見えたものから、順に助けた

絵の具の跡が残る眼鏡が、夕方の光が差し込む画家のアトリエの机に置かれている

週に二日、男はアトリエにいた。

人が来れば、鉛筆の持ち方や、影の置き方を教えた。

誰もいなくなれば、使い終えた椅子を壁際へ戻し、自分のキャンバスを窓の近くへ運んだ。

三十を過ぎていた。

昼はコンビニのパンで済ませることが多かった。

絵の具が切れれば買い足した。

靴は底が薄くなるまで履いた。

部屋にある家具も、必要なものだけだった。

夕方になると、アトリエの窓から差す光の向きが変わる。

男はそれを見ながら、筆を洗った。

翌週も、同じ椅子に座った。

描きかけのキャンバスを出し、続きを描いた。

近眼だった。

けれど、眼鏡をかけるのは絵を描くときだけだった。

キャンバスから数歩離れる。

眼鏡をかける。

見る。

近づく。

外す。

また描く。

その繰り返しだった。

ある日、男は電車に乗った。

窓際に座り、流れていく建物を見ていた。

何度か乗り換えた。

やがて、知らない駅で降りた。

駅前を抜ける。

歩くほど建物が減り、道の両側に田畑が広がった。

風が稲の上を通っていく。

波のように、一方からもう一方へ倒れていった。

男は道の脇に腰を下ろした。

キャンバスを立てる。

空から描き始めた。

山の輪郭を取る。

畑の色を置く。

筆を洗う。

また色を作る。

胸元に掛けていた眼鏡が落ちた。

水の音がした。

筆洗の中に、眼鏡が沈んでいた。

男はすぐに拾い上げた。

片方のレンズに青い絵の具が広がっている。

シャツの裾で拭う。

大部分は落ちた。

レンズの端に、薄い青だけが残った。

男はそのまま眼鏡をかけた。

キャンバスを見る。

筆を動かす。

二度、三度と線を重ねる。

手が止まった。

少し離れた場所に、一本の木があった。

その木の周りだけに雨が降っていた。

細い雨だった。

葉の間を落ち、枝を伝い、幹のそばへ消えていった。

男は空を見上げた。

青空だった。

隣の木を見る。

濡れていない。

眼鏡を外す。

雨が消えた。

男はしばらく木を見ていた。

眼鏡をかける。

雨。

外す。

晴れ。

もう一度かける。

雨。

筆を置いた。

道を渡り、木の前まで歩いた。

幹に手を当てた。

乾いていた。

葉を触る。

濡れていない。

根元を見る。

土の表面に細かなひびが走っていた。

男はしゃがんだ。

指で土に触れる。

少し掘る。

立ち上がる。

来た道を戻った。

しばらくして、バケツを持って戻ってきた。

近くの水道から汲んできた水が揺れている。

男は木の根元へ水を注いだ。

一度に流さず、少しずつ場所を変えた。

乾いた土が水を吸う。

色が濃くなる。

小さな穴に水が溜まり、やがて消えた。

男は眼鏡をかけた。

雨はまだ降っていた。

少し待つ。

枝の向こうを見る。

雨脚が弱くなっている。

最後に残った一滴が、葉先から落ちた。

それきり何も降らなかった。

風が吹いた。

葉が擦れ合った。

男は木の前に立ったまま、しばらく動かなかった。

それからバケツを持ち、キャンバスのところへ戻った。

数日後。

男は大きな噴水のある公園で絵を描いていた。

水面に光を置く。

消す。

もう一度置く。

筆先を止める。

少し離れて見る。

首を傾ける。

また消す。

やがて筆を置き、公園を歩き始めた。

一羽の鳩が降りてきた。

男の前を横切る。

少し遅れて、もう一羽。

それから数羽。

地面をつつき、走り、止まり、また走る。

男は眼鏡をかけた。

何も起こらなかった。

鳩は鳩のままだった。

男は眼鏡を外す。

レンズを見る。

指で触れる。

噴水のそばに置いた絵の具を見る。

引き返した。

黄色の絵の具を指先につける。

レンズの端に薄く伸ばした。

もう一度、鳩のところへ行く。

眼鏡をかける。

一羽が歩き出した。

二羽がその後を追った。

少し離れていた一羽が近づいてくる。

先にいた鳩が立ち止まった。

全員がそろうと、また歩き始めた。

男はしゃがんだ。

ポケットを探る。

朝に食べたパンの切れ端が残っていた。

小さくちぎる。

地面に置く。

鳩たちが集まる。

くちばしが地面を叩く。

一羽が大きな欠片をくわえて走る。

別の鳩が追いかける。

その後ろを、もう一羽がついていく。

男はしゃがんだまま見ていた。

やがてパンがなくなった。

鳩は少しずつ散っていった。

男は立ち上がった。

キャンバスの前へ戻る。

黄色の残った眼鏡を外す。

しばらくレンズを見てから、机代わりの箱の上に置いた。

筆を取った。

その後、男は何度かレンズに色をつけた。

青。

黄色。

緑。

赤。

何も起こらないこともあった。

道端に座っている犬を十分近くまで見に行き、ただ眠っていただけだったこともあった。

遠くで揺れている光を追いかけ、ガラスに反射した夕日だったこともあった。

それでも、以前なら通り過ぎていた場所で足が止まるようになった。

信号が青になっても、すぐには歩き出さないことがあった。

道端の植木鉢を見る。

店の前で待っている犬を見る。

閉じた窓の向こうを見る。

誰かが後ろから追い越していく。

男は少し遅れて歩き出す。

ある午後、近所の庭で老人を見つけた。

ベンチに座り、ほとんど動かない。

両手を膝の上に置いている。

背中は小さく丸まり、顎が胸の方へ落ちていた。

男は道の反対側で止まった。

しばらく老人を見る。

その日は桃色の絵の具を使っていた。

指先に残った絵の具をレンズへ伸ばす。

眼鏡をかける。

老人の足元に花があった。

小さな花だった。

芝生の間から、いくつも伸びている。

ベンチの脚の周りにも咲いている。

老人の靴のそばにも一輪ある。

男は瞬きをした。

花は消えなかった。

眼鏡を少しずらす。

芝生。

戻す。

花。

男は老人のところまで歩いた。

声をかけようとして、口を閉じた。

老人が顔を上げる。

二人の目が合った。

男はベンチの端を見る。

空いている。

けれど座らなかった。

「死ぬのが、怖くないんですか」

老人はすぐには答えなかった。

前を向く。

庭の向こうを一台の車が通っていった。

「妻が先に行ってるからね」

老人はそう言った。

口元が少し上がる。

「会えるなら、そんなに悪くない」

それから目を閉じた。

少しして、

「眠くなった」

と言った。

男は老人を見た。

眼鏡を外す。

花は消えた。

「じゃあ」

それだけ言い、その場を離れた。

夕方、同じ道を通った。

老人はまだベンチに座っていた。

遠くから眼鏡をかける。

朝よりも花が増えていた。

ベンチの下から芝生の端まで広がっている。

白いもの。

薄い桃色のもの。

名前の分からない小さな花。

男は道路の向こう側に立ったまま見ていた。

近づかなかった。

数日後の夕方。

男はスーパーにいた。

食パンを取る。

卵をかごに入れる。

牛乳の値札を見る。

手を伸ばしかけて、やめる。

棚の下の商品を取ろうとかがんだ。

胸元から眼鏡が落ちた。

硬い床に当たる音。

男が手を伸ばす。

靴が一歩入ってきた。

乾いた音がした。

「あ」

靴が止まった。

履いていた人が慌てて足を上げる。

「すみません」

男は床にしゃがんだ。

「本当に、すみません」

眼鏡を拾う。

フレームが折れている。

片方のレンズに細いひびが入っている。

男は何度か折れた部分を合わせた。

指を離す。

外れる。

相手はまだ何か言っていた。

男は眼鏡を握った。

買い物かごをその場に置き、店を出た。

食パンと卵が、かごの中に残った。

家へ帰る。

机の上に眼鏡を置く。

引き出しを開ける。

セロハンテープを出す。

短く切る。

折れた部分に巻く。

かける。

右側が下がる。

外す。

巻き直す。

今度はレンズが外れかける。

指で押し込む。

かける。

ひびの向こうで部屋がずれる。

男は外した。

もう一度、テープを切った。

机の上には絵の具が並んでいた。

青。

黄色。

桃色。

乾いた絵の具が、チューブの口に固まっている。

男はテープを持ったまま座っていた。

翌日、キャンバスには布が掛かったままだった。

その次の日も。

パレットに残った絵の具が乾いていった。

窓から入る光が、床を横切った。

男は眠った。

目を覚ます。

水を飲む。

カーテンを少し開ける。

また閉じる。

何日目か分からなくなったころ、テーブルの上の眼鏡に埃がついていた。

一週間ほど経った。

男は外へ出た。

何も持たずに歩いた。

以前、鳩を見た公園まで来た。

ベンチに座る。

噴水が上がっている。

子どもが水際を走る。

犬を連れた人が通り過ぎる。

自転車が一台、園路を横切る。

一羽の鳩が男の足元まで来た。

地面をつつく。

男はポケットに手を入れた。

何も入っていない。

反対側のポケットも探った。

鳩は男を見上げた。

しばらくして、向きを変える。

歩いていく。

数歩先で羽を広げた。

男はその姿を目で追った。

飛んでいった鳩は木の向こうへ消えた。

男はしばらく空を見ていた。

それから立ち上がった。

家へ戻る。

布を外す。

キャンバスを持つ。

絵の具を鞄に入れる。

筆をまとめる。

壊れた眼鏡には触れなかった。

公園へ戻る。

キャンバスを立てる。

絵を描き始めた。

最初の線を引く。

少し曲がる。

布で拭く。

もう一度引く。

噴水を描く。

木を描く。

ベンチを描く。

そこに座っている人を描く。

少し離れる。

目を細める。

キャンバスへ近づく。

色を置く。

手が止まる。

警報音が聞こえた。

男は顔を上げた。

公園の向こうに煙が見えた。

誰かが走っている。

別の人も走る。

声が重なる。

男は筆を置いた。

マンションの一室から炎が出ていた。

入口から人が次々と出てくる。

泣いている人がいる。

名前を呼んでいる人がいる。

男は立っていた。

炎を見る。

入口を見る。

一度、キャンバスへ目を戻す。

それから走った。

煙が空へ上がっていった。

消防車のサイレンが近づいてきた。

人の声に混じり、赤ん坊の泣き声がした。

少しして、マンションの入口から男が出てきた。

服が煤で汚れている。

腕の中に赤ん坊を抱いている。

女性が人を押し分けて駆け寄ってくる。

男は赤ん坊を渡した。

女性はその子を抱きしめた。

何かを言う。

男は一度だけ頭を下げた。

咳をする。

手の甲で口元を拭う。

人の間を抜ける。

公園へ戻る。

地面に置いた筆を拾う。

途中まで描いたキャンバスを持ち上げる。

噴水。

木。

ベンチ。

何人かの人。

端の方に、まだ塗られていない場所が残っている。

男はその白い部分を少し見た。

キャンバスを抱える。

歩き出す。

遠くで、まだサイレンが鳴っている。

男の手に、眼鏡はなかった。