朝起きると、私だけ影がなかった。
窓から日が入っている。
机にも椅子にも影がある。
足元だけが、明るい。
ベッドから降りた。
片足を前へ出す。
もう片方も出す。
床には何も増えなかった。
窓の前まで歩いた。
朝の日差しが胸に当たる。
振り返る。
壁には窓枠の影があり、カーテンの皺が細く揺れている。
私の形だけがない。
手を上げた。
何も動かなかった。
顔を洗った。
水を飲んだ。
戻ってきても、影はなかった。
携帯電話で足元を撮った。
画面の中でも、私は影を持っていない。
部屋の照明をつけた。
机の脚には二つ目の影ができた。
私には一つもできなかった。
今日は仕事だった。
影がない以外、身体には何も起きていない。
熱もない。
頭も痛くない。
空腹もある。
着替えた。
財布。
携帯電話。
社員証。
いつものものを鞄へ入れた。
玄関を出る。
廊下には蛍光灯の下で郵便受けの影が伸びていた。
植木鉢。
手すり。
階段。
その間を、私は何も落とさずに通った。
外はよく晴れていた。
電柱の影。
車の影。
自転車。
犬。
犬を連れている人。
それぞれが地面へ形を残している。
私だけ、何もない。
駅まで何度か足元を見た。
誰もこちらを見なかった。
人は思っているより、他人の影を見ていないらしい。
ホームでは、いくつもの影が重なっていた。
電車が来た。
中へ入る。
車内では、もう誰の影が誰のものなのか分からない。
私はいつもの駅で降りた。
会社まで歩いた。
社員証をかざす。
反応音。
エレベーター。
いつもの階。
ドアが開く。
そこで、影を見つけた。
私の席にいた。
椅子の下から床へ伸びている。
窓から差した朝の光で、机や椅子の影が並んでいる。
その中に一つだけ、人が座っている形の影があった。
入口で立ち止まった。
肩が少し丸い。
肘を机につけている。
頭を前へ傾けている。
仕事をしているときの私の姿勢だった。
「どうしたんですか」
隣の席の人に声をかけられた。
「いや」
私は床を見た。
「何でもないです」
鞄を置いた。
椅子を引いた。
座る。
影が動いた。
床を滑るように縮まり、私の足元へ戻ってきた。
机の上に手の影ができた。
指を動かす。
影も動く。
それで終わった。
翌朝。
起きる。
影がない。
会社へ行く。
先にいる。
座る。
戻る。
三日目も。
四日目も。
五日目には、起きて最初に足元を見るだけになった。
ない。
それを確認して、顔を洗う。
検索したこともある。
「影 朝 なくなる」
照明の記事。
写真撮影の記事。
質問サイト。
読むのをやめた。
会社へ行けば戻る。
それなら、それでいいと思った。
影なしで歩く朝にも慣れた。
道路に人の影が伸びている。
私の足元だけが空いている。
何かを家へ忘れてきたようでもあり、もう先へ送ってしまったようでもあった。
一週間ほどして、上司に言われた。
「最近、来るの早いね」
給湯室でコーヒーを入れているときだった。
「いつも同じ時間ですよ」
始業十五分前。
「いや、もっと前からいるじゃん」
「いないですよ」
「六時台とか」
「寝てます」
上司が笑った。
「でもいるんだよな」
私は少し考えた。
「影のことですか」
一度、私の顔を見た。
それから笑った。
「何それ」
私も笑った。
その日の朝、パソコンを開いた。
メールが三通、既読になっていた。
送信済みフォルダには一通。
午前六時十二分。
「確認しました。こちらで進めます。」
私がよく使う書き方だった。
その時間、私は眠っていた。
机の上に置いたままだった書類も並べ替えられていた。
付箋が貼られている。
昨日、帰る前に頭の中で考えていた順番だった。
隣の人に聞いた。
「朝、誰かこの席使ってました?」
「見てないけど」
「パソコン触ってる人とか」
「早く来てたんじゃないの?」
「寝てました」
「じゃあ違うんじゃない」
その人は画面へ戻った。
翌朝。
また一通、返信されていた。
次の日は二通。
その次の日には、作成途中だった表が完成していた。
数字も合っている。
計算式も入っている。
列の幅。
文字の位置。
途中に少し空白を残す癖。
自分が作ったものと区別できなかった。
違うのは、完成していることだけだった。
一時間はかかると思っていた。
影は終えていた。
それから朝ごとに、何かが少しずつ片付いていった。
メール。
入力。
確認。
資料整理。
最初は怖かった。
パスワードを変えた。
翌朝も仕事は進んでいた。
パソコンをシャットダウンして帰った。
翌朝、起動するとファイルは更新されていた。
電源コードまで抜こうとして、やめた。
そこまでして確かめたいのか分からなくなった。
ある日、途中の仕事を意図的に残した。
定時になった。
保存する。
帰る。
翌朝。
終わっていた。
それから、ときどき仕事を残して帰るようになった。
「明日の朝やればいい」
そう思う。
でも、明日の朝やるのは私ではない。
それでも言葉としては、
「明日の朝やる」
だった。
残業が減った。
帰宅時間が一定になった。
夕食が早くなった。
風呂も早くなった。
上司から、
「最近、効率いいね」
と言われた。
「ありがとうございます」
「何か変えた?」
「特には」
昼の蛍光灯の下では、影は普通に私の足元にあった。
同僚にも言われた。
「最近ずっと定時じゃない?」
「そうですね」
「羨ましい」
私は笑った。
土曜日。
朝起きる。
影があった。
窓の光の中で、私が手を動かすと、床の影も動いた。
日曜日もいた。
月曜日。
いない。
祝日にはいた。
有給休暇の日にもいた。
会社へ行く日にだけ、朝にはもういない。
試しに手帳へ書いた。
月 なし
火 なし
水 なし
木 なし
金 なし
土 あり
日 あり
翌週も同じだった。
私より正確に勤務予定を把握している。
ある平日に休みを取った。
朝。
影があった。
窓際に立つ。
足元から長く伸びる。
その日は昼まで寝た。
買い物へ行った。
スーパーから帰る夕方まで、ずっとついてきた。
翌朝には、またいなかった。
会社へ着いた直後、私はしばらく入口から自分の席を見るようになった。
影がいる。
まだ私ではない。
近づく。
椅子へ座る。
戻る。
毎朝そこには、ごく短い引き継ぎがあった。
何を引き継いでいるのかは分からない。
私はまずメールを見るのをやめた。
前夜残した仕事が、どこまで進んでいるかを見る。
今日は三つ。
今日は一つ。
今日は全部。
締切が近いものから終わっている。
優先順位まで分かっていた。
ある日、二つの作業のどちらから始めるか決めないまま帰った。
翌朝、一方だけ終わっていた。
それは、朝になって私が先にやろうと思った方だった。
昨日は決めていなかった。
本当に決めていなかったか考えた。
無意識では決めていたのかもしれない。
影は私なのだから。
そう思うと、少しだけ考えずに済んだ。
別の日。
送信前のメールが一通、下書きに入っていた。
「こちらの件、承知しました。修正版を本日中に共有します。」
短かった。
私なら、
「ご連絡ありがとうございます」
を入れたと思う。
最後に、
「よろしくお願いいたします」
も書いたかもしれない。
私はそのまま送った。
先方から、
「ありがとうございます」
と返ってきた。
それ以降、影の文章をあまり直さなくなった。
表も。
資料も。
メールも。
やがて送信まで終わっていることが増えた。
私の名前で。
私のアドレスから。
問題は起きなかった。
むしろミスが減った。
影は後回しにしない。
別のページを開かない。
携帯電話を見ない。
昼食後に眠くならない。
疲れない。
同じ作業を嫌がらない。
気分にも左右されない。
仕事をするということだけなら、影の方が私より向いていた。
それでも昼間は、まだ足元へ戻ってきた。
午前。
昼。
午後。
定時。
会社を出る。
私が歩けば、影も歩く。
帰宅する。
食事をする。
風呂に入る。
眠る。
翌朝。
いない。
何時に出ていくのか知りたくなった。
ある晩、目覚ましを四時半にした。
起きる。
部屋は暗い。
小さな灯りをつける。
足元には影がある。
五時。
いる。
五時半。
いる。
六時。
まだいる。
六時五分。
六時十分。
私は床に座っていた。
何をしているのだろうと思った。
自分の影が出勤するところを見ようとしている。
携帯電話の画面を見る。
六時十一分。
顔を上げた。
影がなかった。
消えるところは見られなかった。
ほんの数秒前にはあった。
時計を見る。
六時十二分。
最初にメールが送られていた時刻だった。
会社の始業は八時半。
影は二時間以上早く出勤している。
次の日も六時十二分にはいなかった。
その次の日も。
どうやって会社まで行くのかは分からない。
電車なのか。
道を通るのか。
最初から席に現れるのか。
確かめるために早朝の会社へ行こうとは思わなかった。
影に会うために、影より早く出勤する。
その方が変だった。
ある朝、身体がひどく重かった。
目覚ましを止める。
もう一度鳴る。
また止める。
熱はなかった。
頭も痛くない。
ただ、布団から起き上がれなかった。
足を床へ下ろす。
影はない。
七時二十分。
もう会社にいる。
私は携帯電話を開いた。
「体調不良のため、本日休みます。ご迷惑をおかけします。」
送る。
また眠った。
昼過ぎ。
目を覚ます。
会社からメッセージ。
「来てるけど、大丈夫?」
画面をしばらく見た。
返信する。
「今日休みです」
すぐ返ってきた。
「え?」
「朝連絡しました」
「でもいるよ」
足元を見る。
影はない。
会社へ電話した。
同僚が出た。
「私、家にいます」
「うん」
「今日休みです」
「そうらしいね」
「いるって何ですか」
少し沈黙。
「いるよ」
「誰が?」
「あなた」
「私は家にいます」
電話の向こうでキーボードの音がした。
コピー機。
誰かの声。
いつもの職場の音。
「じゃあ、これ何」
椅子を引く音がした。
私は電話を切った。
服を着た。
会社へ向かった。
昼の日差しは強かった。
ガードレール。
信号機。
自動販売機。
通り過ぎる人。
濃い影が地面へ落ちている。
私は何も落とさない。
横断歩道で信号を待った。
隣に小学生が立っていた。
その子の影が私の靴まで伸びた。
青になる。
子どもが歩く。
影も離れていった。
会社へ着いた。
エレベーターを降りる。
入口から見る。
自分の席に、影がいた。
今日は椅子の下だけではなかった。
床から壁へ立ち上がっていた。
光の向きとは合っていない。
椅子に座る人の形。
私より少し姿勢がよかった。
背中が伸びている。
肩が落ちていない。
机を見る。
朝には残っていたはずの仕事が終わっていた。
今日の分も。
明日まででよかったものも。
来週確認する予定だった項目まで整理されている。
送信済みメール。
十一件。
資料。
四件。
確認済み。
三件。
影に近づいた。
椅子を引く。
座る。
何も起きない。
足元を見る。
影はない。
立ち上がる。
壁の前へ行く。
足を重ねる。
何も起きない。
手を上げる。
壁の影は上げない。
キーボードには誰も触れていない。
画面に文字が増えていく。
一行。
また一行。
カーソルが移動する。
保存。
次のファイル。
私は自分の席の横に立った。
上司が来た。
「大丈夫?」
「はい」
「休みじゃなかった?」
「そのつもりでした」
上司は壁を見る。
私を見る。
また壁を見る。
「これ」
私は言った。
「私じゃないです」
「そう」
「でも」
画面に視線を移した。
「仕事は進んでますね」
上司はしばらく黙っていた。
「今日は帰っていいよ」
「でも」
「休みなんでしょ」
「そうですけど」
「仕事、進んでるから」
私は鞄を持った。
入口で振り返る。
影はまだ画面へ向いていた。
その日、影は戻らなかった。
夕方。
机から影が伸びた。
椅子。
カップ。
棚。
私にはない。
十九時。
ない。
二十時。
ない。
翌朝。
ない。
会社へ行く。
影は席にいた。
座る。
戻らない。
それから、私と影は別々になった。
最初の数日は普通に会社へ行った。
八時過ぎ。
影はもう働いている。
私は隣の空いている席を使った。
自分の仕事を始めようとする。
終わっている。
メール。
返信済み。
昨日の残り。
完了。
資料。
作成済み。
同僚がファイルを持ってきた。
「これお願いしていい?」
「はい」
開く。
数分後、共有フォルダへ完成版が上がった。
「もう終わった?」
「まだです」
「でも上がってるよ」
私は確認した。
終わっていた。
「助かった」
「はい」
次の日から、少し遅く行った。
九時。
影は働いている。
十時。
働いている。
昼。
私のすることはほとんどない。
勤怠システムを見る。
出勤時刻。
6:12。
翌日も。
6:12。
その次も。
6:12。
退勤時刻は十八時前後。
記録の上では、毎日十一時間近く働いている。
人事からメールが来た。
「勤務時間が長くなっています。体調管理にご注意ください。」
返信欄を開いた。
何を書けばいいか分からなかった。
「承知しました。」
送った。
翌週、同じような連絡が来た。
今度は影が返信していた。
「ご連絡ありがとうございます。業務調整いたします。」
勤務時間は変わらなかった。
それ以上、何も言われなかった。
給与は普通に振り込まれた。
残業代が少し増えた。
使っていいのか迷った。
銀行口座の名義は私。
社員番号も私。
社会保険も私。
評価シートも私。
影には、名前がなかった。
だから給与は私に入る。
そういうことにした。
会社では少しずつ、私より影へ仕事を置いていく人が増えた。
「これ、明日までにお願い」
私はそこにいない。
机へ書類が置かれる。
翌日には終わっている。
午後に会社へ行く。
「朝のうちに置いといた」
「何を?」
「資料」
確認する。
処理済み。
「助かった」
「どういたしまして」
私が答える。
ある日、上司が壁へ向かって言った。
「来週の件も頼める?」
私はその横に立っていた。
影は返事をしない。
翌朝には資料ができていた。
それから会社へ行く日は減った。
火曜日に行かない。
水曜日に行く。
木曜日も行かない。
仕事は進む。
誰も、
「昨日どうしたの」
とは言わない。
勤怠記録には出勤している。
机には影がいる。
仕事は終わっている。
欠勤しているのは、身体だけだった。
次の週は二日。
その次は一日。
朝、家でコーヒーを入れた。
八時半。
窓の外を人が歩いている。
鞄を持つ人。
自転車を押す人。
信号へ走る人。
それぞれ足元に影がある。
私はカップを持っている。
机にもカップにも影がある。
私だけない。
最初は、何かしなくてはと思った。
洗濯。
掃除。
買い物。
本を読む。
散歩。
でも何をしていても、時計を見る。
九時。
今ごろ仕事をしている。
十二時。
昼休みなのだろうか。
記録を見ると、十二時台にもファイルが更新されている。
影は休憩を取っていないらしい。
ある日、公園のベンチに座っていた。
携帯電話が震えた。
同僚からだった。
「昨日の会議ありがとう」
昨日のその時間、私はスーパーにいた。
牛乳とパンを買っていた。
電話する。
「昨日、私いました?」
「いたよ」
「喋りました?」
「たぶん」
「たぶん?」
「資料出してたじゃん」
「家にいました」
相手が笑った。
「またそれ?」
私は黙った。
少しして、
「でも別に困ってないでしょ」
と言った。
通話を切った。
ベンチの前を人が通った。
木漏れ日の中を、いくつもの影が横切る。
会社は困っていない。
同僚も。
上司も。
取引先も。
仕事は以前より速い。
ミスも少ない。
私は満員電車に乗らない。
残業もしない。
給与も入る。
一か月後、会社へ行くのをやめた。
退職したわけではない。
月曜日。
行かなかった。
火曜日。
行かなかった。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
会社から連絡は来なかった。
月末の評価シートには、
「業務処理速度が向上している」
と書かれていた。
少し笑った。
朝起きる。
影はない。
コーヒーを入れる。
八時半。
始業時間。
窓の外では人が仕事へ向かっている。
会社では、私の名前が働いている。
社員番号。
メールアドレス。
勤怠記録。
実績。
給与。
どれもそのままだった。
ある日、退職届を作ろうとした。
パソコンを開く。
「一身上の都合により」
そこで止まった。
保存せず閉じた。
翌朝、会社の共有フォルダを確認した。
退職届はなかった。
少し安心した。
影は、私が途中でやめたものすべてを終わらせるわけではなかった。
仕事だけだった。
休日にも影は戻らなくなった。
土曜日。
日曜日。
足元には何もない。
どこにいるのかは分からない。
誰もいない会社の壁にいるのかもしれない。
どこにもいないのかもしれない。
確かめなかった。
写真を見ることが増えた。
数年前。
旅行。
学生の頃。
道路。
海。
公園。
本人より先に足元を見る。
どの写真にも影がある。
長いもの。
短いもの。
誰かの影と重なっているもの。
当時は一度も見ていなかった。
写真の中の私は笑っている。
足元には影がある。
今の私は、その写真を影なしで見ている。
平日の昼間、喫茶店へ行った。
窓際へ座る。
パソコンを開いている人。
電話する人。
手帳へ書く人。
その足元に影がある。
私はコーヒーを飲む。
携帯電話が震えた。
会社のメール。
「確認ありがとうございます。」
私は何かを確認したらしい。
画面を伏せた。
店内には私がいる。
会社にも、私がいるらしい。
一度だけ、会社の前まで行った。
中には入らなかった。
夕方。
社員が一人ずつ出てくる。
知っている顔もいた。
影も一緒に出てくる。
私は道路の向こうから見ていた。
十八時。
十八時半。
十九時。
私の影は出てこなかった。
窓の明かりが減っていく。
私は帰った。
翌朝、六時十二分にファイルが更新されていた。
ある日、給与明細を見る。
残業時間。
手当。
控除。
振込額。
そのお金で食料を買った。
家賃を払った。
電気代を払った。
レジでカードを出す。
決済音。
数字は普通に減る。
働いた覚えはない。
でも仕事は終わっている。
ある朝、会社からメールが届いた。
業務改善の表彰についてだった。
受賞者欄に私の名前。
式の日程。
参加可否。
回答せず閉じた。
翌日。
「参加」
になっていた。
式の日、私は家にいた。
昼過ぎ、会社の共有フォルダに写真が上がった。
社員が数人並んでいる。
表彰状。
上司。
同僚。
中央に少しだけ空いた場所。
その床から壁へ、人の形が伸びていた。
誰も表彰状を持っていない。
写真の説明には、
「業務改善表彰」
とだけ書かれていた。
夕方、同僚から、
「おめでとう」
と来た。
「ありがとう」
と返した。
その夜、夢を見た。
会社の席に座っている。
仕事をしている。
足元には影がない。
壁にもいない。
目を覚ます。
窓から日が入っていた。
足元を見る。
何もない。
会社の始業時間になる。
コーヒーを入れる。
最近は目覚ましをかけなくなった。
それでも六時半頃には起きる。
身体だけが時間を覚えている。
目を覚ました瞬間、今日の仕事を思い出すことがある。
締切。
予定。
メール。
数秒して、考えなくていいことを思い出す。
カップを持って窓辺へ行く。
道路を人が歩いている。
朝の光が低い。
影が長い。
本人より前へ伸びる影もある。
後ろへついていく影もある。
最初の朝を思い出す。
あの頃は、私もあとから会社へ行った。
席へ座れば、影は戻った。
いつの間にか、待たなくなった。
昼間、映画を見ることもある。
本を読む。
散歩する。
遠くのスーパーまで歩く。
以前欲しかった時間だった。
通勤。
残業。
朝の準備。
帰宅してから仕事を考える時間。
全部なくなった。
それでも夕方になると、身体が少し重くなる。
十七時半。
十八時。
肩が下がる。
目を閉じたくなる。
何をしたわけでもない日にも。
以前なら会社を出ていた時間だった。
夜になる。
部屋の電気を消す。
家具の影も消える。
暗闇では、私だけ違うということが分からなくなる。
朝になる。
また光が入る。
机。
椅子。
カップ。
棚。
植物。
読みかけの本。
脱いだ服。
使っていない鞄。
一つずつ、床へ形を落としていく。
私はコーヒーを飲む。
時計を見る。
六時十二分を過ぎている。
会社の画面には、もう文字が増えているのかもしれない。
誰かに、
「おはようございます」
と言われているかもしれない。
返事はしないだろう。
それでも仕事は進む。
八時半になる。
始業時間。
私は窓際にいる。
会社では、今日も私の名前が出勤している。
夕方。
日が傾く。
部屋の影が長くなる。
机。
椅子。
カップ。
棚。
植物。
窓枠。
光が低くなるほど、遠くまで伸びる。
私はその間に立っている。
何も伸びない。
窓の外を見る。
帰宅する人たちの影が道路を横切っていく。
本人より先を歩くもの。
後ろからついていくもの。
交差点で重なるもの。
信号が変わる。
人が進む。
影も進む。
私だけが、どこにも伸びていない。


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