そう言ったのは冗談だった。
少なくとも、僕は冗談のつもりだった。
朝の6時23分。
母は、お茶を飲みながら天気予報を見ていて、僕は靴紐を結んでいた。
テレビではまた、熊のニュースをやっていた。
秋田県。
長野県。
岩手県。
画面の下に流れるテロップは、もう季語みたいなものだった。
クマ出没。
住宅地。
通学路。
軽傷。
昔は山のニュースだった気がする。
最近は町のニュースになった。
家を出る前、僕は母に言った。
「熊を見に行くついでに食べられてくるね」
そう言うと母は、
「そう」
と言った。
僕も、
「そう」
と言った。
そこで会話は終わった。
数年前から、みんな会話を途中でやめるようになった。
正確には違う。
最後まで続ける理由を失った。
テレビの話も。
食事の話も。
物価の話も。
戦争の話も。
世間話も。
最後まで話したところで何も変わらない。
そんな空気が日本全体に薄く沈殿していた。
誰も絶望していない。
けれど希望も持っていない。
低気圧みたいな社会だった。
森へ向かう電車は空いていた。
窓の外には使われなくなったガソリンスタンドが見えた。
ドラッグストアになった本屋があった。
コインランドリーになったコンビニがあった。
どれもまだ営業している。
でも何かが終わっていた。
駅前には外国人観光客がいた。
彼らは熊を見たがっていた。
僕は熊に会いたかった。
似ているようで違う。
観光客は写真を撮りたい。
僕は確認したい。
まだ野生が残っているのか。
まだ人間以外の世界が存在しているのか。
それを見たかった。
森は静かだった。
静かというより、人間の言葉が存在しないだけだった。
風は吹いている。
鳥もいる。
虫もいる。
けれど説明がない。
評価もない。
通知もない。
おすすめもない。
炎上もない。
そこには注目を集める必要がなかった。
歩いているうちに、ふと父のことを思い出した。
最後に大きな喧嘩をした日のことだ。
内容は覚えていない。
言葉だけ覚えている。
「それなら頼まなければよかった」
あの言葉は妙だった。
内容よりも先に、重力だけが残った。
僕は長い間、誰かに理解されたいと思っていた。
親に。
友人に。
恋人に。
誰かに。
けれど森を歩いていると、少しずつ別の考えが浮かんだ。
熊は理解しない。
木も理解しない。
苔も理解しない。
風も理解しない。
なのに存在している。
人間だけが、理解されることを生存条件にしている。
昼過ぎ。
倒木の近くで熊の糞を見つけた。
新しかった。
少し緊張した。
心臓が鳴った。
吐き気もした。
最近ずっとそうだった。
AIは自律神経だと言った。
友人は疲れだと言った。
病院ではストレスと言われた。
SNSでは休めと言われた。
誰も間違っていない気がした。
誰も正しくない気もした。
森の奥で、何かが動いた。
黒かった。
大きかった。
熊だった。
本物だった。
その瞬間、不思議なことに死について考えなかった。
今まで考えていたのに。
明日も考えていただろうに。
熊を前にしたら、死ではなく、距離を考えた。
風向きを考えた。
逃げ道を考えた。
生き残る方法を考えた。
人間は面白い。
生きる意味がわからなくても、生き延びようとはする。
熊はしばらくこちらを見ていた。
僕も見ていた。
数秒だったと思う。
あるいは数分だったかもしれない。
そして熊は去った。
森の奥へ、何事もなかったように。
僕だけが呆然と立っていた。
少しがっかりした。
少し安心してもいた。
帰りの電車で母からメッセージが来た。
「熊どうだった?」
僕はしばらく考えた。
それから返信した。
「食べられなかった」
母はすぐに返した。
「残念だったね」
その瞬間だけ、少し笑った。
熊に食べられなかったから、とりあえず明日も続く。
熊は森に戻った。
僕も町に戻った。
どちらが危険だったのか、少しわからなくなった。

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