目的地に着くたび、途中にいた自分が消える。
名前も役割も持たず、誰にも確認されないまま、窓の外を見ていた自分。
移動とは、場所を変えることではなく、一時的に自分の人生から外れることなのかもしれない。
その夜、私はタクシーの後部座席にいた。
どこから帰る途中だったのかは、もうよく覚えていない。
誰かと会った帰りだったのか。
何かを終えたあとだったのか。
終わらなかったものから、逃げるように乗ったのか。
履歴を調べれば分かるだろう。
けれど、確かめたいとは思わなかった。
覚えているのは、出発地でも目的地でもない。
そのあいだに見たものだった。
閉店した薬局の前に積まれた段ボール。
照明の消えた美容室。
無人の椅子が、鏡の中で何列にも増えていた。
コンビニの前では、制服姿の若い男が一人でアイスを食べていた。
信号が青に変わるまで、彼はこちらを見ていた。
正確には、こちらではなく、車の窓に映った自分の顔を見ていたのかもしれない。
車が動き出すと、男はすぐに見えなくなった。
数秒しか見ていない。
それなのに、その夜に向かった場所よりも、彼のことをよく覚えている。
記憶は、大切なものを残すと言われる。
本当にそうだろうか。
大切だったはずの会話は、いつの間にか輪郭を失う。
二度と会わない人の指の動きだけを、何年も覚えていることがある。
旅先の有名な建物より、そこへ向かう途中で見た、雨に濡れた犬を思い出すこともある。
記憶は、こちらの目的を知らない。
予定も、努力も、優先順位も理解しない。
ただ、何かの拍子に引っかかったものだけを、勝手に持ち帰る。
タクシーは、大きな交差点を右へ曲がった。
ナビには、到着まで18分と表示されていた。
しばらくして、もう一度見る。
18分
車は止まらずに走っている。
渋滞もしていない。
次の信号でも、18分だった。
道路沿いの建物は後ろへ流れ、歩道橋も、駐車場も、見知らぬ住宅も次々と消えていく。
車は確実に進んでいる。
到着までの時間だけが、同じ場所に残っていた。
やがて18分になった。
少しして見ると、また18分に戻っている。
そのあと16分になり、もう一度18分になった。
私はナビから目を離せなくなった。
「この道、よく使うんですか」
運転手に尋ねた。
少し間を置いて、彼は言った。
「道は、だいたい同じですね」
答えになっていなかった。
けれど運転手自身は、何も不自然に感じていないようだった。
バックミラーの目は、こちらではなく、前方だけを見ていた。
私は窓へ顔を戻した。
移動中に見える街の場面は、どれも途中から始まり、結末の前に消えてしまう。
二人で歩いている人。
何を話しているのかは分からない。
立体駐車場の入口で、自転車を止めている女。
これから入るのか、出てきたところなのかも分からない。
二階の窓に、カーテンを閉める手だけが見える。
誰が住んでいるのかを知る前に、車は通り過ぎる。
映画なら、あとで伏線だったと分かることがある。
現実では、ほとんどのものは二度と現れない。
一度だけ見えて、説明されないまま消える。
それでも、消えたあとで意味を持ち始める。
あの人はどこへ行ったのだろう。
あの部屋では、どんな夜が続いていたのだろう。
私はなぜ、あれを見たのだろう。
答えのない場面だけが、頭の中で繰り返し上映される。
暗い窓には、後部座席の私が映っていた。
街灯が通り過ぎるたび、顔が浮かび、また消える。
よく知っているはずの顔が、少しだけ他人のように見えた。
疲れていたのだと思う。
車内が暗かったからかもしれない。
それだけで説明できることだった。
私は窓の中の自分と目を合わせた。
街灯が過ぎ、顔が消える。
次の光で、再び現れる。
その瞬間、窓の中の私は、こちらより少し遅れて瞬きをした。
ほんのわずかな遅れだった。
事実と呼ぶには曖昧で、見間違いと呼ぶにははっきりしすぎていた。
もう一度、意識して瞬きをする。
今度は同時だった。
それ以降、何も起こらなかった。
だから最初から、何も起きていなかったのかもしれない。
ただ、人は一度気づいたものを、完全には見なかったことにできない。
私は窓の顔を見続けた。
まぶた。
口元。
呼吸。
首の傾き。
自分を確認しているのではなく、相手がこちらを正しく真似ているか監視するように。
やがて、その行為の方が異常に思えてきた。
自分が自分であることを確かめるために、自分の顔を見張っている。
普段、私たちは自分を疑わない。
名前を呼ばれれば振り返り、鏡を見れば自分だと思う。
けれど、出発地を離れ、まだ目的地にも着いていないあいだ、私は誰によって私だと確認されているのだろう。
運転手は、私の名前を知らない。
どこから来たのかも、なぜそこへ向かうのかも知らない。
私はただの乗客だった。
指定された場所まで運ばれる身体。
別の誰かが同じ席に座っていても、車は同じように走り、同じ場所へ着くだろう。
そう考えると、移動中の私は、私である必要がないように思えた。
目的地へ向かっているあいだだけ、人生は匿名になる。
何者かを説明しなくていい。
過去を引き受けなくていい。
未来を決めなくてもいい。
自由とは少し違う。
解放とも違う。
自分の人生から、一時的に外れている。
そんな感覚だった。
街は、私がいなくても続いていた。
コインランドリーの洗濯物が回っている。
深夜のファミリーレストランで、一人の女性が伝票を見ている。
ビルの裏口から、黒いごみ袋を持った人が出てくる。
誰もこちらを知らない。
こちらも、彼らの人生を知らない。
それでも数秒だけ、互いの時間が同じ窓の中に入る。
そして、すぐに離れていく。
私はスマートフォンを取り出した。
何かを撮ろうとした。
けれど、窓の外にはもう何もなかった。
アイスを食べていた男も、カーテンを閉める手もいない。
黒い画面に、自分の顔だけが映っている。
カメラを持つ人ほど、撮らない時間が必要なのだと思っていた。
けれど本当は、撮らないのではなく、撮れないものがあるだけなのかもしれない。
像には残せても、感じたことまでは残らないもの。
カメラを向けた瞬間、記憶ではなく証拠へ変わってしまうもの。
私はスマートフォンを伏せた。
ナビには、到着まで九分と表示されていた。
時間はようやく進み始めていた。
少し安心した。
同時に、残念だった。
目的地に近づいている。
それは、もともと望んでいたことだった。
それでも、まだ着かなくてもいいと思った。
どこにも属さず、誰にも呼ばれず、何者かを説明しなくていい時間。
到着すれば、役割が戻ってくる。
客になる。
友人になる。
家族になる。
帰宅した人になる。
何かを終えた人になる。
あるいは、終えられなかった人になる。
移動中だけ存在した、名前のない自分は、ドアが開いた瞬間に消える。
着くことは、何かを得ることだ。
同時に、途中にいた自分を置いていくことでもある。
タクシーは、見覚えのある道路へ入った。
建物の並びが分かる。
交差点の名前も分かる。
私は少しずつ、目的地にいる自分へ戻っていった。
財布を出す。
荷物を確認する。
連絡が来ていないかを見る。
降りたあとの行動を考える。
車内で一度外れていた人生が、再び身体へ接続されていく。
「もうすぐです」
運転手が言った。
「はい」
自分の声だと分かるまで、一瞬かかった。
車が路肩に止まる。
メーターが止まる。
ドアが開き、夜の空気が入ってくる。
料金を支払い、外へ出た。
タクシーはすぐに走り去った。
赤いテールランプが交差点を曲がり、見えなくなる。
私は、その場に立っていた。
住所も地図も、ここが目的地だと示している。
確かに着いている。
それでも、何かだけがまだ到着していなかった。
自分の一部なのか。
途中で見た景色なのか。
窓に映り、少し遅れて瞬きをした誰かなのか。
建物へ向かおうとして、足を止めた。
道路の向こうに、あの男がいた。
コンビニの前でアイスを食べていた、制服姿の男。
最初に見た場所からは、かなり離れているはずだった。
同じ服を着て、同じようにアイスを持ち、こちらを見ていた。
信号が赤から青へ変わる。
何台かの車が通り過ぎる。
次に見たとき、もう誰もいなかった。
私は追わなかった。
確かめようとも思わなかった。
確かめなければ、見間違いのままでいられる。
疲れていた。
似た人だった。
光のせいだった。
いくらでも説明できる。
説明できることと、納得できることは違う。
人は、納得できないものを抱えたままでも、目的地へ入っていく。
ドアを開ける。
名前を呼ばれる。
返事をする。
役割の中へ戻る。
それから私は、移動中に窓の外を見るようになった。
電車でも、バスでも、タクシーでも。
知らない街の信号。
閉店後の店。
一つだけ明かりのついた部屋。
どこへ向かうのか分からない人。
撮られないまま消えていく場面。
その中に、自分が混じっていないかを探す。
先に到着した自分。
まだどこにも着いていない自分。
こちらとは別の道を進み続けている自分。
窓の顔が遅れて動くことは、あれから一度もない。
少なくとも、私が見ているときには。
ただ、ときどき、目的地に着いたあとで、移動中の記憶が一部だけ抜けていることがある。
どの道を通ったのか。
何を考えていたのか。
誰を見たのか。
時間だけが過ぎている。
写真はない。
記録もない。
ナビの履歴には、出発地と目的地だけが残っている。
途中は、二点を結ぶ一本の線に変えられる。
けれど、その線の上で何が起きたのかは残らない。
移動しているときだけ、一時的に開く場所がある。
住所はない。
同じ道を戻っても、もう入れない。
そこで私たちは、誰にも確認されないまま存在している。
見知らぬ人の生活を見て、すぐに忘れる。
見知らぬ人に見られ、すぐに忘れられる。
街を通過しながら、自分の人生からも少しだけ外れる。
そして到着した瞬間、何事もなかったように戻ってくる。
鍵を開ける。
靴を脱ぐ。
明かりをつける。
明日の予定を確認する。
そうしているうちに、途中にいた自分を忘れていく。
けれど、向こうはまだこちらを覚えているのかもしれない。
暗い車窓の中で。
交差点の向こう側で。
到着までの時間が、何度も十八分へ戻る道の上で。
こちらが再び乗り込むまで、どこにも着かずに走り続けながら。


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