妹の心のお腹には、二十八本の歯があった。
僕の名前だけは、噛まずに呑んだ。
妹がいなくなった朝も、妹はいつもの席に座っていた。
それは、みぞおちの少し上にあった。
傷口の左右に十四本ずつ、乳歯の色をした歯が並んでいた。
服を着ていれば分からない。
妹が五歳になった冬、そこから初めて声がした。
夕食の途中、父が味噌汁をこぼしたときだった。
「帰りたくない」
父の声だった。
父は立ち上がり、台所へ布巾を取りに行った。
母は聞こえなかったふりをして、妹の服のボタンをいちばん上まで留めた。
妹は冷めた味噌汁を飲んでいた。
底に沈んだ豆腐を、箸で何度もつまみ損ねていた。
夜、両親は妹を病院へ連れていった。
僕もついていった。
医者は聴診器を胸ではなく、その口に当てた。
二十八本の歯が、聴診器の丸い先を挟んだ。
「何を食べるんですか」
母が訊いた。
「言わなかったことです」
医者は聴診器についた唾液を拭いた。
「食べさせないと、どうなりますか」
「近くにあるものから食べます」
母は僕を見た。
父は診察室の壁に貼られた、内臓の図を見ていた。
妹だけが、自分のみぞおちを見下ろしていた。
帰りに、父はコンビニで大学ノートを買った。
家に着くと一枚破り、
《会社を辞めたい》
と書いた。
四つ折りにした紙を、母へ渡した。
父が妹の服を持ち上げた。
母が紙を入れた。
歯が紙を挟み、ゆっくりと噛んだ。
そのあいだ、父の手と母の手は一度もぶつからなかった。
翌朝、父はいつもどおりネクタイを締めて家を出た。
玄関で靴を履く父に、母は鞄を渡した。
父は受け取るとき、母の手を見た。
それから、うちでは日曜日の夜に紙を食べさせるようになった。
風呂を終えた妹が、食卓の椅子に座る。
父が服を持ち上げる。
母が紙を入れる。
食べ終わると、二人で歯を磨いた。
父が懐中電灯を持ち、母が子ども用の歯ブラシを動かした。
いちばん奥を磨くときだけ、父は母の肩へ手を置いた。
「もうちょっと右」
父が言う。
「こっち?」
母が訊く。
懐中電灯の丸い光が、妹の皮膚の上で小さく揺れた。
父の紙は短かった。
母の紙は、裏まで続くことがあった。
書いている途中でボールペンが止まると、妹の歯が鳴った。
母がまだ何も書いていない紙を握っているときも、歯は鳴った。
かち、かち、と鳴る間隔は、母の手首の脈と同じだった。
妹は母の手元を見なくなった。
代わりに、父が足を組み替える音や、母が息を吸う音を聞いていた。
音が変わると、自分で服の裾を持ち上げた。
次の日曜日まで、家の中でコップは一つも割れなかった。
父は母に醤油を取った。
母は父の脱いだ靴を揃えた。
朝、父のワイシャツに皺があると、母はアイロンをかけ直した。
父は出勤前に、妹の頭を一度撫でた。
食卓では、天気と、スーパーのポイントが二倍になる日の話をした。
妹だけが眠らなくなった。
夜中に台所へ行くと、暗い食卓に座っていることがあった。
目の前には、夕食がそのまま残っていた。
煮魚の皮が乾き、味噌汁には薄い膜が張っていた。
妹は茶碗の中のご飯粒を、箸で一つずつ皿へ移していた。
「何してんの」
僕が訊くと、妹は答えなかった。
皿の上には、白いご飯粒が円になるように並んでいた。
数え終わると、また茶碗へ戻した。
冷蔵庫のモーターが止まった。
妹のみぞおちから、紙を擦り合わせる音がした。
「お兄ちゃんは、ないの?」
妹が訊いた。
「何が」
「食べてほしいやつ」
「ない」
「一個も?」
「ない」
妹は少し考えた。
「じゃあ、まだ近くないんやな」
僕は意味を訊かなかった。
ある日曜日、父も母もノートを出さなかった。
妹は二人の顔を順番に見た。
それから、自分でパジャマをめくった。
「今日は、ないの?」
「ないよ」
母が言った。
父も新聞を開いたまま、うなずいた。
妹はしばらく待ってから、服を下ろした。
その夜、父がコップを割った。
母が玄関の鍵を投げた。
父は靴を履かずに外へ出た。
母は内側から鍵をかけた。
妹は布団の中で、みぞおちを両手で押さえていた。
皮膚の裏に、飲み込んだ紙の角がいくつも浮いていた。
僕が手を当てると、一枚だけ奥へ逃げた。
「救急車、呼ぶ?」
妹は首を振った。
玄関の向こうで、父が一度だけドアを蹴った。
次の日曜日から、妹は自分でノートを一枚ずつ破り、父と母の前へ置くようになった。
書き終わるまで、服をめくって待った。
父と母は、妹の頭を撫でた。
「この子は、よう分かってる」
母が言った。
父もうなずいた。
翌朝、流し台には同じ形のコップが二つ、伏せて置かれていた。
半年後、病院から葉書が届いた。
定期検査のお知らせだった。
父は仕事を休んだ。
母は妹に新しいワンピースを着せた。
病院までの電車で、父と母は並んで座った。
妹と僕は向かい側だった。
父が窓の外を指した。
母が同じ方向を見た。
川を渡り終えるまで、二人の会話は途切れなかった。
診察室で、妹は服をめくった。
医者は二十八本を一本ずつ数えた。
歯茎の色を見て、皮膚の下を指で押した。
妹の身体の中で、紙が重なって鳴った。
体重計の数字を前回のカルテと見比べたあと、医者は言った。
「口を閉じることもできます」
「今すぐですか」
父と母の声が重なった。
二人は互いを見た。
医者は妹の前へ椅子を寄せた。
「どうしたい?」
妹が口を開くより先に、母がワンピースの裾を直した。
「この子、注射も怖がるんです」
父は診察机に置かれた手術の説明書を裏返した。
「今は、うまく付き合えてますから」
医者はもう一度、妹に訊いた。
「閉じたい?」
妹は母を見た。
母は妹の髪を耳へかけた。
父は裏返した説明書の角を、指で揃えていた。
妹は首を横に振った。
父と母は同時に息を吐いた。
帰りに、二人は妹へアイスクリームを買った。
父がバニラを選び、母がスプーンですくった。
「今日は頑張ったから」
母が妹の口元へ運んだ。
妹は普通の口を閉じたまま、首を振った。
カップの中で、白いアイスが少しずつ沈んだ。
帰りの電車でも、父と母は隣に座った。
母は父の袖についた糸くずを取った。
父は空にならなかったアイスのカップを持っていた。
妹は向かい側から、二人の膝が触れているところを見ていた。
帰宅すると、父は病院の領収書をアイスの蓋の上へ置いた。
翌朝、流し台には洗われたカップだけが残っていた。
心のお腹は、食べたものを吐き始めた。
しばらくして、最初に出てきたのは、白くふやけた紙だった。
母が箸で広げた。
文字は消えていた。
代わりに、父の声がした。
「この家には、玄関しか好きな場所がない」
父は笑った。
「俺、そんなこと書いてへんで」
次の紙からは、母の声がした。
「病院の帰りだけ、二人で同じ電車に乗れる」
母は紙を裏返した。
何も書かれていなかった。
「お母さんも、こんなん書いてない」
紙を捨てようとした母の手を、父が止めた。
二人は濡れた紙を挟んだまま、しばらく互いの指を見ていた。
その夜から、妹の部屋で父と母の声がするようになった。
妹が眠っていても、みぞおちだけが喋った。
「玄関の角を一つ通り過ぎると、帰るのが十分遅くなる」
「この子が熱を出した夜、久しぶりに私の名前を呼んだ」
「傘を持って迎えに来た日は、雨が止まなければいいと思った」
父と母は妹の布団の横に座った。
父は大学ノートを膝に置いた。
《黙れ》
一枚。
母がその下へ書いた。
《忘れて》
一枚。
父がもう一枚破った。
《お前の声じゃない》
紙を入れるたび、口は少しだけ大きくなった。
両端が肋骨の下へ近づいた。
「痛い」
妹が言った。
母は手を止めた。
「今の、誰の声?」
妹はみぞおちを見下ろした。
口は閉じていた。
父も母も、妹の返事を待っていた。
「分からん」
妹が答えると、父は次の紙を折った。
母は歯ブラシを取りに行った。
その夜、妹が僕の部屋に来た。
病院でもらった手術の説明書を持っていた。
父が裏返した紙だった。
点線で、人の腹と切る場所が描かれていた。
妹は説明書を僕の机に置いた。
それから引き出しを開け、裁ちばさみを取った。
「病院、行く?」
妹は首を振った。
「お父さんとお母さんに言う?」
また首を振った。
妹は裁ちばさみを僕へ渡し、パジャマをめくった。
心のお腹は、眠っているように閉じていた。
左右の歯には、磨き残した紙が白くこびりついていた。
「切るで」
妹はうなずいた。
「痛かったら言って」
「誰の声で?」
僕は答えなかった。
説明書の点線を見た。
図の口は横向きだった。
妹の口は縦向きだった。
僕は説明書を裏返した。
刃先を口の端へ入れた。
二十八本の歯は抵抗しなかった。
布を裁つような音がした。
血は出なかった。
中には、濡れた紙が隙間なく詰まっていた。
僕たちは床に座り、一枚ずつ剥がした。
父の字。
母の字。
文字を覚える前の妹が描いた丸。
何も書かれていない紙。
病院の領収書。
アイスクリームの蓋。
紙は重なり合い、胃や肝臓に似た形をつくっていた。
剥がすたび、妹の肩が少しずつ下がった。
全部出したあとも、奥に一枚だけ残っていた。
小さく折られた紙だった。
妹が自分で取り出した。
開くと、僕の名前だけが書かれていた。
妹の字だった。
その紙にだけ、歯形がなかった。
妹は僕の顔を見なかった。
僕も、いつ書いたのかとは訊かなかった。
紙を畳み、机の横に掛けていた制服のポケットへ入れた。
妹がパジャマを下ろすと、みぞおちには口も傷も残っていなかった。
床に広がった紙を、妹と二人でゴミ袋へ入れた。
袋の口を結ぶと、中から父の咳がした。
妹は袋を二重にした。
翌朝、妹はいつもの席に座っていた。
髪は寝癖で片側だけ膨らみ、昨日と同じパジャマを着ていた。
母は三人分の皿を並べた。
父の前。
母の前。
僕の前。
妹の前だけ、何も置かなかった。
「お皿」
僕が言った。
母は食器棚を見た。
「三枚あるやん」
妹は両手を膝に置いていた。
父は新聞を開いた。
妹の頭の向こうで、紙面だけが揺れていた。
僕は妹の名前を呼んだ。
父が新聞から顔を上げた。
「誰の?」
母は卵焼きを三つに分けていた。
大きさが揃うまで、端を少しずつ切った。
妹はそこにいた。
頬に枕の跡が残っていた。
裸足の爪先が、椅子の下で床に届かず揺れていた。
父も母も、一度も妹のほうを見なかった。
僕が制服のポケットへ手を入れると、折り畳んだ紙の角が指先に刺さった。
開かなくても、そこに僕の名前があると分かった。
「食べへんの?」
母が僕に訊いた。
「いらん」
そう答えたとき、シャツの下で歯が鳴った。
かち。
かち。
みぞおちの少し上だった。
妹が初めて、僕のほうを見た。
母は音を聞くと、食卓の引き出しから大学ノートを出した。
父が立ち上がり、僕のシャツを持ち上げた。
母がノートから一枚破った。
二人の手は、やはり一度もぶつからなかった。


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