机の上に、一冊のノートが置かれている。開いてみると、何も書かれていない。
最初から書くことがなかったのかもしれない。
何かを書こうとして、やめたのかもしれない。
あるいは、書きたいことがあったのに、書くことができなかったのかもしれない。
けれど、紙はその違いを教えてくれない。
何も書かれていないことは、何も考えていなかったことを意味しない。
沈黙していることも、話したいことがなかったという証拠にはならない。
何かをしなかったのか。
それとも、できなかったのか。
外側から見れば同じ結果でも、そこに至るまでに何があったのかは異なる。
ジョージ・オーウェルの『1984年』を読むと、私は、その違いを確かめられなくなる世界について考える。
「この本の世界だけは絶対に住みたくない」と聞かれたら、私はこの作品を選ぶ。
1949年に発表された『1984年』では、党が人々の生活を監視し、過去の記録を書き換え、言葉や思想にまで介入している。
人々は貧困や暴力、処罰の恐怖にさらされ、私的な行動にも危険が伴う。
それだけでも、住みたいとは思えない。
しかし、私がとりわけ恐ろしいと感じるのは、自由や記憶を奪われることだけではない。
何かを考えたこと、覚えていたこと、書こうとしたことを、後から確かめる手段まで失われていく可能性だ。
書き換えられる過去
主人公ウィンストン・スミスは、真理省の記録局で働いている。
彼の仕事は、過去の新聞や資料を修正し、党の現在の主張と矛盾しないようにすることだ。
予測が外れれば、最初から正しかったことになるように記録を変える。
政治的な立場が変われば、過去の発言や出来事も書き換える。
修正前の資料は廃棄され、新しい記録が残される。
こうして、記録の上では、党は間違いを犯さなかったことになる。
だが、記録を変えても、実際に起きた出来事が変わるわけではない。
失敗した予測は、紙の上で修正されたからといって成功しない。
変えられるのは、その失敗を確かめるための証拠だ。
私たちは日常の中で、記憶と記録を照らし合わせながら生活している。
昨日どこへ行ったのか思い出せなければ、写真を見返す。
誰かとの約束が曖昧なら、メッセージを読み返す。
以前に書いた文章があれば、そのとき何を考えていたのかを知る手掛かりになる。
もちろん、記録が常に正しいわけではない。
写真には写らなかったものがあり、文章には書かれなかった事情がある。
誰かの証言も、その人が見聞きした範囲や記憶によって変わる。
一つの記録から、出来事のすべてを知ることはできない。
それでも、異なる資料や証言が存在すれば、比較することができる。
記憶と写真が食い違ったとき、どちらが間違っているのかを考えられる。
二人の証言が一致しなければ、その違いがどこから生じたのかを尋ねられる。
一致しないことは、必ずしも悪いことではない。
食い違いがあるからこそ、自分の思い込みに気づくこともある。
『1984年』では、その比較の可能性が組織的に狭められている。
昨日まで存在した資料を探しても、修正後の記録しか見つからない。
誰かに尋ねようとしても、相手が本当のことを話せるとは限らない。
自分の記憶が正しいと思っていても、それを裏づけるものが残っていない。
そこで人は、自分の記憶を疑うことになる。
しかし、記憶を疑うこと自体が悪いわけではない。
むしろ、間違っていたら考え直せることは大切だと思う。
心理学では、出来事の後から与えられた誤った情報が、その出来事についての記憶に影響する現象が研究されている。
誤情報効果と呼ばれるもので、記憶が過去をそのまま再生する完全な記録装置ではないことを示している。
だからといって、人の記憶がすべて信用できないわけでも、他者が自由に書き換えられるわけでもない。
重要なのは、確信していることにも間違いがありうるという点だ。
私にも思い違いはある。
確かに見たと思っていたものを、後から別の形で理解することもある。
だからこそ、異なる証言や記録に触れる必要がある。
ところが、その記録も同じ権力によって操作されていたら、何を根拠に考え直せばよいのだろう。
『1984年』で恐ろしいのは、権力が過去の出来事そのものを消してしまうことではない。
過去に何があったのかを確かめる手段を支配していることだ。
ある人が確かに存在していたとしても、名前が記録から取り除かれ、その人を知る人々が沈黙するようになれば、その存在を社会の中で確かめることは難しくなる。
存在したことと、存在したと証明できることは同じではない。
何かが失われることと、失われたことを認められなくなることも違う。
後者では、何がなくなったのかについて話すことさえ難しくなる。
日記を書くという行為
ウィンストンは、テレスクリーンの視界から外れる場所を利用し、ひそかに日記を書き始める。
それは、党の統制に反する危険な行為だ。
書いたものが誰かに届く保証はない。
未来まで残る保証もない。
日記を書いたからといって、真理省で改変された記録が元に戻るわけでもない。
それでも、彼は紙に言葉を残そうとする。
私はこの場面を、単なる抵抗の象徴としてだけ捉えたくない。
頭の中にあったものを、自分の身体の外へ置く行為でもあるように思うからだ。
ペンを持ち、紙に触れ、文字を書きつける。
昨日考えたことを、明日も同じように覚えているとは限らない。
しかし、書いた言葉が残っていれば、後から読み返すことができる。
日記に書けば正しくなるわけではない。
思い違いをしたまま書くこともあれば、そのときには気づかなかった偏りが文章に含まれていることもある。
それでも、書かれた言葉は、後から検討できる対象になる。
昨日の自分が何を考えていたのか。
今の自分と何が違うのか。どのように考えが変わったのか。
すべてを正確に知ることはできなくても、比較するための手掛かりが残る。
ここで、ウィンストンの仕事と日記を書く行為は対照的に見える。
仕事では、過去に残された記録を現在の権力に従わせる。
日記では、現在の自分が考えていることを、未来に向けて残そうとする。
どちらも文字を扱う行為だ。
しかし、一方では記録を変更して食い違いを消し、もう一方では、自分の経験を独立した記録として残そうとしている。
もっとも、個人的な日記が必ず真実で、公的な資料が必ず虚偽であるわけではない。
重要なのは、異なる記録が存在し、それらを比較し、誤りを指摘できるかどうかだ。
ウィンストンの日記は、すべてを正しく保存するための装置ではない。
それでも、党の承認を得ずに自分の言葉を書き始めるという行為には意味がある。
ただし、記録には危険もある。
自分の考えを紙に残せば、誰かに見つかるかもしれない。
記憶を守るために書いたものが、逆に自分を危険にさらすこともある。
書かなければ消えてしまうかもしれない。
書けば発見されるかもしれない。
その二つの可能性の間で、人は判断しなければならなくなる。
私は、ノートを開くという行為が、それほど切迫した選択になる社会には住みたくない。
まだ書かれていないもの
人は必ずしも、重要な出来事を記録するためにノートを開くわけではない。
昨日の天気を書くこともある。
誰かが言った一言を残すこともある。
買い物の予定や、思いついた言葉を書きつける日もあるだろう。
何も書かずに閉じることもある。
書くかどうかを決められること自体が、ノートを使う自由の一部だと思う。
しかし、監視される社会では、その判断に別の条件が入り込む。
何かを書こうとしたとき、誰かに見つかることを考える。
書いた内容が疑われるかもしれないと思う。
ペンを持ったまま、手を止める。
そして、何も書かずにノートを閉じる。
紙には何も残らない。
誰かが後からノートを開いても、その人が何を書こうとしたのかはわからない。
すでに書かれた文章が消された場合、消された痕跡が残ることもある。
破れた紙や書き換えられた文字、別の場所に保存された原本が見つかるかもしれない。
しかし、最初から書かれなかった文章には、修正前の原本がない。
本人が覚えていることもあれば、別の場所に手掛かりが残ることもあるだろう。
それでも、書くことも話すことも危険な状況では、その手掛かりを残すことさえ難しくなる。
記録を消すことと、記録する前に行為を断念することは違う。
『1984年』の監視は、すでに行われた行動を発見して処罰するだけのものではない。
テレスクリーンがあり、いつ見られているのかわからない。
身近な人間が密告する可能性もある。表情や態度が疑われるかもしれない。
そのため、人は何かをする前から、自分の行動を制限することがある。
言おうとした言葉を飲み込む。
会いたかった人に会いに行かない。
疑問を持っても尋ねない。
ノートを開いても、何も書かない。
監視によって人々の表現や行動が萎縮する可能性は、現実の社会でも研究されている。
ただし、その影響は状況や人によって異なり、すべての人が同じように行動を変えるわけではない。
ここで重要なのは、誰かに禁止される前に、人が自分から行動をやめることがあるという点だ。
もちろん、何もしないこと自体が不自由を意味するわけではない。
私たちは普段から、事情に合わせて予定を変え、他者に配慮して言葉を選ぶ。
何かをしないことを、自分で選ぶ場合もある。
だからこそ、何もしなかったことと、何もできなかったことを区別したい。
同じように黙っている人でも、話す必要を感じていない人と、話すことが危険だから黙っている人がいる。
外側からは同じに見える。
しかし、その沈黙が生まれた理由は違う。
人が行動しないことを、その人の意思だけで説明することはできない。
何を望んでいたのかだけでなく、どのような選択肢が残されていたのかを考える必要がある。
『1984年』では、その選択肢が狭められ、何を選べなかったのかを後から確かめることも難しくなる。
誰にも見せない時間
監視は、人と人との関係にも影響する。
誰かに話したことが密告されるかもしれない。親しい相手でも、本当のことを話せるとは限らない。
相手が黙っているのは、自分に賛成していないからだろうか。それとも、同じように恐れているからだろうか。
その違いを確かめるために話しかけることさえ、危険になる。
人に囲まれていても、自分の経験を誰とも共有できないことがある。
私は、そこに別の種類の孤立を感じる。
人が住む場所は、壁や屋根だけでできているわけではない。
そこで安心して眠れること。誰かと話せること。
一人で過ごせること。何もしない時間を、自分の意思で持てること。
そうした条件も、生活する場所を形づくっている。
『1984年』について考えるとき、私は作中の重大な事件だけでなく、その合間にある時間を想像する。
仕事を終えて部屋へ戻る。
椅子に座る。
机の上に置かれたノートを見る。
今日は何も書きたくないと思う。
そのとき、何も書かないという判断を、本当に自分のものとして持てるだろうか。
誰かに見られているかもしれないと思いながら、どれほど休めるだろう。
私的な領域とは、単に他者から姿が見えない場所ではないのだと思う。
まだ言葉になっていない考えを、そのままにしておけること。
途中でやめたことについて、理由を説明しなくてもよいこと。
誰にも見せない文章を書けること。
そして、何も書かないまま紙を閉じられること。
そうした時間を持てるかどうかも、住む場所の条件になる。
言葉まで失われたら
『1984年』では、すでに書かれた記録だけでなく、言葉そのものも統制の対象になる。
作中に登場するニュースピークは、語彙を減らし、党が認めない考えを表現することを困難にするために整備される言語だ。
もちろん、人間の思考がすべて言葉によって決まるわけではない。
何かがおかしいと感じても、その理由を説明できないことはある。
言葉になる前の感情や身体の反応もある。
ある言葉を知らないからといって、それに関わる経験が不可能になるわけではない。
それでも、何を感じたのかを誰かに伝え、その理由を考え、相手と意見を交わすためには、言葉が重要な役割を果たす。
記録が消されれば、過去に何があったのかを確かめにくくなる。
言葉が制限されれば、確かめた結果を伝えることも難しくなる。
監視が加われば、伝えること自体を断念するかもしれない。
これらは別々の問題に見えるが、人が自分の経験を理解し、他者と共有する過程でつながっている。
そして作中には、二重思考という概念も登場する。
矛盾する認識を同時に受け入れ、必要に応じて忘れたり思い出したりする。
党の主張に合わせて、自分の認識を扱うことが求められる。
これは、単に嘘をつくこととは違う。
嘘をつく人は、自分が事実と異なることを言っていると知っている場合がある。
しかし、二重思考では、その区別自体が不安定になる。
自分の判断を疑うことは必要だと思う。
だが、疑ってよい対象が最初から決められていたら、それは自由な検証ではない。
党は疑ってはならない。
しかし、自分の記憶は疑わなければならない。
そこでは、何が正しいのかを確かめて考え直すのではなく、正しいとされるものへ自分の理解を合わせることになる。
自分で考えを変えることと、考えを変えさせられることは違う。
私は、その違いを確かめられなくなることが恐ろしい。
幸福なら、自由は必要ないのか
ここで、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を思い出す。
この作品では、人々の役割や欲望が条件づけられ、娯楽や快楽などによって社会の安定が維持されている。
『1984年』では恐怖や監視による統制が強く印象に残るのに対し、『すばらしい新世界』では、人々が与えられた生活に満足するよう形成されている。
もちろん、二つの社会を恐怖と快楽だけで完全に説明できるわけではない。
それでも、この違いは興味深い。
もし、衣食住が保障され、不安が少なく、自分に与えられた生活に満足できる社会があったとしたら。
そこで暮らす人が本当に幸福を感じているなら、外側から不幸だと決めつけることはできないだろう。
私たちの欲望や価値観も、育った環境や経験、周囲の社会から影響を受けている。
何にも影響されずに、自分だけの意思で選択することが自由なのだとしたら、そのような自由は現実にどれほど存在するのだろう。
私は、自由をそのようなものとして考えているわけではない。
今の生活に満足していても、ある日その満足を疑うことができる。
別の生き方を知って、自分の望みが変わることもある。
以前は正しいと思っていたことを、後から考え直すこともある。
その変化が許されるかどうかは、生活の快適さだけではわからない。
幸福であることと、その幸福を疑えることは、同じではない。
『1984年』では、そうした問いを持つこと自体が危険になる。
私が住みたくないと感じる理由は、ここへ戻ってくる。
本を閉じられない人たち
物語の世界には、実際に入ることができない。
それでも、私たちは本を読みながら、そこに暮らす自分を想像する。
朝起きたら、どこへ行くだろう。
誰かに会いたくなったら、その人のところへ行けるだろうか。
夜、部屋へ戻ったとき、安心して眠れるだろうか。
物語に書かれているのは、必ずしも生活のすべてではない。
登場人物が何を食べ、部屋のどこに物を置き、眠る前に何を考えたのかまで説明されているとは限らない。
それでも、読者は書かれた断片から、一日の生活を想像できる。
物語への没入に関する研究では、読者が架空の出来事に注意を向け、登場人物の状況や感情を想像する経験が検討されている。
しかし、物語に引き込まれることと、その世界に住みたいと思うことは別だ。
読者である私は、『1984年』を読み終えたら本を閉じることができる。
途中で読むのをやめることもできる。
机から離れ、飲み物を用意し、窓の外を見ることもできる。
けれど、その世界に暮らす人たちは、物語から離れることができない。
恐ろしい出来事が終わっても、生活は続く。
翌朝になれば、また同じ社会の中で目を覚ます。
そこに住むことを考えるなら、特別な事件だけでなく、何も起きていないように見える時間まで想像する必要がある。
椅子に座っている時間。
何かを食べている時間。
書くことのないノートを前にしている時間。
その時間を、自分のものとして持てるのか。
私は、そこが気になる。
空白が残る場所
冒頭のノートへ戻りたい。
机の上に置かれた一冊のノート。開いても、何も書かれていない。
そこには、書くことがなかった人の時間があるのかもしれない。
別のことを始めた人の時間があるのかもしれない。
書きたいことがあったのに、書くことを恐れていた人の時間があるのかもしれない。
紙は、その違いを教えてくれない。
『1984年』では、真理省がすでに存在する記録を書き換える。
監視は、人々が何かを記録する前に行動を控える状況を生み出す。
ニュースピークは、考えを表現する言葉を狭めようとする。
二重思考は、自分の認識と権力の主張との食い違いを扱う方法にまで介入する。
それぞれ異なる仕組みだが、すべてが記憶し、表現し、確かめるための条件に影響している。
この小説の恐ろしさは、何かが奪われることだけではない。
何かが奪われたと知るための手掛かりまで失われていくことにある。
私は、自分の考えが常に正しいと信じていたいわけではない。
間違っていたら、そのことを知りたい。
昨日書いた文章を今日読み返し、今は違うと思ってもよい。
誰かと記憶が食い違ったら、その違いについて話したい。
確かめられないことがあれば、確かめられないものとして残しておいてもよい。
何も書かないことと、書くことができないことは違う。
自分で考えを変えることと、考えを変えさせられることも違う。
その違いを、完全ではなくても確かめようとできる場所に住みたい。
『1984年』の世界だけは、絶対に住みたくない。
そこでは、自分が何を失ったのかを知ろうとしたとき、そのために必要な記憶も、記録も、言葉も、他者との関係も、すでに失われているかもしれない。
そして、いつか机の上に何も書かれていないノートが残ったとしても、そこに何も書かなかったのが本当に自分の意思だったのか、確かめられないかもしれない。
本文で取り上げた作品
『1984年』
原題: Nineteen Eighty-Four
著者: ジョージ・オーウェル(George Orwell)
発表年: 1949年
発表国: イギリス
初版出版社: Secker & Warburg
ジャンル: ディストピア小説/政治小説/SF
あらすじ
党による監視と思想統制が行き渡った国家、オセアニア。真理省の記録局で働くウィンストン・スミスは、過去の新聞や文書を書き換え、党の主張に合うよう歴史を修正する仕事に従事している。
人々の行動はテレスクリーンによって監視され、党への疑念さえ危険なものとなる社会で、ウィンストンはひそかに日記を書き始める。
本記事との関係
監視、記録の改変、ニュースピーク、二重思考を通して、個人が自分の経験を記憶し、表現し、確かめるための条件が失われていく世界を描く。本記事の中心となる作品。
作品情報: https://www.orwellfoundation.com/the-orwell-foundation/orwell/books-by-orwell/nineteen-eighty-four/
『すばらしい新世界』
原題: Brave New World
著者: オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)
発表年: 1932年
発表国: イギリス
初版出版社: Chatto & Windus
ジャンル: ディストピア小説/SF/社会風刺
あらすじ
人間が人工的に生み出され、階級ごとに役割を与えられる未来社会。人々は幼い頃からの条件づけによって社会の秩序に適応し、娯楽や薬物「ソーマ」などによって不満や苦痛を抑えられている。
安定と幸福が重視される一方で、個人が自由に生き方を選ぶ可能性は制限されている。
本記事との関係
『1984年』の恐怖や監視による統制とは異なり、人々の欲望や満足そのものが社会によって形成される世界を描く。幸福であることと、自分の生き方を問い直せることの違いを考えるための比較作品。
初版本の書誌情報: https://www.themorgan.org/printed-books/84938
参考文献・資料
- George Orwell, Nineteen Eighty-Four(1949). The Orwell Foundation. https://www.orwellfoundation.com/the-orwell-foundation/orwell/books-by-orwell/nineteen-eighty-four/
- Aldous Huxley, Brave New World(1932).
- Elizabeth F. Loftus, “Planting Misinformation in the Human Mind: A 30-Year Investigation of the Malleability of Memory,” Learning & Memory, 12(4), 361–366(2005). https://doi.org/10.1101/lm.94705
- Elizabeth Stoycheff, “Under Surveillance: Examining Facebook’s Spiral of Silence Effects in the Wake of NSA Internet Monitoring,” Journalism & Mass Communication Quarterly, 93(2), 296–311(2016). https://doi.org/10.1177/1077699016630255
- Melanie C. Green and Timothy C. Brock, “The Role of Transportation in the Persuasiveness of Public Narratives,” Journal of Personality and Social Psychology, 79(5), 701–721(2000). https://doi.org/10.1037/0022-3514.79.5.701
「この本の世界だけは絶対に住みたくない…」と思う作品は?理由も教えて。


コメント