1センチ先の紫音

信号が青になった。

誰も渡らなかった。

正確には、みんな渡っていた。

スーツの男も、日傘を差した女も、前かごから葱を出した自転車も、私の横を抜け、向こう側へ進んでいった。

私だけが、その場に残っていた。

足元で光が揺れていた。

八月の午後だった。

道路は白く、ビルの窓は空を返し、向かいのドラッグストアの看板は、縁から少しずつ消えていた。

手を額にかざした。

そのとき、靴底が地面から離れた。

一センチ。

二センチ。

浮いたのではなかった。

地面の方が遠くなった。

タイヤがアスファルトを擦る音が細くなった。

横断歩道の電子音が鳴った。

ぴよ。

少しして、

ぴよ。

二度目は遠かった。

髪の先が持ち上がった。

膝の下で光が揺れた。

服は濡れていなかった。

靴の中にも、何も入ってこない。

腰。

胸。

首。

息を吸った。

吸えた。

向こう側の歩道を歩く人たちが、薄い膜の向こうで揺れていた。

頭の上を何かが通り過ぎた。

水面だった。

水の中は静かだった。

完全な無音ではなかった。

街の音はまだあった。

ただ、こちらへ来るまでに時間がかかった。

誰かの口が動く。

しばらくして声が来る。

自転車が曲がる。

そのあとでベルが鳴る。

信号が変わる。

電子音だけが遅れて残る。

私はそこにいた。

どれくらいいたのかは分からなかった。

信号はもう赤になっていた。

息は苦しくなかった。

足を動かすと、身体が少し前へ進んだ。

道路の白線が下の方へ沈んでいった。

上には人がいた。

足だけが見えた。

みんな、歩いていた。

私は目を閉じた。

それから、ときどき沈むようになった。

朝の電車。

コピー機の前。

スーパー。

喫茶店。

自宅の台所。

前触れはほとんどなかった。

音の角がなくなる。

そのあと、足元の距離が少し伸びる。

それだけだった。

ある朝、電車の中で沈んだ。

つり革が上へ遠ざかっていった。

広告の文字が揺れた。

向かいに座っていた少年が、ゲーム機から顔を上げた。

目が合った。

私は少しだけ手を上げた。

少年は何もしなかった。

次の駅に着いた。

ドアが開いた。

人が降りた。

気づくと私は座席に座っていた。

隣の席に、濡れた跡はなかった。

深くなるにつれて、音が変わった。

街の音が小さくなり、その奥から別の音が出てきた。

食器の触れる音。

引き戸。

ホースの水が止まる音。

遠くで誰かが名前を呼ぶ声。

どこから聞こえているのか、分からなかった。

目を閉じた。

夕方だった。

景色はなかった。

湿った土の匂いだけがした。

蝉が鳴いていた。

遠くの家で、夕飯の支度をしている。

まだ帰らなくてもいい。

もうすぐ帰らなければならない。

その二つが、同じところにあった。

目を開けると、水しかなかった。

別の日には、植物があった。

水草ではなかった。

駅前の植え込み。

部屋の鉢。

歩道のひび。

河川敷。

知らない庭の葉。

全部が同じ場所から生えていた。

季節も違った。

新しい葉の隣で、黒くなった葉が落ちた。

その下から、小さな芽が出ていた。

私はそのあいだを歩いた。

一枚の葉が腕に触れた。

しばらくして、右手の指先が緑色になっていた。

爪の横から始まっていた。

薄い緑だった。

指を開いた。

閉じた。

もう一度開いた。

色は少し、手のひら側へ伸びていた。

近くの葉も同じ色をしていた。

風はなかった。

水も動いていなかった。

私は手を振った。

緑は消えた。

しばらくそこに立っていた。

足首の輪郭だけが、葉の影に混ざっていた。

白い人

さらに深い場所で、それを見た。

遠くに立っていた。

周りには何もなかった。

床もない。

海底もない。

建物もない。

薄い光の中に、その人だけがいた。

白い服を着ているように見えた。

近づけば顔が見えると思った。

一歩進んだ。

まだ見えなかった。

もう一歩。

白い人は動かなかった。

私は目を細めた。

次の瞬間、自分が何を見ようとしていたのかだけが残った。

顔はなかった。

いや。

見たのかもしれなかった。

思い出せなかった。

私は立ち止まった。

白い人も、そこにいた。

長いあいだ、何も起きなかった。

光だけが少し強くなった。

私は目を閉じた。

開けると、自宅の浴室にいた。

服を着たまま、乾いた床に座っていた。

換気扇が回っていた。

次に沈んだとき、男がいた。

黒い髪だった。

紺色にも灰色にも見えるシャツを着ていた。

細い腕。

知らない人だった。

男はこちらを見た。

私も見た。

しばらくして、男が右手を上げかけた。

途中でやめた。

私も何もしなかった。

上の方を何かが横切った。

電車だった。

車輪の音だけが、遅れて落ちてきた。

男が言った。

「ここ、静かですね」

声が聞こえた。

私は耳の奥に指を入れた。

何もなかった。

「聞こえます」

「何がですか」

「あなたの声」

男は喉に触れた。

口元が動いた。

笑ったらしかった。

音は聞こえなかった。

「あなたも?」

「何がですか」

「ここに来るの」

男は上を見た。

「分かりません」

少しして歩き始めた。

私も歩いた。

どちらも行き先を決めなかった。

遠くに、青でも黒でもない暗い場所があった。

男がそちらを見た。

私は男を見た。

男は何も言わなかった。

私たちは近づかなかった。

何度か男に会った。

毎回ではなかった。

デパートの地下。

公園の下。

終電後のホーム。

知らないマンションの廊下に似た場所。

壁があった。

ドアを開けると、水しかなかった。

階段は途中から天井へ伸びていた。

横断歩道だけがあり、道路はなかった。

男とは、ほとんど話さなかった。

ある日は、上から黄色い光が降りていた。

明るかった。

男の顔が半分消えていた。

「見えません」

と言った。

「何が」

「あなたが」

男は自分の手を見た。

「いますよ」

私は頷いた。

その日は、それ以上話さなかった。

男がいない日もあった。

深く沈んだ。

街の形がなくなるところまで。

自分の脈が聞こえた。

唾を飲み込む音。

指を曲げる音。

肺が膨らむ音。

暗いところで、何かが動いていた。

近づくと消えた。

離れると戻ってきた。

テーブルの角。

道路の白線。

開かなかった画面。

誰かの口。

手。

笑う前の息。

一つずつ現れた。

形が見えたと思うと、次には別のものになった。

誰のものなのか分からなかった。

自分のものだった気もした。

違う気もした。

私は触らなかった。

しばらくすると、全部見えなくなった。

音だけが残った。

さらに沈んだ。

遠くに赤い光があった。

近づくと信号機だった。

一本だけ立っていた。

道路はなかった。

交差点もなかった。

赤だった。

私は止まった。

何も来なかった。

長いあいだ、赤だった。

胸の奥が熱くなった。

心臓の音が大きくなった。

喉の奥が狭くなった。

何か言おうとした。

声は出なかった。

小さな泡が一つ出た。

続いて二つ。

泡は赤い光の前を通った。

一瞬だけ、燃えているように見えた。

信号が青になった。

私は進んだ。

その向こうに男がいた。

「どこにいたんですか」

男は少し考えた。

「上です」

「上?」

「普通に」

私は男を見た。

「ここに来ない日もあるんですね」

「毎日来るんですか」

答えなかった。

男は前を向いたまま歩いた。

しばらくして言った。

「戻りたくない日があります?」

水が少し揺れた。

「ここにいる方が楽な日はあります」

男は頷いた。

「僕もです」

それだけだった。

男の足元に影があった。

水の中なのに、影があった。

薄い影。

その横に、もう一つあった。

私のものだった。

二つの影は少し重なり、

また離れた。

目を開けると、交差点だった。

最初の場所だった。

夕方になっていた。

信号は赤。

ビルの窓に西日が残っていた。

車。

自転車。

人の話し声。

スマートフォンから漏れる音。

ブレーキ。

靴音。

誰かの咳。

全部聞こえた。

信号が青になった。

人が歩き始めた。

私も歩いた。

向こうから男が来た。

水の中にいた男に似ていた。

黒い髪。

薄いシャツ。

近づくにつれて、少し違って見えた。

目元が違う気がした。

背も少し高かった。

それでも、すれ違う瞬間に相手がこちらを見た。

私も見た。

何も言わなかった。

そのまま歩いた。

横断歩道を渡りきる少し前、

反対側の歩道に白いものが見えた。

人が立っていた。

白いシャツだった。

夕日のせいで、顔が見えなかった。

信号柱の影に半分隠れていた。

私は足を止めた。

後ろから来た人が、私の肩を避けた。

もう一度見る。

白い人はまだいた。

男なのか女なのか分からなかった。

見たことがある気がした。

知らない気もした。

信号が点滅した。

白い人の顔に光が当たった。

私は目を細めた。

次に見たとき、

そこには誰もいなかった。

横断歩道の電子音が鳴った。

ぴよ。

少しして、

ぴよ。

私は歩道へ上がった。

振り返らなかった。

車が曲がった。

人が渡った。

誰かの笑い声が、すぐ近くを通り過ぎた。

夕日の残った窓が、

ひとつずつ色を失っていった。

足元は乾いていた。

髪も動かなかった。

信号は、もう赤だった。

二つ目の音だけが、

まだ遠かった。

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