水面でもがいているチョウがいる。
片方の翼はもう、ほとんど残っていない。
それでも脚だけは、水を蹴り続けている。
雲が赤くなっていく。
遠くで、聞いたことのない獣が鳴いた。
声は谷を渡り、少し遅れてこちらまで届く。
山﨑と出会ったのは、僕がこのバーへ通い始めて間もない頃だった。
白髪混じりで、ほとんど喋らない。
カウンターの端に座っていると、客というより、最初からそこに置かれていたもののように見えた。
僕はその隣が嫌いではなかった。
名前を教えた覚えはない。
それなのに、山﨑が話す物語には、ときどき僕の名前が出てきた。
最初は聞き間違いだと思った。
二度目からは聞き返さなかった。
その夜、月は丸かった。
店の外で犬が吠えた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
山﨑はグラスを見たまま言った。
「河だな」
「何が?」
「いま鳴いたやつ」
「犬じゃないの」
「姿を見たのか」
「見てないけど」
「じゃあ、河でいい」
「素朴な名前だね」
「悪くないだろう?」
山﨑は赤ワインをオレンジジュースで割って飲んでいた。
氷が溶け、グラスの中の色が少しずつ薄くなる。
そんな飲み方をする人を、僕はほかに知らない。
「河が死んでいる」
山﨑は言った。
「さっきまで鳴いていたのに、もう転がっている。一体だけじゃない。そこら中にいる。同じ形のものが、山みたいに積み重なっている。隙間がない。高いところへ登っても、その先が見えない」
僕はグラスの水滴を指でなぞった。
「海みたいだ」
「山じゃないの」
「どっちでもいい。終わりが見えないなら」
山﨑の話は、だいたいいつも突然始まった。
「河の周りにもいる。口を開けたままのやつと、閉じたままのやつ。目を開けているのもいる。でも、見てはいない」
山﨑は自分の二の腕を指で押した。
「ここが抉れている」
「誰の?」
「河の」
「自分で?」
「たぶん」
山﨑はシャツの袖を捲った。
同じ場所に傷があった。
古い傷だった。
皮膚だけが少し引きつれている。
「それは?」
「何だろうな」
山﨑は袖を戻した。
それ以上は何も言わなかった。
店の入口を見る。
ガラス越しに、道路を車が通り過ぎていく。
赤いテールランプが二つ、暗がりの中へ消えた。
山﨑はナッツを一粒つまんだ。
「河じゃなくて、溝口じゃ駄目かな」
「それはいささかネーミングセンスに欠ける」
「どこが?」
「すべてが」
「河も大概だと思うけど」
「河には河になる理由がある」
「じゃあ、溝口にもあるよ」
「例えば?」
「いま思いついた」
「それでは駄目だ」
チリンチリン、とベルが鳴った。
誰かが店を出た。
山﨑はそちらを見た。
「なぜ人は死んだら消えないんだろうな」
「急だね」
「死んだのに、そこにいる」
「死体として?」
「そう」
「じゃあ、死体だからじゃない」
「死んだ人、じゃなくて?」
「死んだ人でもいい」
「どっちなんだろうな」
山﨑はグラスを持ち上げた。
「言葉を変えただけで、別のものになる」
「中身は同じだけど」
「本当に?」
僕は答えなかった。
カウンターの向こうで、店員が空いたグラスを洗っている。
水の音だけが続く。
入り口の近くで、人が立ち上がった。
椅子を引く音。
靴底が床を擦る音。
二本の脚がこちらへ近づいてくる。
山﨑はその足元を見ながら言った。
「呼吸をやめたら死ぬ。食べなくても死ぬ。寒すぎても死ぬ。眠ったまま起きないこともある」
近づいてきた男は、僕たちの後ろを通り過ぎた。
「だから?」
「いや」
山﨑は少し考えてから、残っていた酒を飲んだ。
「こんな話をしている間にも、何かは死んでいるんだろうな」
店の時計を見る。
「そろそろ時間だ」
「続きは?」
「また次の機会に」
「ああ。また次回に」
山﨑は立たなかった。
僕も立たなかった。
グラスの底には、黒っぽくなった液体が少しだけ残っている。
照明のせいか、ワインのせいかは分からない。
血のように見えた。
山﨑が自分の頬へ指を当てた。
「ここに一本、線を引くとする」
人差し指を頬骨から顎へ滑らせる。
「黒い線」
今度は少し横へずらす。
「こっちは赤い線」
「何の話?」
「同じ顔でも、線の場所が違えば違う顔に見える」
「顔は変わってない」
「でも、見る側は変わる」
「それなら」
僕は山﨑の顔を見た。
「それは顔である意味はあるのか」
山﨑は何も答えなかった。
外が暗くなる。
黒い鳥が鳴いた。
数メートル先で、何かが落ちた。
羽根が道路に散った。
河の同種が集まってくる。
鼻息を荒くしながら、黒い羽根を毟る。
一羽分の黒が、少しずつ減っていく。
まだ完全には沈んでいない太陽が、その後ろにある。
鳥の声だけが残っている。
溝口は立ち上がった。
いや。
北山だったか。
椅子を戻し、店の外へ出ていく。
ベルが一度鳴った。
僕は名前を思い出そうとした。
山﨑。
溝口。
北山。
どれも少しずつ違う気がした。
名前なんてどうでもいい。
そこで起きたことさえ、覚えていれば。
外を見る。
チョウが飛んでいる。
火事の火の粉が、風に乗って流れてくる。
ひとつが、チョウの翼に触れる。
小さな火だった。
すぐに消えると思った。
消えなかった。
火は翼を走り、身体へ移る。
チョウはまだ飛んでいる。
少し傾く。
もう一度、羽ばたく。
翼の端が崩れる。
高度が落ちる。
その下を、川が流れている。
チョウが落ちる。
水面に触れる。
片方の翼はもう、ほとんど残っていない。
それでも脚だけは、水を蹴り続けている。


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