六畳、五十七デシベル

夕暮れの街を望む六畳の和室を横切る、声を思わせる一本の波形

「こんにちは」

五十二。

画面の数字が止まる。

その下に、五万二千円と表示された。

この街では、声の大きさで家賃が決まる。

一デシベルにつき、月千円。

私はその日、自分の声に初めて値段がつくところを見た。

不動産会社の奥に、小さな防音室があった。

机と椅子とマイク。

壁には測定用の画面。

床には、椅子の位置を示す白いテープが貼られている。

担当者は扉の外から、

「普段の声でお願いします」

と言った。

画面に文章が出た。

こんにちは。

今日はいい天気ですね。

よろしくお願いします。

三回読む。

五十五。

五十一。

五十。

平均五十二デシベル。

基準家賃、五万二千円。

「平均くらいですね」

担当者が言った。

「平均って、どのくらいなんですか」

「五十前後です」

「じゃあ普通ですね」

「そうですね」

普通。

その言葉に少し安心した。

部屋は駅から十分ほど。

六階。

六畳と小さな台所。

窓からは隣のマンションと、その向こうに線路が少し見える。

物件検索サイトには、駅からの距離や築年数と並んで「基準声量」という項目があった。

四十デシベル以下。

五十前後。

六十五以上。

二階以上。

バス・トイレ別。

声量五十五デシベル以下。

そういう条件で部屋を探す人もいた。

引っ越してきたばかりの頃、私はこの制度を変わっていると思っていた。

でも、不動産屋は、

「駅に近いので少し高めです」

と言うのと同じ調子で、

「声量が高いと少し上がります」

と言った。

説明する必要があることと、ないことの境目が、私とは少し違うだけだった。

壁は思っていたほど厚くなかった。

声で家賃が決まる街なのだから、建物全体が防音仕様なのかと思っていた。

反対側の部屋から水を流す音は聞こえる。

椅子を引く音も。

上の階を歩く音もする。

ただ、人の話し声はほとんど聞こえなかった。

隣には女性が住んでいた。

年齢はよく分からなかった。

私より少し上にも見えたし、同じくらいにも見えた。

朝、何度かエレベーターで一緒になった。

彼女は乗るとき、いつも軽く頭を下げた。

何度目かに、口元が動いているのに気づいた。

「おはようございます」

と言っていた。

声はほとんど聞こえなかった。

私は、

「おはようございます」

と返した。

彼女は少し驚いて、それから笑った。

笑い声は聞こえなかった。

しばらくして、彼女の基準声量が三十八デシベルだと知った。

本人からではない。

郵便受けの前で、管理人が何かの確認をしているときに数字が聞こえた。

三十八。

三万八千円。

部屋へ戻ってから、スマートフォンに音量測定アプリを入れた。

「こんにちは」

四十八。

もう一度。

四十五。

さらに小さく。

四十一。

三十八にしようとすると、自分の耳にもほとんど届かなくなった。

駅前には、声を小さくする教室があった。

窓に、

三か月で平均5dB減

と貼られている。

その下に、

年間60,000円の住居費削減も

と小さく書かれていた。

呼吸法。

喉の使い方。

口の開き方。

遠くから人を呼ばない練習。

怒っているときにも声量を上げない方法。

笑い声を抑える練習。

受講料は月八千円。

四デシベル下がれば、二か月で元が取れる。

私は通わなかった。

五万二千円なら払えたし、家賃のために話し方まで変えたいとは思わなかった。

最初の一年は、特に何もなかった。

仕事へ行く。

帰る。

食べる。

眠る。

休日に買い物へ行く。

街は少し静かだった。

電車では話している人が少ない。

飲食店でも、隣の席の会話は聞こえにくい。

公園で子どもが遊んでいても、声が遠くまで飛んでこない。

そういう土地柄なのだと思っていた。

二年目の更新で、もう一度防音室へ入った。

同じ椅子。

同じマイク。

同じ文章。

こんにちは。

今日はいい天気ですね。

よろしくお願いします。

五十。

四十八。

四十九。

平均四十九デシベル。

「下がりましたね」

担当者が言った。

「何もしてないです」

「そういう方もいます」

家賃は四万九千円。

三千円安くなった。

考えてみれば、その一年で仕事が変わっていた。

以前は隣の席に人がいて、分からないことがあれば声をかけていた。

今は一日中画面を見る時間が長い。

昼食も一人で食べることが多い。

家に帰れば、当然、一人だった。

一日の中で、自分の声を聞かない日もあった。

三年目。

四十六。

四年目。

四十二。

家賃は毎年少しずつ下がった。

給与はほとんど変わらなかったので、助かった。

最初の年と比べれば、年間十万円以上違う。

靴を買える。

家電を替えられる。

少し遠くへ行ける。

何もしなくても、毎月少し残る。

通帳を見ると、声が小さくなることを悪いとは思わなくなった。

三年目の冬、昔からの友人と食事をした。

駅前の居酒屋。

店内には音楽が流れていた。

私は料理を取りながら何か言った。

友人が、

「え?」

と聞いた。

もう一度言う。

「何?」

三度目に少し声を張った。

「ああ」

友人は笑った。

「お前、声小さくなったな」

私は、

「そう?」

と返した。

「前はもっと普通だったよ」

普通。

その言葉で、最初の防音室を思い出した。

五十二デシベル。

平均くらい。

普通。

今は四十二だった。

それから、聞き返されることが増えた。

コンビニで、

「袋お願いします」

と言っても届かない。

もう一度。

飲食店で、

「すみません」

と呼んでも振り返られない。

二度目を言わず、店員が近くへ来るまで待つことが増えた。

電話では、

「もう少し大きな声でお願いします」

と言われる。

オンライン会議では、マイクの入力音量を上げた。

自分の声を大きくするより、機械の方を大きくした。

それでも、大きく困ることはなかった。

街の方が、少しずつ声を使わなくても済む形になっていた。

ある日、駅前の定食屋へ入った。

以前は、

「すみません」

と店員を呼ぶ店だった。

その日はテーブルに小さな画面が置かれていた。

定食を選ぶ。

ご飯の量を選ぶ。

注文する。

食べ終わる。

伝票を持ってレジへ行く。

店員はバーコードを読み取り、私は画面で支払方法を選んだ。

最後まで、声を出さなかった。

店を出るとき、店員が頭を下げた。

私も頭を下げた。

それで終わった。

別の日、病院へ行った。

受付番号はスマートフォンに届いた。

名前は呼ばれなかった。

診察室の前の画面に番号が表示される。

症状も、いつからかも、どこが痛むかも、あらかじめ入力してある。

医師と話した時間は短かった。

帰りに薬局へ寄る。

そこでも番号。

必要なことだけ確認する。

声を使わなくても、だいたいのことが済んだ。

役所には、

会話不要窓口

があった。

必要書類を端末で選ぶ。

本人確認。

申請。

受け取り。

分からないときだけ職員を呼ぶ。

列は長かった。

全国的に同じような仕組みが増えていたのかもしれない。

人手不足。

効率化。

感染症対策の名残。

理由はいくらでもある。

それでも、この街では広告の言葉が少し違った。

話さなくても、もっと便利に。

声を使わない新しい受付。

静かな暮らしを支えます。

声を出さなくて済むことが、少しずつ良いことになっていた。

駅前の教室は三店舗に増えていた。

以前見た教室は広い場所へ移転していた。

新しい広告には、

家賃は固定費です。
声量は改善できます。

と書かれている。

改善。

その言葉が少し気になった。

声が小さいことが良くて、大きいことが悪い。

そういう制度ではないはずだった。

ただ、小さい方が安い。

安くなるものを、悪いとは言いにくい。

会社の同僚が、その教室へ通い始めた。

昼休み、スマートフォンの画面を見せてきた。

「六デシベル下がった」

「六千円?」

「そう。月六千」

うれしそうだった。

講座は三か月で二万四千円。

十分に元が取れる。

画面には練習メニューが並んでいた。

近距離発話。

笑声調整。

感情時声量維持。

非発声コミュニケーション。

「非発声って?」

「指したり、画面見せたり」

「話し方教室なのに」

「まあ、そういう名前だから」

彼は笑った。

声は小さかった。

教室では怒り方も教わるらしい。

怒鳴らない。

相手に近づく。

短く話す。

その場で言わず、あとから文章で送る。

「その方が揉めないし」

同僚は言った。

確かにそうかもしれないと思った。

市役所のWebサイトに、毎年の平均声量が載っていることを知ったのはその頃だった。

生活音環境報告書。

人口。

世帯数。

騒音苦情。

交通量。

その途中に、小さなグラフがある。

十年前、五十四・二。

九年前、五十三・七。

八年前、五十二・九。

前年、四十三・一。

毎年、少しずつ下がっていた。

同じページには、騒音苦情の減少や深夜の近隣トラブル件数が載っていた。

市長のコメントには、

静穏な生活環境の実現

とあった。

制度が始まった理由を調べたこともある。

昔、この街で人口が急に増えた。

小さな集合住宅が大量に建った。

壁が薄く、騒音問題が増えた。

古い建物まで防音性能を上げるには費用がかかりすぎた。

その代わり、一部の住宅で、静かに暮らす人の家賃を割り引く制度が始まった。

自己申告。

簡単な測定。

共通基準。

今の制度。

そこまでは記録に残っていた。

けれど、誰が一デシベル千円と決めたのかは分からなかった。

なぜ今も続いているのかも書かれていなかった。

始まった理由は残っているのに、続いている理由はどこにもなかった。

五年目の春、一階に家族が引っ越してきた。

夫婦と、小さな男の子。

三歳か四歳くらいだった。

最初の日、廊下を走りながら、

「おかあさん」

と呼んだ。

声がよく響いた。

私は玄関の中で、その声を聞いた。

この建物で、子どもの大きな声を聞くのは珍しかった。

数日後。

母親が、

「ここでは静かにね」

と言っていた。

集合住宅なら、どこでも言うような注意だった。

そのあと子どもが聞いた。

「大きい声だと高くなる?」

母親は少し笑った。

「そうだよ」

「いくら?」

「まだあなたの家賃じゃないから大丈夫」

子どもも笑った。

その笑い声は、最初の日より小さかった。

学校では未成年の声を家賃に使わない。

ただ、十八歳になると最初の測定がある。

ある夜、テレビで高校生の特集を見た。

卒業前の生活指導。

防音室。

生徒が、

「よろしくお願いします」

と読む。

画面に四十一と出る。

インタビューで、

「四十以下にしたいです」

と答える。

「どうして?」

「一人暮らししたいので」

その答えに、誰も驚かなかった。

私は、その頃から三十台を意識するようになっていた。

四十二。

あと三下がれば三万円台。

三十九。

三万円台。

四万と三万では、数字の見え方が違う。

教室には通わなかった。

代わりに、少しだけ生活を変えた。

人に近づいてから話す。

離れた場所から呼ばない。

店員を声で呼ばない。

電話よりメッセージ。

笑うとき口を閉じる。

聞き返されたら、一度目より少しだけ大きくする。

やっているつもりはなかった。

でも、やっていたのだと思う。

隣の女性とは、相変わらずエレベーターで会った。

何年も隣にいるのに名前は知らない。

何の仕事をしているのかも知らない。

ただ、帰りは私より少し遅い。

買い物袋から長ねぎが出ていることがある。

冬は濃い色のコート。

雨の日は長い傘。

そのくらいだった。

ある日、彼女の袋からみかんが一つ落ちた。

床を転がった。

私は拾って渡した。

「ありがとうございます」

「いえ」

それだけだった。

その夜、なぜか何度か思い出した。

彼女の声を、たしかに聞いたからかもしれない。

五年目の更新。

三十九・二。

「三万円台ですね」

担当者が言った。

私は少し笑った。

家賃、三万九千円。

最初より一万三千円安い。

年間十五万六千円。

その夜、昔の友人とオンラインで話した。

途中で、

「マイク壊れてる?」

と言われた。

「壊れてない」

「めっちゃ小さい」

設定を開く。

入力音量を上げる。

「これで?」

「ああ、聞こえる」

友人は少し黙った。

「そっちの街って、みんなそうなるの?」

「何が」

「声」

「分からない」

「前はそんな話し方じゃなかった」

「前っていつ」

「大学くらい」

ずいぶん前だった。

「歳じゃない」

と言った。

友人は笑った。

「歳でそんな小さくなるかよ」

私も笑った。

ヘッドホンの中では、自分の笑い声がよく聞こえた。

六年目。

三十四デシベル。

担当者は画面を見て、

「かなり下がりましたね」

と言った。

三万四千円。

最初より一万八千円安い。

帰りのエレベーターで、隣の女性と一緒になった。

六階のボタンは押されている。

二階。

三階。

私は何となく、今日のことを言いたくなった。

「家賃、安くなりました」

彼女がこちらを見た。

首を少し傾げる。

聞こえなかった。

もう一度言えばいい。

少し大きくすれば届く。

その程度のことだった。

一度くらい大きな声を出しても、来年の測定値は変わらない。

測定は一年後。

三回平均。

日常の声を記録されるわけでもない。

分かっていた。

それでも、言い直さなかった。

大きな声を出す理由が見つからなかった。

「なんでもないです」

と笑った。

彼女も笑った。

六階に着いた。

それで終わった。

部屋へ戻る。

家賃は安くなった。

なのに、その数字より、言い直さなかったことの方が残った。

その後も、声を使わなくて済む場所は増えた。

美容室の予約画面に、

会話あり。

必要最低限。

会話なし。

という項目ができた。

私は一度、「会話なし」を選んだ。

椅子に座る。

美容師が鏡越しに確認する。

私はスマートフォンに保存した画像を見せる。

長さ。

前髪。

耳まわり。

全部、画面で伝わると思った。

途中で、少しだけ違うと感じた。

もう少し短く。

本当はそう言いたかった。

でも、会話なしを自分で選んでいた。

私はそのまま何も言わなかった。

店を出てから、ガラスに映った髪を見た。

悪くはなかった。

だから余計に、言わなかったことだけが残った。

不便がなくなると、声を使わない理由もなくなると思っていた。

逆だった。

不便がなくなるほど、声を使う理由が減った。

ある夏の夜、一階の男の子が中庭で遊んでいた。

もう六歳くらいになっていた。

母親と小さなボールを投げ合っている。

ボールが植え込みへ転がった。

男の子が追いかける。

植え込みの向こうには駐車場。

車がゆっくりバックしていた。

母親が何か言った。

男の子は止まらない。

もう一度。

聞こえていない。

三度目に、母親が叫んだ。

「危ない!」

男の子が止まった。

車も止まった。

何も起きなかった。

私は六階の廊下から見ていた。

その声量なら、次の更新で家賃が上がるのだろうか。

一瞬そう考えた。

すぐに嫌なことを考えたと思った。

声は、ああいうときのためにあるのかもしれない。

翌日には忘れた。

七年目の測定が近づいた頃、会社で小さな会議があった。

四人。

私は説明を頼まれた。

数分話したところで、上司が、

「ちょっと聞こえにくい」

と言った。

声を上げる。

少しするとまた下がる。

「もう少しお願いします」

また上げる。

声を出すことに力が必要だった。

喉ではなく、気持ちの方に。

ここまで出していい。

ここにいる人へ届いていい。

そう許可しないと、大きくならなかった。

その夜、自宅で声を測った。

「こんにちは」

三十三。

もう一度。

三十二。

息を吸う。

「こんにちは」

五十一。

出そうと思えば出た。

少し安心した。

画面に、

51.4 dB

と出ている。

私は履歴を消した。

翌週、防音室。

こんにちは。

今日はいい天気ですね。

よろしくお願いします。

三十三。

三十五。

三十四。

平均三十四。

前年とほぼ同じ。

家賃も変わらなかった。

少し安心した。

少し残念だった。

どちらなのか、自分でも分からなかった。

街では、低声量者向けの新築マンションが増えていた。

静かな方ほど、お得。

顔認証。

宅配ボックス。

無人管理。

チャットサポート。

オンライン理事会。

住人同士が話さなくても、建物は運営できる。

人気があるらしかった。

私は引っ越さなかった。

今の部屋に慣れていた。

ある日、郵便受けの前で隣の女性が鍵を落とした。

金属の音。

私が拾う。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

その日は、二人とも聞き返さなかった。

近かったからだ。

声が小さくても、距離が短ければ届く。

そのことを、そこで初めて意識した。

この街では、人は声を小さくした。

その代わりに、近づけばよかった。

けれど、実際には、人同士の距離まで短くなったわけではなかった。

離れた人にはメッセージを送る。

店員は画面で呼ぶ。

窓口は機械になる。

隣人とは話さない。

声を小さくするために近づくのではなく、

声を出さなくて済むように、関係の方を置き換えていた。

それに気づいたのは、もっとあとだった。

夜中、一時を少し過ぎた頃。

最初に聞こえたのは電子音だった。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

夢の中にも聞こえていた。

目を開ける。

天井。

警報音。

私はしばらく動かなかった。

こんな時間に設備点検はない。

身体を起こす。

焦げた匂いがした。

玄関を開ける。

廊下に何人か出ていた。

パジャマ。

上着だけ羽織った人。

スマートフォンを持つ人。

みんな周囲を見ている。

警報音だけが鳴っている。

奥で誰かの口が動いた。

聞こえない。

別の人も何か言った。

聞こえない。

三階の方から煙が上がっていた。

隣の女性も出てきた。

こちらを見る。

何か聞いた。

たぶん、

「何ですか」

だった。

私は首を振った。

エレベーターの前に人が集まっていた。

ボタンが光っている。

私は、

「使わない方が」

と言った。

誰も振り返らない。

もう一度。

届かない。

非常階段の扉が開いた。

下から男が上がってくる。

三階の住人だった。

腕を振りながら何か言っている。

警報音に消されて聞こえない。

下へ行くなと言っているのか。

上へ行けと言っているのか。

分からない。

誰かがスマートフォンの画面を見せた。

3階 火事

それを見た人だけが動いた。

廊下の反対側にいる人には届かない。

一階の男の子が泣いていた。

母親が抱いている。

泣き声も小さかった。

煙が濃くなる。

エレベーターが上がってくる。

私は、

「乗らないでください」

と言った。

誰も動かない。

喉に力を入れた。

「乗らないでください」

何人かがこちらを見る。

まだ小さい。

息を吸う。

胸の奥まで空気が入る。

何年も使っていなかった場所が広がる。

「エレベーター、使わないで!」

声が廊下に響いた。

自分の声だと分かるまで、少しかかった。

全員がこちらを見た。

「火事です! 外へ出てください!」

警報音の上を越えた。

「階段から外へ!」

扉が開く。

住人が出てくる。

「火事です!」

私はもう一度叫んだ。

誰かが五階へ向かって同じ言葉を叫んだ。

別の人も、

「火事!」

と声を上げた。

廊下のあちこちから声が聞こえ始めた。

「こっち」

「階段」

「子どもがいます」

「待って」

「下は煙」

「こっちから」

短いあいだだけ、建物が別の場所になった。

誰もデシベルのことを考えていなかった。

声が重なる。

高い声。

低い声。

掠れた声。

泣き声。

怒鳴る声。

聞き取りにくい。

うるさい。

でも、誰かがいることが分かった。

姿が見えなくても。

煙の向こうでも。

階段の上下でも。

声だけで、人がいる場所が分かった。

隣の女性が私の腕を引いた。

階段を指す。

一緒に降りる。

五階。

四階。

三階は煙が濃かった。

消防隊が上がってきた。

「止まらず下へ!」

大きな声だった。

迷う余地がなかった。

その声に従って、外へ出た。

道路には住人が集まっていた。

消防車の光が建物に反射している。

みんな話していた。

「どこ?」

「三階」

「何号室」

「分からない」

「あの人は?」

「います」

「六階の人は?」

「降りてきた」

何年も住んでいた建物に、こんなに多くの声があったことを初めて知った。

火元は三階だった。

台所から出た火。

一部屋と廊下の一部が焼けた。

けが人はいなかった。

消防士がそう説明すると、誰かが、

「よかった」

と言った。

その声は大きかった。

二時間ほどして部屋へ戻れることになった。

エレベーターは止まっていた。

隣の女性と階段を上がる。

六階へ着く少し前に、彼女が言った。

「ありがとうございました」

何についてなのか、すぐに分かった。

「いや」

「声、すごく通るんですね」

私は笑った。

「自分でもびっくりしました」

普通の声だった。

彼女には聞こえた。

翌朝、喉が少し痛かった。

鏡の前で、

「あー」

と声を出す。

掠れている。

私は少し笑った。

笑い声が部屋に響いた。

誰かに聞かれたかもしれない。

そのときは気にならなかった。

三週間ほどして、管理会社から封筒が届いた。

重要。

設備修繕の案内だと思った。

中には二枚。

一枚目は共用部の修繕。

二枚目。

臨時基準声量測定のお知らせ

何度か読み直した。

共用部の安全設備が記録した音声のうち、一定値を超える発声が居住者本人のものと確認された場合、基準値に著しい変化が生じている可能性があるため、再測定を行う。

そんな規則があることを知らなかった。

契約書を出す。

細かい文字。

安全管理時の例外測定。

たしかに書いてある。

私は椅子に座った。

七十なら七万円。

八十なら八万円。

火事の夜、自分はどれくらいだったのだろう。

スマートフォンを机に置く。

「火事です!」

六十三。

もう少し。

「外へ出てください!」

七十四。

隣の部屋から何か音がした。

私はすぐ黙った。

画面に、

74.6

と出ていた。

翌週、防音室へ入った。

「今回は通常更新ではなく、臨時測定になります」

「はい」

「普段の声でお願いします」

普段の声。

こんにちは。

今日はいい天気ですね。

よろしくお願いします。

私は、

「こんにちは」

と読んだ。

六十八。

もう一度。

「今日はいい天気ですね」

七十三。

「よろしくお願いします」

七十一。

平均七十・七。

担当者も画面を見たまま少し黙った。

「かなり変わりましたね」

私は喉に触った。

叫んでいるつもりはなかった。

普通に読んだだけだった。

「これ、火事のせいですか」

「どうでしょう」

担当者は言った。

「一度発声の仕方が変わると、その後しばらく基準値が変わる方はいます」

「元に戻りますか」

「戻る方もいます」

「戻らない人も?」

「います」

結果が印刷された。

70.7 dB

その下に、

予想家賃 71,000円

私はしばらく紙を見た。

「七万一千円」

「はい」

「倍以上ですね」

「現在が三万四千円ですので」

急激な増額になるため、調整制度が使えるという。

一年目五万円。

二年目六万円。

三年目七万一千円。

その間に声量が下がれば再計算。

「異議申し立ては?」

「できます」

一枚の紙を渡された。

事故。

災害。

疾病。

一時的な発声変化。

その他。

理由を書く欄。

私はその場では何も書かなかった。

管理会社を出る。

横断歩道。

高校生が二人、スマートフォンを見せ合って笑っている。

声は聞こえない。

コンビニに入る。

水を一本。

セルフレジ。

画面。

支払い。

誰とも話さない。

外へ出る。

私は、

「ありがとうございます」

と言わなかった。

言わなくても終わる。

マンションへ戻る。

エレベーター。

途中の階から隣の女性が乗る。

「測定、今日でした?」

はっきり聞こえた。

「はい」

自分の声も、はっきり聞こえた。

「どうでした?」

「七十一」

彼女の目が少し大きくなる。

「そんなに」

「そんなにでした」

「火事のときの」

「たぶん」

六階。

扉が開く。

彼女は少し立ち止まった。

「申し立てするんですか」

「まだ分かりません」

「した方がいいですよ」

彼女は言った。

「非常時だったんだから」

「そうですね」

数歩歩く。

彼女が振り返る。

「あのとき」

私は止まる。

「はい」

「声が聞こえて、助かりました」

少しして、

「よかったです」

と答えた。

部屋へ入る。

机に、家賃通知と異議申し立て書を並べる。

七万一千円。

高い。

毎月三万七千円増える。

年間四十四万四千円。

引っ越しても、この街では測定値が引き継がれる。

声を小さくする教室を検索する。

以前の教室が出てきた。

新しい講座。

火災・事故後の声量回復コース

回復。

八週間。

四万八千円。

平均低減実績七・二デシベル。

私は画面を閉じた。

異議申し立て書を開く。

理由。

火災発生時、住人の避難誘導のため大声を使用。

そこまで書く。

その結果生じた声量増加は日常的なものではないため――

手が止まった。

日常的ではない。

本当にそうなのか。

測定では七十を超えた。

あれから数週間経っている。

私は普通に文章を読んだだけだった。

戻っていない。

戻っていない、という言い方も妙だった。

五十二。

三十四。

七十一。

どれも自分の声だった。

窓を開ける。

夜。

道路を車が走る。

遠くに電車。

向かいの歩道を二人が歩いている。

私は窓辺に立った。

「こんばんは」

声が外へ出る。

誰も振り返らない。

もう一度。

「こんばんは」

一人が少しだけ上を見た。

私は窓を閉めた。

異議申し立て書を引き出しに入れた。

提出しないと決めたわけではなかった。

その日は書かなかった。

翌日も。

提出期限が近づく。

木曜日の夜。

もう一度紙を出す。

年間四十四万円。

制度として考えれば、申し立てる理由はある。

火災。

避難誘導。

例外。

それでも、理由欄を見ていると、彼女の言葉を思い出した。

声が聞こえて、助かりました。

助けたというほどではない。

消防設備は鳴っていた。

煙も見えていた。

誰かが通報していた。

私が叫ばなくても、全員逃げられたかもしれない。

分からない。

それでも、あの夜だけは、聞こえてほしいと思った。

遠くにいる人にも。

知らない人にも。

扉の向こうにも。

普段なら、聞こえなければ言い直さなかった。

あの夜は、届くまで大きくした。

金曜日。

紙を鞄に入れて家を出る。

管理会社は駅までの途中にある。

入口まで行く。

中に担当者が見える。

私は通り過ぎた。

仕事へ行った。

帰りにも前を通った。

シャッターは閉まっていた。

提出期限が終わった。

次年度から、まず五万円。

通知が届く。

私は受け入れた。

制度が正しいと思ったわけではない。

火災のときの声まで家賃に使うのは、今でも変だと思う。

ただ、異議を申し立てなかった。

理由をうまく説明できなかった。

私は何年も、数字が下がることを喜んでいた。

あの夜だけ、その数字より届くことを選んだ。

そのあと高くなった。

それだけだった。

数か月すると、声は少しずつ小さくなった。

六十六。

六十一。

五十八。

特に練習はしていない。

仕事では以前より話すようになった。

聞き返されたら、普通に言い直した。

店員を呼ぶこともあった。

「すみません」

振り返らなければ、もう一度。

以前ほど、その一声を気にしなくなった。

街は変わらない。

注文は画面。

受付は番号。

電車は静か。

不動産広告には、

静かな方ほど、お得。

とある。

一階の男の子は小学生になった。

朝、ランドセルを背負って外へ出る。

少し離れたところに友達を見つける。

名前を呼ぶ。

母親が、

「声」

と言う。

男の子は一度小さくする。

友達は気づかない。

もう一度。

今度は大きい。

友達が振り返る。

二人で走っていく。

母親は何も言わなかった。

私はエレベーターの中からそれを見ていた。

次の更新。

また防音室。

こんにちは。

今日はいい天気ですね。

よろしくお願いします。

五十八。

五十六。

五十七。

平均五十七。

「下がりましたね」

担当者が言う。

「はい」

家賃、五万七千円。

最初にこの街へ来たときより五千円高い。

七万一千円よりは安い。

紙を受け取る。

以前なら、あと何デシベル下げられるか計算したと思う。

その日はしなかった。

管理会社を出る。

夕方。

駅へ向かう人が多い。

横断歩道の向こうに、隣の女性がいた。

少し離れている。

こちらには気づいていない。

以前なら、追いつくまで待ったと思う。

あるいは、何も言わなかった。

私は立ち止まる。

名前を知らない。

何年も隣に住んでいるのに。

「すみません」

声を出す。

彼女は気づかない。

車の音。

もう一度。

「すみません」

少し大きく。

彼女が振り返る。

私を見つける。

笑う。

私は横断歩道を渡った。

「今日、更新だったんです」

「どうでした?」

「五十七」

「下がりましたね」

「はい」

二人で歩き始める。

しばらくして、私は言った。

「そういえば、名前、聞いてませんでしたよね」

彼女は少し驚いた。

それから、自分の名前を言った。

車が横を通った。

聞き取れなかった。

以前なら、分かったふりをしたかもしれない。

「もう一回お願いします」

彼女は少し大きな声で、もう一度名前を言った。

今度は聞こえた。

私も自分の名前を言う。

彼女が笑った。

「知ってました」

「どうして」

「火事のあと、掲示板に名前出てましたよ」

「あれ、見てたんですか」

「見ました」

二人で笑った。

彼女の声は、以前より少し大きかった。

私の声も。

家賃がいくらなのかは聞かなかった。

六階に着く。

それぞれの玄関の前。

「おやすみなさい」

彼女が言う。

「おやすみなさい」

私は返す。

廊下に少しだけ響く。

部屋へ入る。

机の上に更新通知。

五万七千円。

紙を裏返す。

部屋は同じだった。

六畳。

小さな台所。

窓から隣のマンション。

その向こうに線路。

最初にここへ来たときから、ほとんど変わっていない。

変わったのは家賃だった。

それから声だった。

どちらが先だったのかは、もうよく分からない。

窓を少し開ける。

夜の街は静かだった。

遠くで誰かが笑った。

どこにいるのか分からない。

声だけが少し届いた。

私は、そのまま窓を閉めずにいた。

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