ポケットの中で、何かが割れる音がした。
取り出した青い石には、ひび一つなかった。
代わりに、駅前の薬局から「薬」の字が消えていた。
朝、家を出るときには、確かに薬局だった。
看板には「駅前薬局」と書かれていたし、ガラス戸には営業時間と処方箋受付の案内が貼られていた。
昼前に通りかかると、「駅前 局」になっていた。
古い看板だから、文字が剥がれたのだろうと思った。
ところが夕方、同じ場所を通ると、看板は「駅前雨局」に変わっていた。
店先には透明な袋が並んでいた。
一袋、百二十円。
袋の中では雨が降っていた。
細かな水滴が絶えず上から下へ落ちているのに、底には何も溜まっていない。
一つ持ち上げた。
袋の表面は乾いていた。振っても水の音はしなかった。
「それ、昨日のですよ」
店員が言った。
「今日のは、まだ降ってないんです」
私は袋を棚に戻した。
店の奥には、以前と同じように薬の箱が並んでいた。ただ、どの箱にも商品名がなかった。
店員は気にする様子もなく、客から処方箋を受け取っていた。
帰り際、看板を撮影した。
シャッターを切った瞬間、ポケットの中で小さな音がした。
硬いもの同士が触れ合うような、乾いた音だった。
自宅でSDカードを読み込むと、撮ったはずの写真が見当たらなかった。
撮影日時で並べ替えても、薬局の写真だけがない。
代わりに、見覚えのないフォルダが増えていた。
「人物」
作成日時は、今日の午後四時三十七分。
中には写真が三枚あった。
一枚目には、見知らぬ女が写っていた。
公園のベンチに座り、こちらを見ている。薄い灰色の服を着て、膝の上に両手を重ねていた。
二枚目も同じ女だった。
今度は後ろ姿で、髪が濡れていた。足元には水たまりがあるのに、空は晴れていた。
三枚目には誰もいなかった。
ベンチの上に、青い石が置かれていた。
私はポケットを探った。
石はいつもの場所にあった。
以前、海辺で拾ったものだ。
いつだったかは覚えていない。海の名前も、一緒にいた人がいたのかさえ思い出せなかった。
それでも、石を拾ったことだけは覚えていた。
光に透かすと、内部に細い線が見えた。
表面に傷はない。角度を変えても、線は石の中に留まっていた。
机に置くと、かすかな音がした。
ガラスを爪で弾いたような、短い音だった。
もう一度持ち上げてみた。
今度は何も聞こえなかった。
翌日、写真の公園を見つけた。
探していたわけではない。いつもの道を歩いていると、見覚えのあるベンチがあった。
背もたれの右端に、三角形の傷がついていた。
女が座っていた。
写真と同じ灰色の服を着ていた。髪は乾いていて、膝の上には何もなかった。
少し離れたところで立ち止まった。
何を尋ねればいいのかわからなかった。
女はこちらを見た。
「まだ持っていますか」
私が答えずにいると、女はベンチの隣を手で示した。
腰を下ろすと、木の板がわずかに沈んだ。
「昨日、撮りましたよね」
「何をですか」
「私を」
「撮った覚えはありません」
女は少し考えた。
「写真は?」
私はカメラを持ってきていなかった。スマートフォンにも写真は移していない。
そう伝えると、女は私のポケットを見た。
「じゃあ、まだ入っているんですね」
私はSDカードを取り出した。
女の身体が、わずかに後ろへ動いた。
「出さないでください」
私は手を止めた。
女は自分の胸元に手を当てた。
指先に引かれて、灰色の生地が伸びた。
「昨日から、ここがいっぱいなんです」
手を離すと、服の下に四角い輪郭が浮かんでいた。
小さなカードほどの大きさだった。
女は私の手を見ていた。
私はSDカードを握り直し、ポケットに戻した。
遠くで子どもの声が聞こえた。
「昨日、雨は降りましたか」
女が尋ねた。
「降っていません」
「そうですか」
彼女はベンチの足元を見た。
土は乾いていた。
「じゃあ、あれは誰のだったんでしょう」
女は、ほかに何を持っているのかと尋ねた。
私はポケットの中身を掌に広げた。
鍵が一本。
折りたたんだメモ。
SDカード。
耳栓が二つ。
小銭が三枚。
それから、青い石。
女は石を指さした。
「どこで拾ったんですか」
「海です」
「どこの?」
「覚えていません」
女は石を見つめていた。
「私も、持っていたと思います」
「石を?」
「たぶん」
自分のポケットに手を入れ、空の掌を見せた。
「昨日までは、ここにあったんです」
何かを探すように、もう一度指を入れた。
「何だったのか、思い出せないんです」
私は石を差し出した。
女は首を横に振った。
「それは、あなたのです」
彼女は掌の上の石を見たまま、少し間を置いた。
「今は」
風が吹いた。
ベンチの下で、乾いた葉が一枚転がった。
女は立ち上がった。
「その石、まだ青いですか」
私は掌を開いた。
石は透明になっていた。
向こう側に、掌の線が見えた。
女はそれを確かめると、少し笑った。
「よかった」
「何がですか」
女は答えなかった。
公園の時計が十二時を打った。
腕時計を見ると、午後四時三十七分だった。
顔を上げたとき、女はもう歩き始めていた。
呼び止めようとして、名前を知らないことに気づいた。
私はベンチに座ったまま、透明になった石を握っていた。
帰宅して、SDカードを読み込んだ。
「人物」というフォルダは消えていた。
以前から保存していた写真も、いくつか開けなくなっていた。
海辺で撮った写真が一枚あったはずだった。
ファイル名は残っていたが、開こうとすると小さな警告が表示された。
ファイルを読み込めません。
その下に、見覚えのないフォルダがあった。
「天気」
中には音声ファイルが一つだけ入っていた。
再生すると、雨の音がした。
窓を開けたまま録音したような、近くと遠くが混じった音だった。ときどき車の走る音も聞こえた。
しばらくすると、雨の向こうから声がした。
「また明日」
あの女の声に似ていた。
もう一度再生した。
今度は雨の音しか聞こえなかった。
三度目には、途中で音が途切れた。
ファイルを閉じようとすると、画面が一瞬暗くなった。
再び表示されたフォルダの中には、何もなかった。
私はSDカードを抜いた。
指先に挟んだ小さな板は、わずかに温かかった。
翌朝、ポケットに手を入れると、石が二つになっていた。
どちらも青かった。
大きさも、形も、重さも同じだった。
窓際に並べると、光の通り方までよく似ていた。
片方を持ち上げ、もう片方と取り替えた。
もう一度取り替えた。
何度か繰り返すうちに、どちらを先に取り出したのかわからなくなった。
私は一つを机に置き、もう一つをポケットに戻した。
外では雨が降り始めていた。
出かけようとして、昨日のメモが気になった。
四つ折りにした紙を開く。
内側に、見覚えのない文字があった。
「かえす」
それだけだった。
自分の字に似ていたが、少し違った。
何を返すのかは書かれていなかった。
私はメモを折り直し、ポケットに戻した。
机の上の石が曇っていた。
表面ではなく、内側だった。
青く透き通ったところに、細かな水滴が浮かんでいた。
一つ、二つ、三つ。
水滴はゆっくり大きくなり、石の内側を伝って下へ落ちた。
底に、小さな水たまりができた。
私はポケットからもう一つの石を取り出した。
こちらは乾いていた。
二つを並べる。
机に置いた方から、小さな音がした。
私は耳栓を外した。
部屋は静かだった。
石の中では、雨が降っていた。
まだ、一滴も外へ出ていなかった。


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