本日分、終了

白い箱の中に三つの石が入り、窓辺の机にグラスと紙類が置かれている静物

「朝ごはんは食べた」

そう言った男の前に、焼いたトーストが一枚落ちた。

まだ湯気が出ていた。

この町では、一日に一度だけ、嘘が物になる。

いつからそうなったのかは誰も知らない。法律には書かれていないし、学校でも教えない。

それでも、子どもでも知っている。

朝起きてから夜眠るまでのどこかで、自分が口にした嘘の一つが、物として現れる。

「傘を持っている」

と言えば、見たことのない傘が玄関に立つことがある。

「宿題は終わった」

と言った子どもの机に、知らない字で答えの書かれたノートが置かれることもある。

「鍵を閉めた」

と言ったあと、手の中に見覚えのない鍵が残ることもある。

言葉と物の関係が分かりやすいとは限らない。

「もう食べました」と言った人の前に皿が出る。

それならまだ分かる。

「忙しい」と言った人の机に、小さな時計が現れたことがある。

「忘れました」と言った子どものポケットから、白い消しゴムが出てきたこともある。

なぜそれなのかは、誰にも分からない。

物が現れるとき、大きな音はしない。

光ることもない。

さっきまで何もなかった机の端に、次に見たときには置かれている。

掌。

鞄の底。

玄関。

枕元。

人が見ている前でも同じだった。

ただし、現れるのは一日一つだけだった。

一つ出てしまえば、その日は終わりだった。

そのあと何を言っても、物にはならない。

だから、朝のうちに済ませる人がいた。

「ポケットに飴が入っている」

何も起きない。

「机の下に鉛筆が落ちている」

まだ何も起きない。

「冷蔵庫に小さなレモンがある」

そこで本当にレモンが出れば、その人は少し安心した。

その日はもう、何を言っても物は増えない。

遅刻した理由を少しくらい誤魔化してもいい。

会いたくない人に、

「予定があります」

と言っても何も出ない。

電話口で、

「今ちょっと外にいる」

と言っても、知らない靴や鞄が増えることはない。

いつからか、それを「消化する」と呼ぶようになった。

今日の嘘を消化する。

会社へ行く前に。

学校へ行く前に。

面接へ行く前に。

恋人に会う前に。

病院で検査結果を聞く前に。

駅前には、そのための店まであった。

細長いビルの一階だった。

昔は時計屋だったらしく、入口の上に丸い時計が残っていた。針は何年も前から止まっていた。

ガラス戸には、

「本日の消化 五百円」

とだけ書いてあった。

店内には長いカウンターが一本。

その上に透明なケースが並び、赤い鉛筆、青い消しゴム、白いボタン、小さな紙袋が入っていた。

どれも客の嘘から出てきたものだった。

五百円を払う。

店員の前に立つ。

「私は赤い鉛筆を持っています」

何も起きなければ、

「青い消しゴムを持っています」

それでも出なければ、

「白いボタンを持っています」

現れても困らないものだけを、順番に言う。

何か一つが出たところで終わる。

私は一度だけ、同僚に付き合って店に入ったことがある。

午後から取引先との打ち合わせがある日だった。

「別に嘘なんてつかないけど」

同僚はそう言って、五百円を払った。

何も出なかった。

赤い鉛筆。

何も起きない。

青い消しゴム。

何も起きない。

「白いボタンを持っています」

カウンターの上を何かが跳ねた。

小さな白いボタンだった。

店員はそれを拾った。

「本日分、終了です」

同僚は肩の力を抜いた。

何かの検査を終えたような顔だった。

店を出てから、掌のボタンを私に見せた。

安いシャツに付いていそうな、ごく普通のボタンだった。

「いらないな」

そう言ってポケットへ入れた。

何も現れなかった。

数か月後、その同僚が会社を辞めた。

机の中を片付けていると、白いボタンが出てきた。

「これ何だっけ」

本人はもう覚えていなかった。

私は覚えていた。

でも言わなかった。

私はその店を利用したことがなかった。

そこまでして嘘を管理する必要を感じなかった。

嘘なんて、そう何度もつくものではないと思っていた。

自分はたぶん、あまり嘘をつかない人間だとも思っていた。

子どものころ、母にはよく、

「嘘をつくなら、せめて覚えておきなさい」

と言われた。

普通なら「嘘をつくな」と言うのだと思う。

母はそう言わなかった。

自分が何を言ったのか忘れると、あとで本当だったのか嘘だったのか、自分でも分からなくなるからだと言った。

妹は小学生のころ、毎朝同じ嘘をついていた。

「机の上にイチゴの飴がある」

何日かに一度、本当に飴が現れた。

現れた日は、

「今日終わった」

と言って、ランドセルへ放り込んだ。

ある朝は、

「牛乳飲んだ」

と言った。

コップにはまだ牛乳がいっぱい入っていた。

その横に、空のコップが一つ現れた。

妹は笑った。

「今日終わった」

そう言って、元の牛乳を残したまま学校へ行った。

母は二つのコップを洗った。

それだけだった。

嘘から出てきたからといって、物が特別になるわけではない。

紙なら濡れる。

ガラスなら割れる。

食べ物なら腐る。

木なら燃える。

埃もかぶる。

壊れれば捨てる。

使えるなら使う。

町のリサイクルショップには、昔から「由来不明品」という棚があった。

誰かの嘘から出た皿。

片方だけの手袋。

取っ手のない鍋。

文字のないノート。

何の鍵穴にも合わない鍵。

普通の商品より少し安かった。

私の実家にも、小さな金属製の匙が一本あった。

私が生まれる前から食器棚に入っていた。

「これ、嘘のやつ?」

母に聞いたことがある。

「知らない」

何も現れなかった。

ある日の夕方、妹から電話があった。

私は仕事中だった。

朝から、何を片付けても次のものが机に乗ってくるような日だった。

今日中に終わらせる書類。

途中まで返したメール。

赤い数字のついた未読通知。

電話が鳴った。

妹だった。

仕事中に電話してくることはあまりない。

「もしもし」

「今、大丈夫?」

「うん」

何も出なかった。

少なくとも、電話に出ることはできた。

「お母さん、入院した」

私は画面を見たまま聞いていた。

数日前から少し体調が悪かったこと。

今日病院へ行ったこと。

そのまま検査のために一晩入院することになったこと。

急いで来る必要はないと母本人が言っていること。

妹は一つずつ話した。

私は、

「うん」

と何度か答えた。

「明日、検査するって」

「うん」

「一応連絡しとこうと思って」

「うん」

画面の文字が目には入っているのに、内容が読めなくなっていた。

「大丈夫?」

妹が聞いた。

「大丈夫」

私は答えた。

机の上に、小さな白い箱が現れた。

書類とキーボードの間。

そこだけ最初から空けてあったように、きれいに収まっていた。

妹はまだ何かを話していた。

私は箱を見ながら、

「分かった」

と言った。

電話を切った。

箱には何も書かれていなかった。

ロゴもない。

掌に載るくらいの紙箱だった。

菓子が一つ入りそうにも見えた。

小さなアクセサリーの箱にも見えた。

持ち上げた。

軽い。

少し振った。

音はしない。

蓋を開けた。

空だった。

指を入れた。

底も普通の紙だった。

同僚がこちらを向いた。

「何それ」

「分からない」

何も出なかった。

それは本当だった。

白い箱を鞄に入れ、仕事へ戻った。

一時間ほどして、妹に、

「明日また教えて」

とメッセージを送った。

その夜、箱を家の棚に置いた。

鍵や郵便物を一時的に置く場所だった。

捨てようとは思わなかった。

だからといって、大切にしたわけでもない。

翌朝、起きると箱が目に入った。

蓋を開けた。

何もない。

母からメッセージが来ていた。

朝から検査をするらしい。

「了解」

と返した。

少しして、

「心配しなくていいから」

と来た。

何と返すか迷って、

「うん」

だけ送った。

駅へ向かう途中、消化店の前を通った。

開店前だった。

シャッターの前に一人だけ立っていた。

私はそのまま通り過ぎた。

昼過ぎ、母から、

「検査終わった」

と来た。

「よかった」

と送った。

何も現れなかった。

夕方、同僚に、

「今日中にいけそう?」

と聞かれた。

「たぶん」

何も出ない。

夜、棚の上の箱を開けた。

空だった。

その日の嘘は、一度も物にならなかった。

あるいは、自分では気づいていないところで何かが出ていたのかもしれない。

でも、その夜の私は、今日は嘘をつかなかったのだと思って眠った。

母の入院は数日続いた。

仕事へ行く。

帰る。

妹から連絡が来る。

母とも短いメッセージをやり取りする。

「今日はどう」

「普通」

「食べられてる?」

「病院食」

「眠れた?」

「まあまあ」

病院にいる状態を「普通」と言っていいのか。

何時間眠れば「まあまあ眠れた」になるのか。

以前なら気にしなかった言葉に、少し引っかかるようになった。

それでも、箱には何も増えなかった。

数日後、母は退院した。

大きな問題は見つからなかった。

薬を飲みながら様子を見ることになった。

「帰ってきました」

母からメッセージが届いた。

私は少し考え、

「よかった」

と返した。

それから、白い箱のことも少しずつ忘れた。

棚の上で埃をかぶった。

郵便物の下に埋もれる日もあった。

鍵をその上へ置くこともあった。

一度だけ、捨てかけた。

部屋を片付けながら、古いレシートや空き箱を紙袋に集めていた。

白い箱を手に取る。

蓋を開ける。

空だった。

ごみの紙袋へ入れようとして、やめた。

元の棚へ戻した。

数週間後。

休日に掃除機をかけていると、棚に肘が当たった。

白い箱が床へ落ちた。

蓋が外れた。

何かが転がった。

掃除機を止めた。

黒い石だった。

私はしゃがんだ。

道路脇に落ちていても誰も拾わないような、小さな石だった。

箱を拾う。

中は空。

石を手に取った。

以前は確かに入っていなかった。

何度も箱を開けていた。

底にも触れた。

いつ入ったのか分からない。

石を机に置いた。

意味を考えようとして、やめた。

この町では、言ったことと現れる物の関係が分からないことは珍しくない。

「大丈夫」から箱が出た。

箱から石が出た。

それ以上は分からなかった。

私は母に電話した。

特に用事はなかった。

二回呼び出し音が鳴って、母が出た。

「どうしたの」

「別に」

机の上に、もう一つ石が現れた。

最初の石の横。

小さな音がした。

私は電話を耳に当てたまま動かなかった。

「もしもし」

母が言った。

私は新しい石を見た。

一日に一つだけのはずだった。

最初の石がいつ現れたのかは分からない。

もしかすると今日の分だったのかもしれない。

だとしても、今の石で二つ目になる。

最初の石を左手に取った。

新しい石を右手に取った。

形は少し違う。

重さはほとんど同じだった。

「本当にどうしたの」

母が聞いた。

「いや」

母は待っていた。

声を聞きたかった、と言えばよかったのかもしれない。

退院してから本当に大丈夫なのか聞きたかったのかもしれない。

入院したと聞いた日、自分が思っていたより動揺していたことを話してもよかった。

白い箱のことを言ってもよかった。

石のことも。

でも、それを説明するほどのことでもないように思えた。

「なんでもない」

三つ目の石が机の上に落ちた。

今度は、はっきり音がした。

私は黙った。

母も黙った。

「そう」

母が言った。

「うん」

「じゃあ、またね」

「うん」

電話を切った。

部屋が静かになった。

石を三つ並べた。

一つは黒に近い灰色。

一つは少し茶色い。

最後の一つには、細い白い線が入っていた。

私は三つとも白い箱へ戻した。

蓋を閉じた。

翌朝、仕事を午前だけ休んで役所へ行った。

入口の案内板を見る。

転入。

戸籍。

税金。

保険。

年金。

ごみ。

道路。

住宅。

子育て。

嘘についての窓口はなかった。

受付で、

「相談したいことがあるんですけど」

と言った。

「どういった内容でしょう」

昨日のことを話した。

石。

二回。

いや、もしかすると三回。

受付の人は少し困った顔をした。

「一日一度です」

「はい」

「現れるのは、一日一つです」

「でも、二つ出たんです」

「何がですか」

「石が」

「石?」

「『別に』って言ったら一つ出て、そのあと『なんでもない』って言ったらもう一つ出ました」

受付の人は私を見た。

「それはありません」

机の上に、一枚の白い紙が現れた。

二人とも黙った。

受付の人の右手の横だった。

何も印刷されていない。

A4くらいの紙。

その人はゆっくり持ち上げた。

裏返す。

裏も白かった。

光へ透かした。

何もない。

「今の」

私は言った。

受付の人は答えなかった。

「今日、もう何か出ました?」

しばらくして、

「分かりません」

と言った。

何も現れなかった。

役所を出た。

午後から会社へ行った。

誰にも話さなかった。

話したところで、何を説明すればいいのか分からなかった。

数日間、新聞やニュースを見るようになった。

市のホームページも確認した。

何もなかった。

一週間ほど経った昼休み、会社の給湯室から声がした。

「昨日、二回出たんだけど」

私は自動販売機の前で立ち止まった。

「何が?」

「物」

「何出た?」

「朝が輪ゴム。夜がスプーン」

「朝、消化したのに?」

「した」

二人は笑った。

「勘違いじゃない?」

「だと思うけど」

何も現れなかった。

それから、同じような話を何度も聞いた。

電車。

スーパー。

喫茶店。

美容室。

一日に二個。

三個。

昨日は五個。

子どもが二回出した。

夫婦で数えていたのに合わない。

最初は、前の日の物を見落としていたのだと言われた。

誰かが置いた。

たまたまそこにあった。

そういうことにされた。

駅前の消化店には、以前より長い列ができた。

朝、会社へ向かう途中、十人ほど並んでいるのを見た。

スーツ姿の男。

制服の高校生。

買い物袋を持った女性。

子どもを連れた母親。

ガラス越しに、客の一人がカウンターに立っていた。

「赤い鉛筆を持っています」

何も出ない。

「青い消しゴムを持っています」

青い消しゴムが出た。

店員が何か言った。

たぶん、

「本日分、終了です」

だった。

男は消しゴムを受け取り、入口へ向かった。

その途中でスマートフォンが鳴った。

電話に出る。

何か答える。

足元に小さな紙袋が現れた。

並んでいた人が全員、そこを見た。

男も止まった。

店員がカウンターから出てきた。

誰も何も言わなかった。

その日の午後、店は閉まった。

翌朝、

「設備点検のため臨時休業」

という紙が貼られていた。

その次の日も。

三日目には、

「当面の間休業します」

に変わった。

会社でも物が増えた。

会議室で、

「資料、確認しました」

と言う。

紙が一枚現れる。

「メールは送ってあります」

封筒が出る。

「その件、聞いてます」

小さなイヤホンが床に落ちる。

最初は、現れた物を庶務室へ持っていく決まりになった。

透明な箱が置かれた。

日付。

時刻。

発話内容。

発話者。

紙に書いて、一緒に入れる。

一週間も経たないうちに、記入されていない物が増えた。

誰が言ったのか分からない。

どの言葉だったのか分からない。

会話の途中で突然現れるので、本人にも判別できない。

ある朝、課長が全員を集めた。

「できるだけ事実に基づいて話してください」

誰かが笑った。

「業務に必要のない虚偽の発言は控えてください」

誰も笑わなかった。

「ただし、会話を極端に避ける必要はありません」

机の端に透明な板が一枚現れた。

課長が止まった。

全員が板を見た。

何を嘘と判断されたのかは分からなかった。

朝礼はそこで終わった。

少しずつ、会社の言葉が変わった。

「確認しました」

ではなく、

「添付ファイルの一ページ目を開きました」

「対応済みです」

ではなく、

「十五時二十分に送信しました」

「すぐやります」

ではなく、

「今日中を予定しています」

電話で、

「大丈夫です」

と言う人も減った。

「今は話せます」

「その時間は空いています」

「現時点では問題ありません」

会話は少し長くなった。

町のあちこちでも、似たことが起きた。

喫茶店で、隣の客が店員に、

「少々お待ちくださいって、どれくらい?」

と聞いた。

店員は一瞬止まり、

「確認して戻ります」

と言った。

病院で、医師が患者に、

「大丈夫ですよ」

とは言わず、

「今日の検査では異常は見つかっていません」

と言った。

子どもが学校から帰ってきて、

「宿題を忘れた」

と言った。

母親が、

「本当に忘れたの?」

と聞いた。

子どもは黙った。

ランドセルの横に、小さなノートが現れた。

返事までの間が、以前より少し長くなった。

知らなければ、

「知らない」

と言う。

まだなら、

「まだ」

と言う。

行きたくないとき、

「予定がある」

ではなく、

「行かない」

と言う人もいた。

電話に出たくなければ、出ない。

それでも、物は減らなかった。

ある日、母から電話が来た。

「最近、仕事どう?」

「普通」

机の上に、灰色の布が現れた。

ハンカチにするには小さい。

何に使うのか分からない。

「今、出た?」

母が聞いた。

「出た」

「何?」

「布」

「そう」

母はそれ以上聞かなかった。

「そっちは?」

「まあまあ」

電話の向こうで、小さな音がした。

「あ」

「何出た?」

「何かの蓋」

二人で少し笑った。

母が退院してから、以前より電話をするようになった。

週に一度あるかないか。

特に話すことはない。

天気。

食べたもの。

妹のこと。

近所の店。

テレビ。

体調。

話すほどのことではないことを話した。

その途中で物が出る。

「別に変わらない」

小さなネジ。

「ちゃんと食べてる」

紙の皿。

「寝てた」

白い布。

母の側でも出る。

何が出たか聞く。

答える。

それで終わる。

一度だけ、

「箱、出たことある?」

と聞いた。

「何の箱?」

「白いやつ」

母はしばらく考えた。

「ないと思う」

何も起きなかった。

私は棚の上の箱を見た。

石は三つのままだった。

そのころ、白い箱の写真をよく見かけるようになった。

「大丈夫」と言ったあとに出た、と書かれていた。

少し細長いもの。

正方形に近いもの。

蓋が浅いもの。

どれも白く、何も書かれていない。

中は空だという人が多かった。

捨てた人。

残している人。

怖くて開けていない人。

一か月後に砂が入っていた人。

最初からガラス片が一つ入っていた人。

私は見るだけにした。

自分の箱のことは書かなかった。

石が三つあることも。

しばらくして、市役所の二階に、

「物品出現に関する相談窓口」

ができた。

「嘘」という字はどこにもなかった。

もう一度行こうかと思った。

行かなかった。

テレビでは、知らない専門家が話していた。

本当に昔から一日に一度だったのか。

複数回起きても、人が見落としていただけではないのか。

そもそも「一日」とは、いつからいつまでなのか。

人間の暦と現象が一致すると、誰が確かめたのか。

私は途中でテレビを消した。

朝に一度消化すれば安心できた。

私にとって確かだったのは、それだけだった。

その安心がなくなった。

町が壊れたわけではなかった。

建物が急に増えたわけでもない。

人が消えたという話も、私は知らない。

増えたのは、小さなものばかりだった。

会社の会議室には、

「確認しました」

の紙が積み上がった。

毎晩、清掃の人が捨てた。

病院の診察室には透明なケースが置かれた。

何かが出ると、医師か看護師が入れた。

家では、玄関や台所に小さな籠を置く人が増えた。

妹の家にもあった。

ある休日、妹の家で食事をした。

皿を洗いながら棚を見ると、透明なケースが置いてあった。

赤い輪ゴム。

木片。

小さな鍵。

青い石。

白いプラスチック片。

「これ全部?」

「うん」

妹がケースを開けた。

小さな鍵をつまむ。

「これは『今出るところ』」

次に青い石を持つ。

「これは『覚えてない』」

白いプラスチック片を持ち上げた。

「これは?」

妹は首をかしげた。

「本当に覚えてない」

二人で笑った。

しばらくして、妹が言った。

「お兄ちゃん、まだあの箱持ってる?」

「なんで知ってるの」

「お母さんから聞いた」

母に話した覚えはなかった。

どこかで言ったのかもしれない。

「持ってる」

「中、何か入ってる?」

「石」

「何個?」

「三つ」

「増えてる?」

「増えてない」

「捨てないの?」

「別に」

テーブルの上に、黒い石が一つ現れた。

二人で見た。

妹が笑った。

私も笑った。

「四つ目じゃん」

石を拾った。

箱の三つより丸かった。

「違うと思う」

「何が?」

「箱の石とは」

「石は石じゃん」

私は何も言わなかった。

家へ帰ってから、その石を箱に入れるか迷った。

入れなかった。

机の引き出しへしまった。

白い箱には、あの三つだけを残した。

数か月が経った。

町は新しい状態にも慣れた。

会話の途中で何かが現れても、大声を出す人は減った。

飲食店なら店員が拾う。

会社なら各自で捨てる。

学校なら先生が保管する。

駅なら駅員へ渡す。

「今の何から出た?」

分かれば答える。

分からなければ、

「分からない」

と言う。

そして時々、その「分からない」からも何かが出る。

誰かが話すと、その人の顔だけでなく、机や床を見るようになった。

何も出なければ、

「ほら、本当だった」

と言う人もいた。

でも、嘘を言っても何も出ないことはある。

全部の嘘が物になるわけではない。

ある日、電車の中で男が、

「何も出なかったでしょ」

と言った。

向かいの女が黙った。

男の膝の上に、小さな鏡が現れた。

誰も笑わなかった。

私は、以前より話すことが少なくなった。

正確に答えようとすると、言わなくてもいいことが増えた。

「元気?」

「まあ」

「忙しい?」

「今日は仕事」

「最近どう?」

少し考える。

「昨日と今日は違う」

相手が困った顔をする。

「どうしたの」

「考えてた」

それは本当だった。

母との電話でも同じだった。

「ちゃんと寝てる?」

「昨日は六時間くらい」

「ご飯食べてる?」

「今日は食べた」

「仕事どう?」

「今日は終わった」

母も、以前より具体的に聞くようになった。

「大丈夫?」

とは、あまり言わなくなった。

私も「大丈夫」を使わなくなった。

白い箱が出るからではない。

何をまとめて「大丈夫」と呼べばいいのか、分からなくなった。

仕事へ行ければ大丈夫なのか。

食べられれば。

眠れれば。

電話に出られれば。

病院から帰ってこられれば。

歩ければ。

返事ができれば。

あの日は考えなかった。

妹から、

「大丈夫?」

と聞かれて、

「大丈夫」

と答えた。

今なら、

「仕事中」

と言うかもしれない。

「今聞いた」

と言うかもしれない。

「まだ分からない」

でもいい。

それなら白い箱は出なかったのか。

確かめることはできない。

箱は今も棚の上にある。

少し黄ばんだ。

角は柔らかくなった。

何度も開けたせいで、蓋の折り目が白く擦れている。

中には黒い石が三つある。

時々、机に出す。

一つずつ並べる。

最初の石。

「別に」の石。

「なんでもない」の石。

そう呼んでいるだけだ。

最初の一つが何から出たのか、本当は分からない。

箱を落とす何日も前に、別の嘘から生まれたのかもしれない。

なぜ箱の中に入ったのかも知らない。

それでも数える。

一つ。

二つ。

三つ。

母は元気にしている。

少なくとも、昨日は夕食を食べたと言っていた。

妹も同じ町にいる。

駅前の消化店だった場所には、今は修理屋が入っている。

時計。

鞄。

傘。

壊れたものを直す店。

入口の丸い時計だけは昔のまま残っている。

針は止まったままだ。

会社の庶務室にあった透明ケースはなくなった。

物が増えすぎて、集めることをやめた。

必要なければ捨てる。

それだけになった。

町のごみ収集も普通に続いている。

物は増える。

捨てられる。

また増える。

人間が急に正直になったわけではない。

ただ、嘘と呼ぶほどでもない言葉を、一日に何度も使っていた。

話を終えるため。

心配させないため。

その場を通り過ぎるため。

説明を省くため。

まだ自分でも分からないことを、とりあえず閉じておくため。

そういう言葉が、どこかで紙になり、石になり、箱になって残る。

私はときどき、白い箱を開ける。

三つの石を見る。

触らない日もある。

一つずつ取り出す日もある。

数える。

一つ。

二つ。

三つ。

箱の底には、石が擦れた黒い粉が少しついている。

指で拭おうとして、やめる。

石を戻す。

蓋を閉じる。

棚へ戻す。

何も言わない。

それだけなら、今のところ何も起こらない。

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