だから安心していた。
映画は2時間で終わる。
住み慣れた部屋も、荷物を運び出せばただの空間に戻る。
旅は帰りの高速道路に乗った瞬間から思い出になる。
僕はそういうものが好きだった。
終わりが決まっているもの。
終わり方が分かるもの。
終わりを管理できるもの。
だからたぶん、彼女のことも好きだったのだと思う。
彼女と出会ったのは秋だった。
町の小さな喫茶店で偶然隣の席になった。
窓際の席。
雨。
冷めかけた珈琲。
人は案外そういう雰囲気で好きになる。
ありふれた始まりだった。
ありふれていたからこそ、終わり方が分かった。
こういう出会いは長く続かない。
人生経験というやつが教えてくれる。
映画で見た。
本で読んだ。
自分でも何度か経験した。
だから最初から分かっていた。
この人は、いなくなる。
付き合ったわけではない。
恋人でもない。
友達ですらなかったのかもしれない。
ただ時々会った。
温泉に行った。
神社を歩いた。
写真を撮った。
意味のない会話をした。
「熊が出るらしいよ」
「そうなんだ」
「怖いね」
そんな程度だった。
けれど、人は案外そういうもので出来ている。
世界を変える言葉じゃない。
人生を救う言葉でもない。
そのくらいの会話が記憶に残る。
2026年。
ニュースでは毎日のようにAIの話をしていた。
仕事を失う。
海外移住する。
人口減少の話もしていた。
出生数はまた過去最低を更新したらしい。
誰も驚いていなかった。
国はゆっくりと縮んでいた。
世界も相変わらずだった。
戦争があり。
災害があり。
人間は、ますます疲れていた。
ニュースを見ても何も感じなくなっていた。
それなのに僕たちは、川沿いの遊歩道を歩きながら、どこの蕎麦屋が美味しいかという話をしていた。
彼女と会うのは楽だった。
何かを証明する必要がなかった。
面白い人間になろうとしなくて良かった。
未来の話をしなくて良かった。
会って、話して、帰った。
それだけだった。
ある冬の日。
神社の石段を登りながら彼女が言った。
「たぶん私たち、付き合わない方が長く続くよ」
境内には誰もいなかった。
雪だけが残っていた。
僕は笑った。
彼女も笑った。
それが正解のような気がした。
だから何も言わなかった。
その頃の僕は、自分を少し誇らしく思っていた。
感情に流されない。
無理をしない。
期待しない。
終わりを見誤らない。
大人になったのだと思っていた。
でも、その日だけは違った。
2027年の春。
彼女から連絡が来た。
「結婚することになった」
そう書かれていた。
「おめでとう」
と返した。
数秒で送れた。
驚くほど簡単だった。
なのに、送信ボタンを押したあと、しばらくスマートフォンを置けなかった。
終わりは予想通りだった。
悲しいとかじゃない。
驚きもない。
ただの確認作業で、何一つ意外ではなかった。
最初から分かっていた終わりが、本当に来た。
それだけだった。
だから苦しくないはずだった。
その夜、僕は車を走らせた。
行き先は決めていなかった。
気付けば県境の山の方へ向かっていた。
どこだったのかは覚えていない。
途中、熊注意の看板が立っていた。
妙に懐かしくて、少し笑った。
「熊を見に行くついでに食べられてくるね」
昔、そんな冗談を言ったことがあった。
誰に向けて言ったのかは忘れた。
夜明け前。
森の入口に車を停めた。
森は静かだった。
本当に静かだった。
風の音しかしない。
鳥もいない。
人もいない。
誰もいなかった。
スマホの電波は圏外。
AIもここまでは追ってこない。
世界中の情報から切り離された場所だった。
その時、ようやく気付いた。
僕は彼女を失ったわけではない。
最初から持っていなかった。
だから喪失ではない。
それなのに、失った気がしていた。
では何が苦しいのだろう。
しばらく考えて、答えが出た。
僕が失ったのは、彼女ではなかった。
終わりが見えていれば傷付かないという、自分についての解釈だった。
期待しなければ失わない。
距離を取れば安全でいられる。
僕はずっとそう思っていた。
でも違った。
終わりを知っていても痛い。
始まらなかったものでも失う。
手に入れていないものでも喪失になる。
そして、未来を失うと悲しい。
東の空が少しづつ白くなっていく。
森の奥で何かが動いた。
鹿だった。
立派な角を持った動物。
数秒だけこちらを見ていた。
そして、何事もなかったように森へ消えた。
その背中を見ながら思った。
僕はずっと、終わり方ばかり見ていた。
だから途中を見ていなかった。
好きだったこと。
会えたこと。
歩いたこと。
笑ったこと。
沈黙したこと。
何も始まらなかったこと。
全部そこにあったのに。
夕方。
西の空が赤く染まっていた。
帰宅した僕は珈琲を淹れている。
ラジオではまた、世界のニュースが流れていた。
AI。
人口減少。
経済。
戦争。
聞き慣れた単語ばかりだった。
けれど、窓の外では名前も知らない草が揺れていた。
人類史よりずっと小さくて、ずっと確かなもの。
最初から終わり方だけは分かっていた。
終わると知っていても、その途中に何があるのかは最後まで分からなかった。
人は未来が見えないことを恐れるけれど、本当に恐ろしいのは終わりが見えていることだった。
後編: 雨の匂いを返しに行く。

