だから、生きている理由を探すのはやめた。
探したところで見つからないし、見つかったところで明日には忘れてしまう。
人は理由があれば生きられると言う。
けれど僕は、理由がなくても朝が来ることを知っていた。
カーテンの隙間から差し込む光。
冷蔵庫の低い唸り声。
読みかけの本。
シンクに残ったコーヒーカップ。
それらは僕の意思と関係なく、昨日の続きを始めてしまう。
世界は残酷なほど律儀だった。
僕だけが立ち止まっていても、季節は勝手に進み、花は咲き、雨は降り、誰かは出会って、誰かは別の道を行く。
その流れの中で、僕だけが置き去りになっている気がしていた。
ある朝、コーヒーを淹れた。
飲み終わった後で気づいた。
味を覚えていない。
いつ飲んだのかも曖昧だった。
カップだけがシンクに残っていて、誰かが飲んだ痕跡が残っていた。
僕は少し考えた。
私が飲んだのだろうか。
もしかすると、飲んだのは僕ではなく、昨日の僕だったのかもしれない。
あるいは明日の僕だったのかもしれない。
あるいは誰かかもしれない。
そんなくだらないことを真剣に考えてしまうくらい、現実は遠かった。
窓の外では雨が降っていた。
静かな雨だった。
世界の輪郭を確かにするためだけに降っているような雨。
僕は傘を持たずに外へ出た。
濡れたかったわけではない。
心や身体を洗い流したかったわけでもない。
ただ、自分がまだここにいるのを確かめたかった。
雨粒が頬に当たる。
冷たい。
雨の匂いがする。
遠くで鳥の鳴く声がする。
そのどれもが他人事で、それでいて確かに僕の周りで起きていた。
しばらく歩いていると、小さな水たまりを見つけた。
その中に映る自分を見た。
そして、目を離した瞬間に思い出せなくなった。
けれど不思議なことに、その顔を見た瞬間だけ、少し安心した気がする。
ああ。
まだいる。
死んだと思っていた心も。
崩れたと思っていた身体も。
廃墟になった家みたいなものだ。
住人はいなくなったと思っていたのに、奥の部屋で小さな灯りだけが点いている。
誰もいないはずなのに、まだ誰かが暮らしている気配がする。
僕は水たまりを跨いだ。
その灯りが消える日は必ず来る。
けれど、もしまだ点いているのなら。
もう少しだけ。
もう少しだけ歩いてみてもいい気がした。
