一万語で死ぬ人生

窓辺でセミを見つめる人物と、机上の端末とノート

医師は、机の上の紙を指で押さえた。

「言葉を使うと、病変が進みます」

彼は意味が分からず、医師の顔を見た。

「話すと?」

「話すだけではありません。書くことも、頭の中で文章を組み立てることも含みます」

「考えるのも?」

「言語として処理すれば」

窓の向こうでセミが鳴いていた。

八月だった。

診察室の冷房は強く、彼は両腕を擦った。

「それで」

医師は一度画面を確認した。

「現在の進行速度から計算すると、残っている言語活動量は、一万語前後と推定されています」

「一万語」

「目安です」

「使い切ったら死ぬ?」

「そこまでは分かりません」

医師はすぐに答えた。

病変と言語活動の関係は比較的はっきりしている。

しかし、どの段階で生命維持に必要な領域まで障害が広がるかには個人差がある。

一万語という数字は、過去の症例と彼の現在の検査結果から出した予測だった。

「つまり、喋らなければ」

「進行は遅くなる可能性があります」

彼は少し考えた。

「どれくらい?」

「分かりません」

すでに何十語か使っていた。

急に喉が乾いた。

病院から渡された端末には数字が表示されていた。

9,846

診察室を出るまでに、それだけ残っていた。

何を一語と数えるかは機械が決める。

日本語なので、単純に空白で区切るわけではない。

彼には仕組みを聞く気になれなかった。

説明を聞くだけでも数字が減る。

駅で電車を待ちながら、彼は試しに入力した。

《まだ死にたくない》

数字が減った。

すぐに消した。

元には戻らなかった。

彼はホームの端でしばらく画面を見ていた。

その日から、喋らなくなった。

コンビニでは首を振った。

宅配便には指を差した。

エレベーターで隣人に会っても会釈だけした。

友人から、

《病院どうだった?》

と届いたが、返さなかった。

母から電話が来ても出なかった。

黙っているだけなら、意外と生活は続いた。

問題は頭の中だった。

腹が減った。

暑い。

洗濯しないと。

明日は雨か。

冷蔵庫に何があった。

どれも言葉だった。

言葉になる直前で止めようとすると、頭の中が不自然に白くなった。

彼は物の名前を考えない練習を始めた。

机を見ても、机と思わない。

水を飲んでも、冷たいと思わない。

風を感じても、風と呼ばない。

ただ見る。

ただ触れる。

ただ聞く。

数日すると、世界から少しずつ輪郭が消えた。

一週間後。

端末の数字は、思ったほど減っていなかった。

彼は少し安心した。

一週間。

その数字で、ふと思い出した。

セミは一週間で死ぬ。

子どものころからそう聞いていた。

何年も土の中にいて、地上では七日だけ。

そういう生き物なのだと思っていた。

その日の夕方、公園を歩いた。

木の下に一匹のセミが転がっていた。

死んでいると思って近づくと、突然羽音を立てた。

彼は驚いて足を止めた。

セミは数メートル飛び、別の木に止まった。

しばらくして鳴いた。

彼はその声を聞いた。

家に帰って検索した。

《セミ 寿命 一週間》

入力したあとで後悔した。

検索結果を読むことも言語活動になる。

画面上の数字が少しずつ減った。

閉じようとした。

しかし、一つの記事が目に入った。

一週間とは限らない。

彼は続きを読んだ。

アブラゼミ。

二週間。

三週間。

三十二日。

海外の大型種。

四十九日。

数字が並んでいた。

さらに読んだ。

野外では、寿命を正確に測ること自体が難しい。

捕まえたセミが何日前に羽化したのか分からない。

番号をつけて放しても、もう一度見つかるとは限らない。

見つからないからといって、死んだとは言えない。

別の木へ移っただけかもしれない。

捕食されたかもしれない。

まだどこかで鳴いているかもしれない。

彼はそこで読むのをやめた。

端末を伏せた。

翌日も公園へ行った。

前の日に見たセミを探した。

もちろん分からなかった。

木には何匹もいる。

同じ個体かどうかを見分けられない。

彼はしばらく一本の木の前に立っていた。

その日から、毎日同じ公園へ行くようになった。

写真を撮った。

声を録音した。

何も書かなかった。

八月二十八日。

まだ鳴いていた。

九月二日。

少なくなった。

九月六日。

雨。

九月九日。

鳴いていた。

九月十三日。

ほとんど聞こえなかった。

九月十七日。

一匹だけ聞こえた。

彼は木の下で立ち止まった。

何日前に羽化した個体なのか分からない。

昨日出てきたのかもしれない。

二週間前からいたのかもしれない。

それでも、鳴いていた。

母から電話が来た。

何度目かだった。

その日は出た。

「もしもし」

数字が減った。

「やっと出た」

母の声だった。

「何してたの?」

彼は答えなかった。

「大丈夫?」

黙っていた。

「何かあった?」

彼は窓の外を見た。

「病気」

そこから、必要なことだけを話そうとした。

病名。

検査。

言葉。

残り。

途中から、必要なことが何なのか分からなくなった。

母はほとんど口を挟まなかった。

話し終えるころには、端末の数字がかなり減っていた。

「ごめん」

と彼は言った。

「何が?」

「いっぱい喋った」

母は少し黙った。

「それでいいんじゃない」

彼は返事をしなかった。

言葉を節約する生活は続いた。

ただ、以前とは少し違った。

店員への返事はしない。

広告も読まない。

ニュースのコメント欄も見ない。

頭の中で、知らない誰かと議論することもやめた。

代わりに、人に会った。

長いあいだ連絡していなかった友人。

学生時代の知人。

昔付き合っていた人。

話すたび数字は減った。

帰宅すると端末を確認した。

母、四百三十。

友人、二百八十。

昔の恋人、三百十二。

人の顔と数字が結びつき始めた。

まるで人間関係に値札がついているようだった。

冬になった。

昔の恋人と会った。

彼女は結婚していた。

子どもがいると言った。

「急に連絡くるから、何かと思った」

彼は病気のことを説明した。

彼女は黙って聞いた。

「じゃあ今、あとどれくらい?」

彼は端末を取り出した。

数字を見せた。

彼女はしばらくそれを見ていた。

「毎日見るの?」

「見る」

「なんで?」

答えられなかった。

「怖いから?」

彼は頷いた。

「見る方が怖くない?」

彼女はそう言った。

彼は端末を伏せた。

その夜、引き出しに入れた。

翌朝も取り出さなかった。

三日後も。

一週間後も。

数えていないだけで、数字は減っている。

それは分かっていた。

病気が消えたわけではない。

予測値がなくなったわけでもない。

ただ、彼の生活から表示だけが消えた。

春になった。

桜を見た。

友人が、

「きれいだな」

と言った。

彼も、

「うん」

と言った。

以前なら、その一語を惜しんだ。

もう確認しなかった。

夏が戻ってきた。

最初のセミが鳴いた。

彼は少し笑った。

一年経った。

生きていた。

病院へ行った。

医師は検査結果をしばらく見ていた。

「進行しています」

彼は頷いた。

「ただ、最初の予測よりは緩やかです」

「そうですか」

「言語活動量と病変の進行に関係があること自体は変わりません。ただ、進行速度を一つの数字に換算するのは、やはり粗すぎた」

彼は机の上の端末を見た。

病院側の画面には、まだ残量が表示されているはずだった。

「今、あと何語ですか」

医師が画面を確認しようとした。

彼は首を振った。

「やっぱり、いいです」

帰りに公園へ寄った。

去年と同じ木があった。

同じ木なのに、去年と同じセミはいない。

彼は昆虫網を持ってきていた。

一匹捕まえた。

アブラゼミだった。

翅を傷つけないように持つ。

油性ペンで、小さく数字を書いた。

1

放した。

セミはすぐに飛んだ。

翌日。

探した。

見つからない。

三日目。

いない。

七日目。

いない。

十一日目。

いた。

少し離れた木の幹に、小さな「1」が見えた。

彼は写真を撮った。

触らなかった。

十五日目。

いない。

十九日目。

いない。

二十四日目。

また見つけた。

同じ「1」。

彼は声を出して笑った。

近くを歩いていた人が振り返った。

翌日から見つからなくなった。

二十五日目。

いない。

二十六日目。

いない。

三十日目。

いない。

彼はそれでも公園へ行った。

三十二日目。

木の下にセミが落ちていた。

翅が茶色かった。

彼は近づいた。

数字は見えなかった。

別の個体だった。

触れると軽かった。

動かなかった。

彼はそのままにした。

家へ帰る途中、母から電話が来た。

出た。

「もしもし」

「何してたの?」

「セミ探してた」

「また?」

「うん」

「見つかった?」

彼は少し考えた。

「分からない」

母が笑った。

「毎日探してるのに?」

「毎日探してるから」

母はしばらく何も言わなかった。

その夜、彼は一年ぶりに端末を取り出した。

充電して、電源を入れた。

画面には数字が表示された。

184

彼は見た。

しばらく見た。

数字は変わらなかった。

黙っているからだった。

彼はノートを開いた。

何を書けばいいのか考えた。

遺書。

感謝。

謝罪。

記録。

最後の言葉。

どれも急に嘘っぽく見えた。

彼は一行だけ書いた。

《去年、セミは一週間で死ぬと思っていた。》

数字が減った。

次に、

《今年、一匹を二十四日目まで見つけた。》

また減った。

少し待った。

それから、

《そのあと、見失った。》

と書いた。

残りは二桁になっていた。

彼はペンを置いた。

窓を開けた。

外でセミが鳴いていた。

何匹いるのか分からない。

いつからいるのかも分からない。

彼が番号を書いた個体が、その中にいるのかも分からなかった。

端末の画面がまだ光っていた。

彼は伏せた。

木の上でセミが鳴いた。

彼は見上げた。

どの個体か分からなかった。

あと何語なのかは、

もう見なかった。

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