雨の匂いを返しに行く。

雨粒が流れる喫茶店の窓際。向かい合う二つのコーヒーカップの向こうに、ぼやけた雨の街並みが広がる静かな午後の風景

再会したのは3年後の六月だった。

雨が降っていた。

駅前の喫茶店は変わらず営業していた。

変わったのは値段くらいだった。

ブレンドコーヒーは350円から560円になっていた。

世界中で物価が上がっているらしい。

ニュースでは毎日そんな話をしていた。

戦争も続いていた。

AIも進化していた。

夏は昔より暑くなった。

誰もが未来の話をしていた。

なのに僕だけが、あの雨の日の匂いを探して、3年前の続きを考えていた。

彼女は少し遅れて来た。

傘を閉じる女性は、昔より髪が短かった。

それ以外はよく分からなかった。

覚えていると思っていた顔は、思ったより曖昧だった。

「ごめん」

と言った。

「大丈夫」

と言った。

それ以外に言うことがなかった。

コーヒーが運ばれてくる。

窓ガラスには雨粒あまつぶが流れていた。

彼女は仕事の話をした。

僕も仕事の話をした。

家族の話をした。

引っ越しの話をした。

体調の話をした。

最近見た映画の話もした。

会話は続いた。

不思議なくらい自然だった。

でも、何かが決定的に不自然だった。

僕たちは3年間を報告し合っていた。

会話はしていなかった。

そのことに気付いた瞬間、なぜか少しだけ寒くなった。

窓の外で雨が強くなった。

彼女は少し笑いながら口を開いた。

「そういえば」

「うん」

「昔さ」

「付き合わない方が長く続くって言ったじゃん」

「言ってたね」

彼女は窓の外を見る。

「当たってたね」

たしかに当たっていた。

3年後も会えている。

嫌いになったわけじゃない。

失ったわけでもない。

関係は壊れていない。

だから正しかった。

正しい選択だった。

そのはずだった。

なのに、なぜか胸の奥で何かが崩れる音がした。

僕はその音を知っていた。

理屈が感情に負ける音だった。

昔の僕は、大切だから踏み込まないのだと思っていた。

壊したくないから。

失いたくないから。

長く続いてほしいから。

そう信じていた。

でも今は少し違う気がしていた。

長く続くことと、深く残ることは別なのかもしれない。

窓の外を見る。

雨が降っていた。

昔の雨の匂いは思い出せるのに、今の雨の匂いは何も思い出させてくれなかった。

ずっと探していたからだ。

高校2年の六月。

濡れたアスファルト。

部活帰りの校庭。

夕方の自転車置き場。

誰かの笑い声。

今でもあの日の雨の匂いを覚えている。

でも、もう嗅げない。

ずっとそれが悲しかった。

けれど今なら分かる。

僕が探していたのは雨の匂いではなかった。

彼女がコーヒーカップを置く。

小さな音がした。

その瞬間、突然理解した。

僕は彼女に会いに来たのではなかった。

雨の匂いを返しに来たのだ。

彼女に預けていた、あの頃の時間を。

彼女もまた、僕に預けていた何かを回収しに来たのかもしれない。

帰り際、雨は止んでいた。

映画みたいな別れ方ではない。

喫茶店を出て、

「じゃあね」

と言って、本当にそれだけだった。

泣きもしなかった。

追いかけもしなかった。

ドラマチックなことは何も起きなかった。

ただ、雨の匂いだけが残った。

人は記憶の中身ではなく、記憶の周辺を愛しているのかもしれない。

誰を好きだったかより、どんな光だったか。

どんな温度だったか。

どんな匂いだったか。

そっちの方が最後まで残る。

3年前に戻っても、10年後でも、それは変わらない。

ただ、一つだけ違う。

昔は、正しかったと思いたかった。

今は、分からないままでもいいと思っている。

駅前のアスファルトから湿った匂いが立ち上る。

六月の風が吹く。

あの日の雨の匂いとはもちろん違った。

3年も経っている。

世界も変わった。

彼女も変わった。

僕も変わった。

あの日の匂い。

あの人の匂い。

未来がまだ存在していた頃の匂い。

それら全部をまとめて、僕は「雨の匂い」と呼んでいただけだった。

だから、最初から借り物だった雨の匂いを返そうと思った。

でも最初から返す相手なんていなかった。

雨の匂いは最初から雨のものだった。

僕はただ、長い間それを自分のものだと思い込んでいただけだった。

雨の匂いは残っていた。

でも、それが誰のものだったのかは、もう考えなかった。

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