父がいなくなるので、鍋をする

切り株から伸びる小さな芽と、傍らに落ちた青い柿の実

朽ちてゆく。

朽ちてくだけ。

父は、まだ青い実のついた柿の木を切った。

八月の終わりだった。

「秋まで待てばよかったのに」

そう言うと、父は切り株の上に手を置いた。

「待てへんかったんや」

理由を訊かなかった。

父は春から、よく物を捨てるようになっていた。

古い釣竿。
壊れたラジオ。
何年も履いていない革靴。
母が死んでから一度も使っていない二人分の湯呑み。

押入れから何かを取り出しては、しばらく眺め、残すものと捨てるものに分けていく。

ある日は、電話台の引き出しを全部出した。

期限の切れた保証書を束にして、輪ゴムで留めた。

「これ全部捨ててええから」

「自分で捨てたらええやん」

「せやな」

父は笑って、そのままごみ袋に入れた。

別の日には、

「印鑑、ここに入ってるから」

と言った。

「知ってる」

「ならええ」

それ以上は何も言わなかった。

僕には、その基準がわからなかった。

「これ、いる?」

小さな懐中電灯を渡された。

子どものころ、停電した夜に使ったものだった。

「いらん」

「そうか」

父は燃えないごみの袋に入れた。

数秒してから、僕はそれを拾い上げた。

父は見ていたけれど、何も言わなかった。

昼になると、切った枝を軽トラックに積んだ。

処分場までは三十分ほどだった。

助手席に乗るのは久しぶりだった。

父の運転は以前より遅くなっていた。

後ろから車が近づくたび、道路の端へ寄った。

「急がんでいいん?」

「急いでも着く場所は同じや」

昔なら、そんなことを言う人ではなかった。

信号が赤になった。

道路脇の田んぼに、白鷺が一羽立っていた。

父はそちらを見ていた。

信号が青になっても動かなかった。

後ろからクラクションを鳴らされた。

「青やで」

「見てた」

「何を」

父はもう前を向いていた。

「鳥」

眠っているあいだも
迷っているあいだも

誰かを待っているあいだも

いつか、と思っているうちに
いつかは過ぎてゆく

処分場で枝を捨てたあと、父は海へ行こうと言った。

予定にはなかった。

僕は夕方から人と会う約束があった。

時計を見る。

まだ間に合う。

「ちょっとだけなら」

海までは二十分だった。

防波堤に座った。

夏休みなのに、人はほとんどいなかった。

遠くで子どもが浮き輪を引きずっていた。

父は缶コーヒーを二本買った。

一本を僕に渡した。

「甘いやつやん」

「昔これ飲んでたやろ」

「中学生のときな」

父は笑った。

僕も飲んだ。

甘すぎた。

海面には、午後の光が細かく散っていた。

「旅行でも行く?」

父が言った。

「急に何」

「別に」

「どこ」

父はしばらく考えた。

「いや、ええわ」

「なんやねん」

「ここでええ」

父は海を見た。

それから何度か何かを言いかけ、そのたびにやめた。

僕はスマートフォンを見た。

待ち合わせの時間まで、あと一時間半。

「そろそろ帰る?」

「もうちょっと」

珍しかった。

父はいつも、僕より先に帰ろうと言う人だった。

十分ほどして、父が言った。

「あと三か月らしい」

風が強くなった。

「何が」

父は海を見たままだった。

「俺が」

僕はスマートフォンを伏せた。

何か言わなければならないと思った。

治療は。

本当に。

なんで言わなかった。

病院は。

いくつもの言葉が喉まで来て、全部戻った。

父が缶コーヒーを飲んだ。

「そんな顔すんな」

「どんな顔」

「知らん」

父は少し笑った。

僕は笑えなかった。

帰りの車では、さっきより速度が遅かった。

父がゆっくり運転しているのか、僕がそう感じるだけなのかわからなかった。

信号が赤になるたび、時間が止まればいいと思った。

けれど青になった。

必ず青になった。

夕方の約束は断った。

相手には、家の用事とだけ送った。

父には言わなかった。

家に戻ると、父は庭へ出た。

切った柿の木の前にしゃがんだ。

「何してんの」

「見てる」

「何を」

「切りすぎたかなと思って」

切り株から透明な汁が滲んでいた。

父が指で触った。

「死んだん?」

「いや」

「また生える?」

「たぶんな」

「来年には伸びるやろ」

父はそう言ったあと、切り株を見た。

僕も見た。

何も言わなかった。

その夜、押入れを開けた。

父が捨てようとしていた懐中電灯を取り出した。

電池を入れる。

まだ点いた。

白い光が、狭い部屋の壁を照らした。

壁。
本棚。
脱ぎっぱなしのシャツ。
床に置いた鞄。

それでもしばらく、消さなかった。

翌朝、父は庭で水を撒いていた。

切ったばかりの柿の木にも水をやっていた。

「それ、意味あるん」

「知らん」

「じゃあなんで」

父はホースをこちらへ向けた。

水が足にかかった。

「冷たっ」

父が笑った。

僕も笑った。

三か月という言葉は、それから家のどこにも置かなかった。

僕たちは旅行に行かなかった。

会っていなかった親戚を順番に訪ねたりもしなかった。

特別な料理も食べなかった。

父は火曜日になると燃えるごみを出し、スーパーでは値引きシールを待った。

テレビのリモコンをなくして、僕のせいにした。

庭に水をやった。

僕は洗濯物を取り込むのを忘れた。

父は、少しずつ物を減らした。

自分の服は二段あった引き出しを一段にした。

釣り道具もほとんどなくなった。

母の湯呑みだけは残っていた。

「これは?」

訊くと、

「置いとく」

と言った。

代わりに、父はよく立ち止まるようになった。

夕焼けの前。

湯気の立つ味噌汁の前。

道端で眠っている猫の前。

信号待ちの白鷺の前。

スーパーへ行ったとき、入口の自動ドアの前で急に止まったこともあった。

「何」

「ここ、何回来たやろな」

「知らん」

「俺も知らん」

ドアが開いた。

僕たちは中へ入った。

十月の終わり。

柿の切り株から、小さな芽が出た。

父が呼ぶので庭へ行った。

葉になるのかどうかもわからない、緑色の尖りだった。

父はしゃがんで、それを長いこと見ていた。

「生えたな」

「うん」

「切ったのに」

「うん」

父は指先を伸ばした。

けれど触れなかった。

朽ちてゆく。

朽ちてくだけ。

その横から、小さな緑が出ていた。

十一月のある朝、父は病院へ行く前に庭へ出た。

僕もついていった。

新しい芽には、二枚の葉がついていた。

父が訊いた。

「今日、何するん」

僕は少し考えた。

仕事が溜まっていた。

返していない連絡もあった。

読みかけの本もあった。

「帰ったら、鍋でもする?」

父は葉を見たまま、

「白菜ある?」

と訊いた。

「ない」

「じゃあ買わなあかんな」

「帰りに寄ろう」

「肉は?」

「豚でいいやろ」

「鶏がいい」

「じゃあ鶏で」

「豆腐もいるな」

「あるやろ」

「昨日使った」

「じゃあ豆腐も」

父は立ち上がった。

玄関で靴を履き、僕より先に外へ出た。

鍵を閉めているあいだに、少し先まで歩いていた。

僕は鍵をポケットに入れた。

それから、その背中を追った。

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