった。
私は、それを良かったことにした。
夜勤を始めて三年目。
新人が入った。
私が館内を案内した。
鍵。
警報。
巡回順。
非常時の連絡先。
最後に言った。
「猫がいるけど、触らないで」
「猫?」
「夜になるといる」
「飼ってるんですか」
「知らない」
「噛みます?」
「たぶん噛まない」
「じゃあ、なんで触ったら駄目なんです?」
私は少し黙った。
三年前、自分も同じことを聞いた。
「決まりだから」
それしか出てこなかった。
新人はすぐ猫に慣れた。
二週間後には、
「今日、猫どこです?」
と聞いた。
一か月後には、
「地下でずっと座ってるんですけど、一応見た方がいいですかね」
と言った。
ある夜、突然、館内の一部が停電した。
二時過ぎ。
警備室の照明が落ちる。
モニターの半分が消える。
非常灯。
警報音。
数秒して非常電源へ切り替わる。
私たちは手順通りに動いた。
電源。
火災なし。
煙なし。
異臭なし。
地下の設備盤。
故障表示。
責任者へ連絡。
設備会社へ連絡。
復旧まで一時間ほど。
地下へ下りる途中、猫が階段にいた。
普段なら立ち止まったかもしれない。
その夜は明確な異常があった。
猫を見る必要がなかった。
復旧後、警備室へ戻る。
同じ階段に、まだ猫がいた。
新人が猫を見た。
「停電、分かってたんですかね」
「どうだろう」
「ずっとここだったんですよね」
「たまたまだろ」
答えながら、私も猫を見た。
猫は設備盤の方を見ていなかった。
階段の上を見ていた。
翌月、私は退職することを決めた。
別の仕事が決まったわけではない。
夜勤そのものが少しきつくなった。
昼に眠る。
夕方に起きる。
休みの日でも三時頃に目が覚める。
明るい時間に外へ出ることが減った。
建物の夜には慣れた。
自分の身体は、それほどでもなかった。
最終勤務の日。
いつも通り夕方に入った。
引き継ぎ。
鍵。
警備システム。
異常なし。
閉館。
職員が一人ずつ帰っていく。
最後の一人が正面入口から出た。
「お疲れさまでした」
自動ドアが閉じる。
ロック。
館内の照明が減る。
空調の音が変わる。
エレベーターが待機階へ戻る。
警備画面に、
NIGHT MODE
と出た。
建物が夜になる。
二十三時。
猫はいなかった。
一階。
二階。
三階。
四階。
地下。
見つからない。
一時。
まだいない。
珍しいことではなかった。
一晩、姿を見ないこともある。
三時。
308号室。
暗い。
地下倉庫B。
いない。
二階の、何もなかった廊下。
いない。
階段。
窓際。
裏口。
どこにもいない。
警備室へ戻る。
モニターを一つずつ確認する。
いない。
最後の夜だから探している。
そう気づいた。
猫は同僚ではない。
飼ってもいない。
名前もない。
触ったことさえない。
それでも三年間、同じ建物で同じ夜を過ごした。
いつもどこかにいた。
五時。
最後の巡回。
東側の窓が少し青くなっていた。
扉。
異常なし。
窓。
異常なし。
設備。
異常なし。
警報。
なし。
一階へ戻る。
受付の椅子に猫がいた。
私は立ち止まった。
初めて見た夜と同じ椅子だった。
「いた」
声が出た。
猫はこちらを見る。
鍵の束を受付へ置いた。
近くまで行く。
灰色の毛。
長いひげ。
耳。
目。
三年間見てきたのに、こんな近くで見るのは初めてだった。
普通の猫に見えた。
「今日で最後です」
猫は動かない。
「三年くらいかな」
返事はない。
「ありがとうございました、でいいのかな」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
空調が切り替わる。
どこかでエレベーターが起動する。
朝の運転が始まる時間だった。
猫が椅子から降りた。
床へ着く。
ほとんど音がしない。
こちらへ歩いてくる。
一メートル。
五十センチ。
足元まで来る。
私は手を伸ばしかけた。
最初の日の声が戻ってきた。
猫には触らないでください。
三年間、一度も触らなかった。
手を下ろす。
「決まりだからね」
猫は私の横を通った。
正面入口へ向かう。
自動ドアの前で止まる。
夜間ロック中。
開かない。
猫は座る。
外を見る。
私は少し離れたところから見た。
猫が同じ場所に長くいる。
その瞬間、三年間の癖が出た。
扉。
センサー。
外。
異常。
表示を見る。
正常。
自動ドア。
正常。
ロック。
正常。
警備システム。
異常なし。
外を見る。
誰もいない。
道路。
駐車場。
朝の薄い光。
何もない。
猫だけが扉の前にいる。
「外に出たいの?」
猫は動かない。
私は職員用の鍵を出した。
解除。
ロックが外れる音。
手動モード。
扉を開ける。
朝の空気が入る。
猫が立ち上がった。
そのまま外へ出た。
初めて猫が建物の外へ出るところを見た。
駐車場を横切る。
「出ていいの?」
思わず言った。
猫は振り返らない。
建物沿いを歩く。
角へ向かう。
私も数歩だけ外へ出た。
「戻る?」
返事はない。
猫は角を曲がった。
見えなくなった。
私はしばらく入口に立っていた。
鳥の声がした。
遠くで車が走る。
振り返る。
ガラス越しに建物の中が見える。
受付。
非常灯。
モニター。
誰もいない。
それでも中では、
カメラが動いている。
空調が動いている。
センサーが待っている。
サーバーが記録している。
猫だけがいない。
私は扉を閉めた。
警備室へ戻る。
時刻。
05:43。
録画を開く。
正面入口。
猫が座っている。
黄色い枠。
ANIMAL。
私が画面へ入る。
赤い枠。
PERSON。
扉が開く。
猫が外へ出る。
黄色い枠が画面の端へ移動する。
ANIMAL。
消える。
私だけが残る。
PERSON。
数秒後、私も中へ戻る。
画面から誰もいなくなる。
枠が消える。
警報は出ない。
朝番の職員が来た。
私は正面入口を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます。最後ですね」
「はい」
少し迷ってから言った。
「猫が外へ出ました」
職員が止まった。
「外へ?」
「正面から」
「自分で?」
「私が開けました」
職員は私を見る。
怒られるかと思った。
「すみません。出たがってる感じだったので」
「そうですか」
「大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ」
「戻ってきます?」
職員は外を見た。
猫はいない。
少しして、
「あなたが最後だったからでしょう」
と言った。
「最後?」
「勤務」
「それと猫が外へ出るの、関係あるんですか」
職員は答えなかった。
受付へ入り、パソコンを立ち上げた。
鍵を並べる。
照明をつける。
いつもの朝が始まる。
私はもう一度聞こうとした。
やめた。
三年間、分からないままのことはいくつもあった。
猫に触ってはいけない理由。
昼間どこにいるのか。
誰が飼っているのか。
308号室の照明。
何もない廊下。
あの赤い枠。
聞けば何か答えがあるとも思えなかった。
制服を脱ぐ。
鍵を返す。
夜間記録へ署名する。
最後の欄。
異常なし。
その下の備考へ書いた。
「05:43 猫、正面入口より屋外へ移動」
朝番の職員が記録を覗いた。
「これ、書くんですね」
「一応」
「異常ですか?」
私はペンを持ったまま止まった。
三年間、正常と異常を分ける仕事をしていた。
扉が閉じている。
正常。
開いている。
異常。
水が漏れていない。
正常。
漏れている。
異常。
閉館後、人がいない。
正常。
人がいる。
異常。
猫が建物にいる。
正常。
猫が外へ出る。
そこだけ、判断できなかった。
警備システムは正常だった。
入退室記録にも問題はない。
自動ドアも正常。
監視カメラにも全部残っている。
警報は一つも鳴らなかった。
私は備考欄を見た。
05:43 猫、正面入口より屋外へ移動。
それ以上は書かなかった。
建物を出る。
自動ドアが開く。
三年間、何百回も通った入口。
外へ出る。
後ろで扉が閉じる。
振り返る。
ガラスの向こうに受付。
朝番の職員。
机。
照明。
モニター。
猫はいない。
それから私は、その建物へ一度も行っていない。
猫が戻ったのかは知らない。
次の夜には、別の警備員の前にいたのかもしれない。
今も倉庫の前や階段や308号室に座っているのかもしれない。
あるいは、もういないのかもしれない。
猫がいなくても建物は動く。
火災報知器は煙を待つ。
漏水センサーは水を待つ。
カメラは廊下を映す。
空調は設定された温度を保つ。
警備員は巡回する。
何かが起これば警報が鳴る。
誰かが確認する。
修理される。
朝が来る。
それで十分なはずだった。
ときどき、夜中の建物を思い出す。
監視モニター。
誰もいない廊下。
画面の隅で進む時刻。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
全部の扉が閉じている。
水も漏れていない。
誰も入っていない。
何も動いていない。
システムは、朝まで正常を記録し続ける。
そのとき、本当に何もないのか。
それとも、
何もない場所に長く座っているものが、
もういないだけなのか。
私には分からない。
最後に覚えているのは、猫が建物を出たことより、
扉を開けたときの空気だ。
朝の冷たい空気が、夜の建物へ入ってきた。
猫が境界を越えた。
私はその後ろに立っていた。
警報は鳴らなかった。
その夜の記録には最後まで、
異常なし
と残っていた。

