本棚の奥から、一冊の文庫本を抜いた。
背表紙には薄く埃が積もり、指でなぞったところだけ少し色が変わった。
ページを開く。
何枚かめくったところで小さな付箋が落ちた。
机の上ではなく、床の上へ落ちた。
音はほとんどしなかった。
拾い上げる。
紙は薄く黄ばんでいた。
そこには、黒いボールペンで短い文字が書かれていた。
午後三時、植木に水
それだけだった。
自分の字だった。
けれど、いつ書いたのかは思い出せなかった。
少し眺めてから、窓際を見る。
そこには、植木がある。
今では窓の上の方まで伸びた枝を持つ、小さな木になっていた。
最初からここにあったように見える。
けれど、そうではなかった。
昔はもっと小さかった。
両手で抱えられるほどの鉢だった。
目的もなく歩いていたある日、商店街の花屋で買った。
ほかの鉢は名前の札を付けられ、きれいに並べられている。
しかしその鉢だけが少し離れた場所に置かれていた。
葉の一枚が折れている。
名前は知らなかった。
店の人に聞けば分かったのかもしれない。
けれど、聞かなかった。
紙袋に入れて持ち帰った。
帰り道、袋の底が少し濡れた。
部屋に着く頃には、紙の角が柔らかくなっていた。
鉢を取り出す。
折れた葉を見る。
切った方がいいのか迷った。
傷んだ部分だけを取り除いた方が、植物のためなのかもしれないと思った。
けれど、そのままにした。
しばらくすると、その葉は乾いた。
それでも、しばらく残っていた。
いつの間にか落ちていた。
落ちた日を覚えていない。
付箋を机の上へ置く。
土に指を入れる。
少し乾いていた。
台所へ行き、水を汲む。
鉢へ注ぐ。
水は土の上に広がり、小さな窪みを満たした。
しばらくそこに残ったあと、ゆっくり見えなくなった。
受け皿の縁に、少しだけ水が残った。
時計を見る。
午後三時ではなかった。
六時を少し過ぎていた。
その日、水をやったのかどうかは覚えていない。
付箋を書いたあと、何をしていたのかも覚えていない。
出かけたのかもしれない。
眠っていたのかもしれない。
ただ忘れていただけなのかもしれない。
けれど、植木はそこにあった。
忘れていた時間の中でも、季節だけは過ぎていた。
最初の鉢は小さすぎた。
根が土の中でいっぱいになり、一度目の植え替えをした。
二つ目の鉢も、数年後には窮屈になった。
土を替える時、絡まった根を見た。
細いものが何本も重なり、どこから伸びてきたのか分からなかった。
枯れたと思った枝から、新しい芽が出たこともあった。
冬になると葉が少なくなった。
春になると、知らない間に新しい葉が増えた。
水をやった日もあった。
忘れた日もあった。
窓を閉めた日もあった。
長く家を空けた日もあった。
それでも、戻るとそこにあった。
折れていた葉がどれだったのかは、もう分からない。
最初に出た葉も。
最初に落ちた葉も。
今では、どれが昔からあるものなのか分からない。
翌朝、机の上に置いた付箋が床に落ちていた。
窓が少し開いていた。
冷たい風が入る。
植木の葉が何枚か、同じ方向へ傾いた。
付箋を拾う。
捨てるつもりで二つに折る。
その時、裏側に薄い鉛筆の跡があることに気づいた。
何かを書いて、消したようだった。
光に透かしてみる。
いくつかの線が見えた。
文字のようにも見えた。
けれど、読めなかった。
何を書いていたのか。
なぜ消したのか。
思い出せなかった。
付箋を文庫本へ戻す。
元のページがどこだったのか分からなかったので、適当な場所に挟んだ。
本を閉じる。
本棚へ戻す。
数日後、植木の葉の先が一つだけ茶色くなった。
乾いた部分を指でつまむ。
少し力を入れる。
小さな音がした。
欠けた葉は軽かった。
手のひらに置いても、そこにあるのか分からないほどだった。
しばらく眺めていた。
そのあと、どこへ捨てたのかは覚えていない。
窓際を見る。
新しい葉が一枚あった。
まだ開ききっていない。
細く折り畳まれたまま、古い葉の影にいた。
いつからそこにあったのかは分からない。
壁の時計を見る。
午後三時を少し過ぎていた。
付箋に書かれた時間は、もう過ぎていた。
けれど針は止まらない。
土の中にはまだ、少し水が残っていた。
新しい葉は、まだしばらく開かなかった。


コメント