きょうがまだ帰ってこない

夏の夕暮れ、木々と住宅を望む窓辺に置かれた水のグラス

昨日のことは、全部覚えている。

でも、そこにいた自分だけが思い出せなかった。

写真にも、会話にも、確かに私は残っていた。

朝から何度も予定を確認していた。

集合場所。

時間。

天気。

持っていくもの。

スマホを見るたび、同じ画面を開いていた。

楽しみにしていた。

たぶん、そうだった。

でも、何を楽しみにしていたのかだけ、少し曖昧だった。

会うことなのか。

行く場所なのか。

その日に起こる何かなのか。

分からない。

ただ、朝から少し落ち着かなかった。

いつもより早く起きた。

必要のない時間に時計を見た。

服を選ぶのに少し迷った。

その感覚だけは覚えている。

家を出る。

夏の暑さはまだ残っていた。

先月までの暑さは、外へ出た瞬間に身体を押し返すようだった。

日陰にいても暑い。

夜になっても、部屋の中には昼間の熱が残っている。

でも、その日は少し違った。

風が軽かった。

空が少し高く見えた。

蝉の声が少し遠かった。

夏が終わるわけではない。

ただ、一瞬だけ休んでいるようだった。

その日のことは覚えている。

どこへ行ったか。

何を見たか。

何を食べたか。

誰と話したか。

大まかな流れなら説明できる。

でも、帰宅してから気づいた。

家を出てから、眠るまで。

その二十二時間だけ、自分の人生から少し離れていた。

玄関で靴を脱ぐ。

鍵を置く。

冷蔵庫を開ける。

洗濯物を取り込む。

身体は迷わなかった。

昨日の自分が残した生活の跡を、今日の自分が片付けていく。

机の上には飲みかけの水。

ポケットにはレシート。

スマホには写真。

全部、自分が残したものだった。

なのに、その時間だけが少し遠かった。

記憶がないわけではない。

写真を見れば、そこにいたことは分かる。

メッセージを読めば、自分の言葉が残っている。

財布の中には、その日に使ったレシートがある。

だから、失ったわけではなかった。

ただ、その時間だけ、自分の手から少し滑り落ちているようだった。

写真を見る。

そこには自分がいる。

笑っている。

歩いている。

誰かの話を聞いている。

でも、昔の写真を見る時と少し似ていた。

そこにいる人物が自分だということは分かる。

ただ、その時の自分の内側だけが遠い。

「あの日は楽しかった」

とは言える。

でも、

「その時、自分は楽しかった」

と言おうとすると、少し間ができた。

机の上にあるノートを開いた。

昔は、忘れないために書いていた。

今は少し違う。

忘れることが怖いわけではない。

ただ、戻れなくなった時に、帰る場所が分かるようにしている。

そんな気がしていた。

数日前のページ。

短い文字。

8月9日。

森。

木陰。

帰り道。

ひぐらし。

それだけだった。

読んでも、最初は何も起こらなかった。

意味は分かる。

森へ行った。

木陰にいた。

帰り道にひぐらしを聞いた。

ただ、それだけだった。

文字は読める。

でも、その場所にいた自分だけがいなかった。

しばらく見ていた。

すると、

「木陰」

という二文字だけが残った。

そこからだった。

木漏れ日。

湿った土。

少し冷たい風。

足元の感触。

ひぐらしの声。

遠くで鳴いているようで、近くでも鳴いている。

どこから聞こえているのか分からない声。

昼間の熱がまだ残っている。

でも、空気だけが先に夜へ向かっている。

その時間が、少しずつ戻ってきた。

最初に戻ったのは、景色だった。

次に戻ったのは、身体だった。

腕に当たった風。

歩いた時の疲れ。

喉の渇き。

でも、最後まで戻らないものがあった。

その時、自分が何を感じていたのか。

後日、その人と話した。

「あの日さ」

と言われた。

「何回も右手触ってたよ」

「え?」

「薬指。親指で」

知らなかった。

そんな癖があることを知らなかった。

「緊張してたのかな」

と聞く。

「ううん」

少し考えてから言われた。

「たぶん、安心してたんじゃないかな」

その言葉を聞いた瞬間、手の感覚が戻った。

右手。

薬指。

親指が触れる感触。

その時、自分は何かを感じていた。

何かを大切にしていた。

そこまでは戻った。

でも、何を考えていたのかは戻らなかった。

何を話したかは、完全には戻らなかった。

でも、その人が笑う前の短い沈黙は覚えていた。

返事を探している時間。

言葉になる前の空気。

会話の内容より先に、空気が戻った。

その沈黙の中にいた自分だけが、少しずつ戻ってきた。

ノートを閉じたあとも、しばらく机の前に座っていた。

昨日の自分が残した文字を、今日の自分が読んでいる。

その距離が、少しだけ不思議だった。

昨日の自分は、今日の自分へ説明を残していなかった。

ただ、

ここにいた。

という印だけ置いていた。

写真を見る。

レシートを見る。

メッセージを見る。

少しずつ戻る。

店の匂い。

道の温度。

相手の声。

風の感触。

でも、全部は戻らなかった。

戻ったものもある。

戻らないものもある。

夏は、急には終わらない。

少し涼しくなる。

秋の気配を見つける。

でも、数日後にはまた暑くなる。

そうやって、季節は少しずつ移動していく。

夜。

窓を開ける。

もう、ひぐらしの声は聞こえない。

でも、耳の奥には残っている。

あの日の森。

木陰。

帰り道。

隣にいた人。

そして、そこにいた自分。

場所も戻った。

声も戻った。

身体の感覚も戻った。

でも、朝起きた時に感じていたはずの期待だけは、最後まで戻らなかった。

何かを楽しみにしていた。

それだけは分かる。

けれど、その「何か」の形だけが、まだ見つからない。

その時間の中にいた自分を、まだ完全には思い出せない。

でも、もう他人だとは思わなかった。

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