私は、一日に七分だけ透明になる。
最初に消えるのは、たいてい手だ。
持っていたコップだけが、空中に残る。
始まる時間は決まっていない。
朝、歯を磨いている途中のこともある。
仕事中のこともある。
電車を待っているときのこともある。
眠る直前、布団をめくったところで始まることもある。
前触れはない。
寒くなるわけでもない。
痛くもない。
何か音がするわけでもない。
ただ、見えていたものが見えなくなる。
指。
手の甲。
手首。
腕。
肩。
胸。
脚。
顔。
服も一緒に消える。
靴も、腕時計も、ポケットの中のものも見えなくなる。
身体から離したものは見える。
机にスマートフォンを置けば、そこにある。
手に取れば、端末だけが空中へ浮く。
そして、七分後に戻る。
毎日、一度だけ。
その三つが分かるまでには、少し時間がかかった。
最初に透明になったのは、朝だった。
洗面所で顔を洗っていた。
水を止め、タオルを取ろうとして鏡を見た。
誰もいなかった。
洗面台。
歯ブラシ。
壁。
後ろのドア。
いつも見えているものは全部あった。
その真ん中だけが空いていた。
少し横へ動いてみた。
鏡の中の洗面所も動く。
私は映らない。
頬を触った。
濡れていた。
鼻もある。
まぶたもある。
髪もある。
もう一度鏡を見る。
何もない。
「あ」
声を出した。
洗面所に、自分の声だけが返った。
ドアノブへ手を伸ばした。
ノブが勝手に回ったように見えた。
廊下へ出る。
床板を踏む感触はある。
歩けば音もする。
私は立ち止まった。
どうすればいいのか分からなかった。
救急車を呼ぶのか。
病院へ行くのか。
服を着るのか。
そもそも、自分が今、服を着ているのか。
胸元に触れた。
Tシャツの布があった。
腰にはズボン。
足には靴下。
何も失ってはいない。
ただ全部、見えない。
スマートフォンを持つ。
画面は見える。
電話をかけようとして、そこへ伸びる指がないことに気づいた。
見えない指で画面に触る。
触れた場所だけが反応する。
そのことが、自分が消えたことより怖かった。
電話をかける前に、身体が戻った。
指先からだった。
爪。
手の甲。
腕。
Tシャツ。
胸。
脚。
鏡まで走った。
顔があった。
髪は濡れていた。
水滴も残っている。
時計を見る。
七分ほど経っていた。
その日は、それ以上何も起きなかった。
翌日は夕方だった。
スーパーから帰り、冷蔵庫へ牛乳を入れようとしたときに指が消えた。
私は慌ててスマートフォンのストップウォッチを押した。
牛乳を机へ置く。
椅子に座る。
画面を見る。
一分。
二分。
三分。
身体は見えないままだった。
六分を過ぎたところで、私はスマートフォンを持ち上げた。
画面だけが宙に浮いた。
六分五十七秒。
五十八。
五十九。
七分。
指先が戻った。
私はストップウォッチを止めた。
七分二秒。
翌日は昼だった。
その次の日は夜。
開始時刻をノートへ書くことにした。
一日目 8:14ごろ
二日目 17:38
三日目 12:06
四日目 22:51
数字を並べても、規則らしいものはなかった。
四日目から、始まった瞬間にストップウォッチを押した。
終了した瞬間にも押す。
7:03。
6:59。
7:01。
押すタイミングのずれを考えれば、毎回ほとんど同じだった。
一週間経ったころから、私は七分の方を疑わなくなった。
疑っていたのは、毎日一度という方だった。
最初の数日は、たまたまだと思っていた。
一度透明になったあとも、何度も手を見た。
また消えるのではないかと思った。
その日は二度目が来なかった。
翌日も一回。
その翌日も一回。
十日目の朝、起きてすぐ透明になった。
6時21分だった。
七分後、戻った。
その日は家にいることにした。
二度目が来るか確かめたかった。
昼まで待った。
何もない。
午後も手を見ていた。
風呂へ入った。
夕食を食べた。
夜十一時を過ぎた。
何も起きなかった。
日付が変わるところまで起きていた。
0時を過ぎる。
まだ何もない。
私はノートへ、
十日目 6:21
と書いた。
その下に、
二回目なし
と付け加えた。
翌日は15時44分に透明になった。
一度目を早い時間に済ませたからといって、翌日も早くなるわけではなかった。
十一日目 15:44
次の日は8時03分。
その次は23時18分だった。
23時18分に始まった日は、少し困った。
七分後は23時25分。
その日が終わるまで、あと三十五分しかない。
もし日付が変わったあとすぐに次が来れば、一時間も空かずに二度透明になることになる。
私は眠らずに待った。
23時59分。
0時。
0時01分。
何も起きない。
スマートフォンを机に置いたまま、手を見続けた。
1時。
2時。
眠くなった。
3時前に諦めた。
翌日、透明になったのは昼の13時27分だった。
ノートの端に、
日付ではなさそう
と書いた。
翌朝、それを線で消した。
分かったわけではなかったからだ。
開始時刻はばらばらだった。
それでも、一日が終わる頃には必ず一度起きていた。
私は試しに、透明になった日の夜に運動した。
心拍数を上げれば、二度目が起こるかもしれないと思った。
何も起きなかった。
熱い風呂に入った。
冷たい水で顔を洗った。
暗い部屋でじっとした。
鏡の前に立った。
透明になったときと同じように、右手を眺めた。
何も起きない。
翌日は、朝から何もしないで待った。
透明になる瞬間を見つければ、その前に何か共通した感覚があるかもしれないと思った。
椅子に座り、手を膝の上に置いた。
八時。
九時。
十時。
何もない。
昼食を食べる。
午後になった。
眠くなった。
少し横になった。
目を覚ます。
手を見る。
まだある。
夕方、洗濯物を取り込んでいると、突然指が消えた。
前兆はなかった。
私は洗濯物を床へ置き、ストップウォッチを押した。
次の日は、あえて忙しくした。
朝から外へ出た。
電車に乗った。
歩いた。
昼食を食べた。
買い物をした。
家へ戻った。
何も起きなかった。
今日は来ないのかもしれないと思った。
夜、歯を磨いている途中で消えた。
何もしていない日も。
一日中動いていた日も。
よく眠った日も。
ほとんど眠れなかった日も。
始まる時間は変わった。
透明になる直前に共通して起こることは、結局見つけられなかった。
透明になったあと、もう一度起こそうとしても起きなかった。
七分を伸ばそうともした。
一度、終了が近づいたところで目を閉じた。
見なければ戻らないのではないかと思ったわけではない。
ただ、何か変わるかもしれないと思った。
タイマーの音が鳴る。
目を閉じたまま、手に触れた。
見えているかどうかは分からない。
目を開けた。
手が戻っていた。
別の日には水の中へ手を入れた。
水が透明な手の輪郭に沿って動いている。
七分になる。
水の中で指が現れた。
条件は関係なかった。
歩いていても。
寝転んでいても。
人と話していても。
一人でも。
六分台で戻る日はなかった。
八分まで続いた日もなかった。
私がストップウォッチを押し損ねた日を除けば、どれも七分の周辺に集まった。
一か月分の記録を机に並べた。
開始時刻は散らばっていた。
朝。
昼。
夕方。
夜。
三十一個。
同じ日は二つない。
空白の日もない。
横には、ほとんど同じ数字が並んでいた。
6:59
7:02
7:00
7:01
6:58
7:03
私はそれを見た。
何か分かるかと思った。
分からなかった。
ノートを閉じた。
それから、病院へ行った。
診察室で、
「透明になるんです」
と言った。
医師はカルテを見た。
それから私を見た。
「身体が?」
「はい」
「見えなくなる?」
「はい」
「意識を失うわけではなく?」
「普通に起きています」
「目は見える?」
「見えます」
「鏡には?」
「映りません」
「どのくらい続きますか」
「七分です」
私はノートを机へ出した。
医師がページをめくった。
「毎回?」
「ほぼ」
「毎日?」
「今のところ、一日一回です」
医師の指が、開始時刻の列を下へ動いた。
「時間は決まっていない?」
「決まっていません」
「自分で起こせる?」
「できません」
「止めることは?」
「できません」
医師は少し黙った。
私はノートを閉じた。
頭痛。
めまい。
吐き気。
しびれ。
失神。
睡眠。
食事。
薬。
ストレス。
ひとつずつ聞かれた。
血液を採った。
画像も撮った。
その日は何も起きなかった。
翌日、また来るように言われた。
透明になるところを実際に確認するため、一日病院にいた。
午前中は何もなかった。
昼食を食べた。
午後になった。
看護師が何度か様子を見に来た。
三時過ぎ、窓の外を見ていると、右手が消えた。
ナースコールを押した。
「始まりました」
看護師が来たときには、肘のあたりまで見えなくなっていた。
「あ」
声が漏れた。
私ではなく、看護師の声だった。
「先生、呼びますね」
そのとき初めて、自分が消えていくところを誰かの顔越しに見た。
私はすでに、少し慣れ始めていた。
けれど、看護師の表情を見ると、それが普通ではないことを思い出した。
肩が消える。
胸。
腹。
脚。
服も一緒に消えた。
ベッドの上には、身体の重みで沈んだシーツだけが残った。
医師が入ってきた。
「聞こえますか」
「聞こえています」
声のする辺りまで来る。
「触ってもいいですか」
「はい」
手が肩を探した。
一度、空振りした。
「もう少し左です」
手が横へずれる。
「ここ?」
肩に触れた。
「そこです」
医師の掌の温度が分かった。
何もない場所に手が止まっている。
「感覚はありますか」
「あります」
「痛くない?」
「ないです」
血圧を測ろうとして、今度は腕の位置が分からなくなった。
私は自分で看護師の手を取り、肘へ置いた。
目には何もないところで、その手が止まる。
カフが巻かれる。
聴診器が胸へ当たる。
「普通に聞こえます」
医師が言った。
普通、という言葉だけが妙に残った。
医師は壁の時計を見た。
看護師も見た。
私はスマートフォンを机へ置いていた。
画面にはタイマーが出ている。
6:41。
6:42。
6:43。
誰も話さなくなった。
6:55。
56。
57。
58。
59。
7:00。
指先が戻った。
看護師が息を吐いた。
服。
腕。
脚。
顔。
医師は時計を見たまま、
「七分ですね」
と言った。
次の日、病院へ電話した。
「昨日透明になったあと、もう一度は?」
「なっていません」
「今日も?」
電話をしている最中は、まだだった。
その日の夜九時過ぎに消えた。
私はノートへ書いた。
病院の翌日 21:07
その下には、何も書かなかった。
それでも原因は分からなかった。
検査にも何も出なかった。
病名はつかなかった。
薬も出なかった。
診察の最後、
「何か変化があったら来てください」
と言われた。
何が変化なのかは、よく分からなかった。
毎日身体が消えている時点で、十分変わっているように思えた。
病院を出る。
信号が変わる。
自転車が通る。
コンビニの自動ドアが開く。
人が歩いている。
私はそのとき、普通に見えていた。
それから、生活を少しずつ変えた。
料理中に透明になったら包丁を置く。
階段では急がない。
車には乗らなくなった。
運転している本人は見えていても、周囲から見れば無人の車になる。
自転車もやめた。
七分のあいだだけ、危険なことを避ければいい。
一日のほとんどは普通だった。
そう思うと、暮らせた。
腕時計には七分のタイマーを設定した。
消え始めたら押す。
七分後、音が鳴る。
時計自体は一緒に見えなくなるが、音は残る。
最初の頃は、スマートフォンを机に置き、数字が減っていくのを見ていた。
六分四十八秒。
六分四十九秒。
六分五十秒。
身体が戻る瞬間を待った。
そのうち、見なくなった。
始まったら押す。
音が鳴る。
一日のどこかで、一回。
その一回が終わったあとは、少しだけ気が楽になった。
会社にも話した。
勤務中に消える可能性がある以上、黙っているわけにはいかなかった。
上司は病院と似たような質問をした。
「完全に?」
「はい」
「服も?」
「服もです」
「声は?」
「出ます」
「物には触れる?」
「触れます」
「毎日?」
「毎日です」
「七分?」
「七分です」
「何時ごろ?」
「分かりません」
「前もって分かる?」
「分かりません」
上司はそこで少し困った顔をした。
「じゃあ、会議中とかも?」
「あります」
「止められない?」
「止められません」
しばらく沈黙した。
結局、透明になったらできるだけ席にいることになった。
最初の数日は、消えるたびに仕事が止まった。
「あ、消えた」
誰かが言う。
「大丈夫?」
と聞かれる。
「大丈夫です」
と答える。
七分後に戻る。
数週間すると、誰も止めなくなった。
椅子だけが少し沈む。
キーボードが動く。
マウスが動く。
電話が鳴れば取る。
「はい」
と答える。
透明な私がそこにいることが、少しずつ会社の風景になった。
透明になったあと、
「今日はもう終わった?」
と聞かれることがあった。
「終わりました」
そう答える。
まだの日には、
「まだです」
と言う。
その一言で、自分が一日のどこにいるのか分かるような気がした。
朝九時に終わる日もある。
午後五時になっても残っている日もある。
その日は、誰も気にしていないのに、私は少しだけ右手を気にする。
ある日、会議中に始まった。
十人ほどで長い机を囲んでいた。
壁のモニターに数字が並んでいた。
私は紙の資料を持っていた。
指が消える。
紙だけが少し浮いた。
腕時計を押す。
手首。
腕。
肩。
身体。
服。
隣の人が先に気づいた。
「あれ?」
説明していた人が止まる。
何人かがこちらを見る。
私の席には、開いた資料とペンと椅子しかない。
「います」
私は言った。
誰も動かなかった。
「ここにいます」
隣の人が椅子を見る。
上司が聞いた。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
資料を一枚めくる。
紙だけが持ち上がり、裏返る。
視線が集まる。
「続けてください」
会議が再開した。
しばらくは、私がペンを動かすたびに誰かが見た。
透明な手に持たれたペンだけが、資料の上を進んでいく。
やがて、それも見なくなった。
説明が続く。
数字が並ぶ。
質問が出る。
誰かが答える。
私はその途中で、自分の顔がなくなっていることを意識した。
普段、発言すると誰かがこちらを見る。
私はその人を見る。
少し眉が動く。
頷く。
目を逸らす。
反応を見ながら、話す速度や言葉を変える。
その日は、向こうからこちらを見ることができない。
私は全員の顔を見られる。
向こうは、私の声だけを聞いている。
「その数字は先月分も含まれていますか」
私は聞いた。
担当者が一度こちらを見ようとした。
けれど、目を向ける先がない。
すぐモニターへ戻る。
「含まれています」
「なら、比較する条件を揃えた方がいいと思います」
普段なら一度、相手の顔を見るところだった。
その日は続けた。
「前年同月と並べた方が分かりやすいです」
「確かに」
そのあとも私は何度か話した。
タイマーが鳴る。
指が戻る。
腕。
シャツ。
身体。
顔。
何人かと目が合った。
その瞬間、さっきまで口にした言葉が、全部まとめて自分のところへ返ってきたような感じがした。
会議が終わったあと、隣の人が言った。
「透明のとき、よく喋るね」
私は少し笑った。
「そうみたいです」
その日の透明化は、もう終わっていた。
帰宅するまで、手を見る必要はなかった。
別の日には、電車の中で透明になった。
昼過ぎだった。
車内はそれほど混んでいなかった。
私は端の席に座っていた。
窓の外を見ていると、膝が消えた。
タイマーを押す。
次の駅で何人かが乗ってきた。
一人が私の前まで来る。
座席を見る。
そのまま腰を下ろそうとした。
「座っています」
私は言った。
身体が途中で止まった。
「え?」
「ここ、座っています」
相手が周りを見た。
声の位置を探している。
「あ、すみません」
「すみません」
私も言った。
謝る理由はない。
けれど、反射的に口から出た。
次の駅で私は立った。
吊り革につかまる。
革の輪だけが少し下がる。
さらに人が乗ってきた。
向こうから来る人は避けない。
私が肩を引く。
別の人にもこちらが道を譲る。
三人目と軽くぶつかった。
「すみません」
私が言う。
相手は振り返る。
誰もいない。
普段、人は互いを見ながら、数センチずつ進路を変えている。
片方だけではない。
二人とも少しずつ避ける。
透明になると、その半分がなくなる。
相手は真っすぐ来る。
私だけが避ける。
電車を降りた。
階段でも同じだった。
前を歩く人は、私が後ろにいることを知らない。
改札へ行く。
ICカードをかざす。
誰もいないのにゲートが開く。
近くの駅員がこちらを見る。
「通ります」
小さく言った。
駅員が驚いた。
私はそのまま歩いた。
会社でも、それから少しやり方が変わった。
透明になったら、廊下の端を歩く。
給湯室へ入るときには、
「入ります」
と言う。
コピー機を使う前にも声を出す。
ある日、透明になった状態でコーヒーを取りに行こうとすると、隣の人が言った。
「今、動く?」
「コーヒーです」
「じゃあ私も行く」
その人が少し先を歩いた。
向こうから来る人がその人を避ける。
空いた場所を、私はそのまま通った。
透明になってから初めて、人の後ろを歩くことが少し楽だと思った。
給湯室でカップが二つ並んだ。
「どっち?」
「右」
透明な手で右のカップを取る。
カップだけが浮く。
同僚が笑った。
「何回見ても慣れない」
「私も最初はそうでした」
「本人も?」
「本人も」
一緒に席へ戻った。
それだけだった。
昼食へ出たときに始まったこともある。
店へ向かう途中だった。
「なった?」
隣を歩いていた同僚が聞く。
「なりました」
「今日の?」
「今日のです」
「じゃあ、あと七分?」
「はい」
二人で歩く。
向こうから来る人は同僚を避ける。
その横にできた空間を私が通る。
店へ入る。
店員が人数を聞く。
「二人です」
同僚が答える。
店員は一人しか見えていない。
少し止まる。
「二名です」
私も言った。
「あ、はい」
席へ案内される。
向かいに同僚が座った。
私は正面にいる。
「顔がないと話しにくい?」
聞いてみた。
「ちょっと」
「どこ見ればいいか分からない」
「声の方で」
同僚が、私の顔があるはずの辺りを見る。
少しずれていた。
「もう少し右」
目が横へ動く。
「ここ?」
「そこ」
見えていないのに、目が合ったような気がした。
「不思議」
同僚が言う。
「何が?」
「見えてないのに、そこにいる感じはする」
その直後、タイマーが鳴った。
手が戻る。
腕。
服。
顔。
同僚の目が数センチ動き、本当の目の位置へ合った。
「ずれてた?」
「ちょっと」
それから料理が来た。
普通に食べた。
別の日、電話中に透明になった。
音声だけの通話だった。
「今、透明になった」
私は言った。
「そう」
相手は答えた。
会話はそのまま続いた。
今日食べたもの。
天気。
買い物。
七分後、
「戻った」
と言った。
「そう」
同じ返事だった。
電話を切ってから気づいた。
相手には、最初から最後まで何も変わっていなかった。
声だけで話している間、私は透明になる前も後も同じだった。
反対に、ビデオ通話は奇妙だった。
画面の向こうには相手がいる。
こちら側には部屋だけが映っている。
椅子。
壁。
カーテン。
その真ん中に私は座っている。
「聞こえる?」
「聞こえる」
「手、振ってみて」
私は振った。
何も映らない。
「振ってる?」
「振ってる」
二人とも少し笑った。
相手が何か言う。
私は頷く。
すぐに、意味がないことに気づく。
「今、頷いた」
と言った。
「言わないと分からない」
「そうですね」
しばらくして、相手の言葉がおかしくて笑った。
「今、笑ってる」
自分で言ってから変な感じがした。
朝に透明になる日は、少し違う。
起きてすぐ始まると、まだ誰にも会っていない。
キッチンへ行く。
水を飲む。
冷蔵庫を開ける。
誰にも説明しなくていい。
そういう時間には、他人より自分の身体の方が気になる。
足元を見る。
床が見える。
いつもなら膝や脚で隠れているところまで見える。
座っても膝がない。
立っても足先がない。
視界の下側だけが妙に広い。
それでも、家具にはほとんどぶつからない。
手を伸ばせばコップを取れる。
照明のスイッチも押せる。
階段も下りられる。
何度か繰り返しているうちに、身体は見ている以上に、別の方法でも自分の位置を知っているらしいと分かった。
風呂で透明になったこともある。
シャワーを浴びていた。
手の甲が消えた。
水だけが途中で軌道を変える。
肩に当たった水が、何もない場所で散る。
腕を流れる水滴が空中を滑る。
身体は見えない。
水だけが、その形に沿って落ちていく。
私はしばらく見ていた。
肩の丸み。
肘。
指。
水が一瞬だけ、透明な身体の輪郭を作る。
鏡は曇っている。
手で拭う。
曇りだけが消える。
私は映らない。
雨の日に外で透明になったこともある。
傘を差していた。
傘は見える。
身体はない。
傘だけが歩いている。
腕や肩へ雨粒が当たるたび、何もない場所で水が弾ける。
すれ違った子どもが立ち止まった。
母親らしい人が手を引く。
二人とも、動いていく傘を見ている。
後ろから声がした。
「傘だけ歩いてた」
それ以来、雨の日に透明になったら、傘を閉じることがある。
七分なら濡れてもいい。
コンビニのレジで透明になったことがある。
前の客が会計をしていた。
そのあいだに、手が消えた。
続いて腕。
身体。
財布まで見えなくなる。
前の人が去る。
私が一歩進む。
店員は後ろを見る。
誰もいないと思ったらしい。
「お願いします」
私が言った。
店員が止まる。
カゴが空中へ持ち上がり、カウンターに置かれる。
「ここにいます」
「あ、はい」
商品が一つずつ読み取られる。
おにぎり。
水。
ティッシュ。
店員はレジを見る。
商品を見る。
袋を見る。
ときどき、私の顔があるはずの場所へ視線を向ける。
そのたびに少しずれる。
「袋は?」
「いりません」
「ポイントカードは?」
「ないです」
スマートフォンを決済機へ近づける。
支払いが終わる。
商品を持ち上げる。
それらだけが空中へ浮く。
後ろに並んでいた人が少し距離を取った。
私は店を出た。
ある休日、家で透明になった。
昼過ぎだった。
洗濯物を畳み終えたところだった。
最後のTシャツを棚へ置く。
指が消えた。
腕時計を押す。
その日は誰もいなかった。
電話もない。
外へ出る予定もない。
私は水を飲んだ。
グラスだけが空中を移動した。
それを見て、鏡の前へ行った。
鏡には部屋だけが映っている。
壁。
棚。
カーテン。
机。
椅子。
私はその中央に立っている。
でも、何もない。
近づく。
いつも顔がある位置まで行く。
何も映らない。
息を吐く。
鏡が丸く曇った。
そこにだけ、身体の位置が分かる。
もう一度息を吐く。
曇りが濃くなる。
手を上げる。
見えない。
顔に触れる。
鼻。
頬。
まぶた。
眉。
額。
髪。
耳。
顎。
全部ある。
指で順番に触っていく。
毎日鏡で見ている顔なのに、自分の指で形を確かめることはほとんどなかった。
途中で時間が気になった。
腕時計は見えない。
スマートフォンを机へ置く。
四分十三秒。
また鏡の前へ戻る。
透明なうちにしかできないことを考えた。
何も思いつかなかった。
誰かを驚かせる。
普段入れないところへ行く。
見られずに何かを見る。
最初の頃には、そういうことも少し考えた。
けれど、七分は短い。
それに、いつ始まるか分からない。
始まってから何かを計画するには、あまりに中途半端だった。
私は鏡の中の部屋を見た。
誰もいないように見える。
もし今、誰かがドアを開けたら、無人だと思うだろう。
私はそこにいる。
床を踏んでいる。
呼吸している。
まばたきもしている。
それまで透明になると、いつも他人のことを考えていた。
ぶつからないようにする。
驚かせないようにする。
自分がいることを伝える。
その日は誰もいなかった。
何も説明しなくていい。
タイマーが鳴った。
指先が現れる。
爪。
手の甲。
手首。
腕。
袖。
肩。
胸。
脚。
服。
最後に顔が戻る。
髪。
額。
眉。
目。
鼻。
口。
さっき指で触った場所が、一つずつ見えるものに戻った。
いつもの顔だった。
私はしばらく動かなかった。
右手を上げる。
鏡の中の手も上がる。
目を動かす。
向こうの目も動く。
それから、ときどき透明になったあと鏡を見るようになった。
戻ったことを確認するためではない。
戻ることは、もう知っている。
ある朝、駅へ向かう途中で透明になった。
住宅街の細い道だった。
タイマーを押す。
向こうから自転車が来る。
こちらには気づかない。
私は壁際へ寄る。
次に、犬を連れた人が歩いてきた。
飼い主は何も気づかなかった。
犬だけが立ち止まった。
私のいる方を見る。
私は少し横へ動いた。
犬の顔も動く。
飼い主がリードを引く。
「どうしたの」
犬はまだこちらを見ている。
「通ります」
小さく声を出す。
飼い主が驚く。
犬は少し尻尾を振った。
私は横を通った。
振り返る。
犬だけがまだこちらを見ていた。
駅へ着く前に身体は戻った。
改札を通る。
ホームに並ぶ。
前の人との間を少し空ける。
後ろの人も少し空ける。
電車が来る。
降りる人のために横へ避ける。
向こうも避ける。
吊り革につかまる。
隣の人と肩が当たりそうになる。
二人とも少し身体をずらす。
何も言わない。
「すみません」もない。
それで済む。
透明になっている時間より、戻ったあとに見えるものの方が少し増えた。
誰かが半歩避ける。
扉を押さえる。
椅子を空ける。
人が通るまで待つ。
会話の途中で頷く。
笑う。
目が合う。
目を逸らす。
病院には、その後も何度か通った。
ノートも持っていった。
三か月分。
半年分。
開始時刻の欄は、相変わらず散らばっていた。
6:38。
14:12。
22:47。
9:05。
18:31。
その隣には、毎日ひとつずつ印がある。
二つある日はない。
何もない日もない。
ある診察の日、医師がページをめくりながら聞いた。
「予測できるようには?」
「なっていません」
「きっかけも?」
「分かりません」
「一日に二回ということは?」
「まだありません」
「七分より長かった日は?」
「ありません」
医師はノートを閉じた。
私も何も言わなかった。
原因は、相変わらず分からなかった。
あるとき、
「治るんでしょうか」
と聞いた。
医師は少し黙った。
「分かりません」
「治療する方法も?」
「原因が分からないので」
「そうですか」
診察室を出た。
治る、という言葉を使ったことが少し気になった。
透明になることを病気だと思っているのかもしれない。
困ることはある。
危険なこともある。
でも七分後には戻る。
痛みもない。
生活もできる。
仕事もしている。
病気なのかもしれない。
違うのかもしれない。
どちらにしても、翌日にはまた透明になる。
昼まで起こらないと、
まだだ、
と思うようになった。
夕方になっても来ないと少し気になる。
夜十一時を過ぎる。
歯を磨く。
風呂に入る。
寝る準備をする。
まだ透明になっていない。
そういう日は、眠る前に右手を見る。
今日はまだ残っている。
そう思う。
布団へ入る直前に指が消れる。
「ああ、今日も来た」
腕時計を押す。
透明なまま布団へ入る。
部屋を暗くする。
暗い中では、見えていても見えなくても大きな違いはない。
枕に頭が沈む。
布団の重みが身体にかかる。
目を閉じる。
七分後、音が鳴る。
暗いので、戻るところは見えない。
手を少し動かす。
それから眠る。
反対に、朝起きてすぐ透明になった日は、少しだけ肩の力が抜ける。
その日の一回は、もう終わった。
以前、一度だけ試したことがある。
朝七時に透明になり、七分後に戻った日だった。
その日の夜、私は机の前に座った。
腕時計を外す。
スマートフォンを置く。
23時50分。
手を見る。
何も起こらない。
23時59分。
日付が変わる。
0時。
1分。
2分。
私は待った。
もし「一日一回」が本当に日付で区切られているなら、もう一度始まってもいい。
何も起こらなかった。
0時半。
1時。
眠くなる。
結局、その夜は寝た。
翌日、透明になったのは16時19分だった。
そのとき私は、前日の実験を思い出した。
けれどノートには、
16:19
とだけ書いた。
予測できる規則を見つけることは、いつの間にかやめていた。
「一日一回」という言葉も、正確ではないのかもしれない。
二十四時間ごとなのか。
眠って起きることが関係しているのか。
何か別の周期があるのか。
私は知らない。
ただ、朝から夜まで生活していると、そのどこかで一度起きる。
一度終わると、その日の残りには来ない。
翌日になると、またどこかで始まる。
私に分かるのは、それだけだった。
予定表に、この七分は書かない。
「14:00 会議」
「18:30 買い物」
そのどこかに入ってくる。
いつ来るかは分からない。
けれど、来る。
一日の全部を変えるほどではない。
ただ、少しだけ余白を残す。
危険な作業をする前に、
今日はもう透明になったか、
と考える。
混んだ場所なら、始まったら端へ寄る。
誰かと歩いているなら、
「なった」
と伝える。
それだけでいい。
ある日、会社からの帰り道で透明になった。
夕方だった。
駅から家まで歩いていた。
腕時計を押す。
道の端を歩く。
前に一人、同じ方向へ進んでいる人がいた。
信号で追いついた。
私はその人の隣に立つ。
向こうには私が見えない。
青になる。
その人が歩き出す。
私も歩く。
横断歩道の途中で、自転車が向こうから来る。
前の人が少し避ける。
その人が空けたぶんだけ、私の通れる場所ができる。
私はその後ろを通った。
家の近くでタイマーが鳴った。
指が戻る。
腕。
袖。
靴。
そのとき、足元に影が伸びた。
夕方の道路に、自分の形があった。
私は立ち止まった。
透明になっているあいだ、影がどうなっているのかを考えたことがなかった。
手を上げる。
道路の影も上がる。
それだけ確認して、家へ帰った。
翌日も透明になった。
その翌日も。
一週間後も。
一か月後も。
開始時刻を書いていたノートは、途中から開かなくなった。
最後のページには、
7:42
16:03
11:28
20:51
13:17
と並んでいる。
その先は白紙だ。
七分だけは、腕時計が教えてくれる。
一日一回かどうかは、夜になると分かる。
時間を選べないことは、もう試す必要もない。
透明になる瞬間が来れば、腕時計を押す。
仕事中なら席にいる。
電車なら声をかける。
人の多い場所なら端へ寄る。
一人なら、そのまま過ごす。
七分後、音が鳴る。
指。
手。
腕。
服。
顔。
身体が戻る。
以前は、その瞬間に安心していた。
今は少し違う。
透明になっても身体はなくならないことを知っている。
床を踏んでいる。
物に触れる。
息をしている。
声も出る。
だから、戻る瞬間そのものより、そのあとに目へ入るものの方が気になる。
駅で、向こうから来る人が半歩避ける。
私も半歩避ける。
会議で話せば、誰かが顔を上げる。
コンビニで商品を渡せば、店員の手がこちらへ伸びる。
扉の前で鉢合わせれば、どちらかが止まる。
狭い道なら、二人とも少し身体を細くする。
誰かと並んで歩けば、二人分の幅ができる。
ある休日、また家で透明になった。
一人だった。
今度は鏡へ行かなかった。
ソファに座る。
テレビもつけない。
窓が少し開いている。
カーテンが動いている。
外から車の音がする。
冷蔵庫の低い音。
時計の秒針。
私は両手を膝に置いた。
見えない。
それでも、そこにある。
目を閉じた。
目を閉じると、自分が透明なのかどうか分からなくなる。
手を握る。
開く。
足の指を動かす。
息を吸う。
吐く。
何も起きない。
タイマーが鳴る。
目を開ける。
膝の上に手がある。
手の甲。
爪。
細い血管。
腕。
袖。
自分の身体だった。
鏡は見なかった。
少しして立ち上がる。
キッチンへ行く。
コップに水を入れる。
手で持つ。
もう、コップだけが空中に浮いているようには見えない。
手の中にある。
水を飲む。
コップを置く。
窓を閉める。
外の音が少し小さくなる。
その日は、もう透明にはならなかった。


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