春の朝に窓を開けたら、冬が入ってきた。
冷たい風が頬を打ち、鼻の奥に雪の匂いが残った。
窓の外では、桜が満開だった。
反射的に閉めた。
風が止まる。
カーテンが壁際へ戻り、机の上でめくれかけていた紙も動かなくなった。
部屋は、さっきまでの春に戻った。
窓の外を見る。
向かいの歩道を、薄い上着を着た人が歩いている。犬を連れた人がいて、自転車で学校へ向かう子どもが通る。
向かいの家のベランダには、白いシャツとタオルが干されていた。
雪はどこにもなかった。
もう一度、取っ手に手をかけた。
数センチだけ開ける。
隙間から冷気が滑り込んできた。
閉める。
ガラスの向こうには桜がある。
もう一度開ける。
冬。
閉める。
春。
その朝は、それ以上開けなかった。
昼になれば元に戻るだろうと思った。
昼過ぎ、道路には濃い影が落ちていた。
窓を開ける。
冬。
朝より少し強い風が、足元を抜けた。
すぐに閉めた。
夕方も冬だった。
夜も冬だった。
翌朝、目が覚めてすぐに窓を開けた。
今度は夏だった。
湿った空気が流れ込んできた。
遠くで蝉が鳴いている。
道路から、熱を含んだアスファルトのような匂いがした。
肌に空気がまとわりつく。
部屋そのものが急に暑くなったわけではない。
それでも、腕に触れた空気だけで夏だと分かった。
窓を閉める。
蝉の声が消えた。
カーテンが止まる。
ガラスの向こうには、まだ桜が咲いていた。
もう一度開ける。
秋。
乾いた風が入る。
遠くで何かが擦れる音がした。落ち葉のようにも聞こえた。
けれど窓の外には、新しい緑があった。
閉める。
もう一度。
春。
外と同じ春だった。
鳥の声が近かった。
その日から、私は何度も窓を開けるようになった。
冬。
秋。
春。
夏。
春。
冬。
同じ季節が続くこともあった。
順番はなかった。
朝だから春になるわけでもない。
夜だから冬になるわけでもない。
雨の日に、乾いた秋が入ってくることもあった。
強い日差しの午後に、雪の匂いを含んだ風が来ることもあった。
窓を開けるまで、何が入ってくるのか分からない。
最初の数日は記録を取った。
朝七時十三分。秋。
七時十五分。冬。
七時二十一分。春。
十二時四分。夏。
十二時五分。夏。
十二時七分。冬。
横に、外の天気も書いた。
晴れ。
曇り。
雨。
室温。
湿度。
窓を開けた幅。
開けていた秒数。
五分待つ。
十分待つ。
一時間待つ。
朝だけ開ける。
夜だけにする。
静かに開ける。
勢いよく開ける。
何を変えても、次に来る季節は分からなかった。
ノートのページだけが増えた。
数日でやめた。
春の終わり頃、急に暑くなった日があった。
部屋の中まで熱がこもっていた。
窓を開ける。
夏。
閉める。
春。
もう一度。
秋。
次は冬だった。
冷たい風が入った。
そのまま窓を開けておいた。
カーテンが大きく膨らむ。
机の上の空気が少しずつ冷える。
裸足で床に立つと、窓際だけ温度が違った。
十分ほどすると汗が引いた。
寒くなる前に閉めた。
冬の朝には、反対のことをした。
外の水たまりに薄い氷が張っていた。
部屋の床も冷たい。
窓を開ける。
冬。
閉める。
秋。
もう一度。
夏。
湿った暖かい空気が流れ込んだ。
窓際の観葉植物の葉が揺れた。
マグカップを両手で持ったまま、その前に立つ。
窓の外では、通勤する人たちが白い息を吐いている。
こちらには夏の風が入っている。
少し可笑しかった。
洗濯物を乾かしたい日は秋を待った。
シーツを洗った日、外では雨が降っていた。
窓を開ける。
夏。
閉める。
春。
冬。
四回目で秋が来た。
室内物干しにかけた白いシーツが、乾いた風を受けて揺れた。
ガラスの向こうを傘が通っていく。
濡れた道路。
乾いていく布。
私は椅子に座り、しばらくそれを見ていた。
眠れない夜には春を待った。
真夜中に窓を開ける。
冬なら閉める。
夏なら閉める。
秋なら少し迷う。
春なら、そのままにする。
夜の春は静かだった。
昼間ほど鳥は鳴かない。
空気だけが少し柔らかい。
寒くない。
暑くもない。
暗い部屋の中で、カーテンがゆっくり動く。
それを見ているうちに眠れた夜が、何度かあった。
気づけば、窓を開ける前に欲しい季節を考えるようになっていた。
暑ければ冬。
洗濯物があれば秋。
寒ければ夏。
眠れなければ春。
天気予報を見るのは、外出するときだけになった。
外が冬ならコートを着て出る。
帰宅して夏を入れ、脱ぐ。
外が夏なら薄着で出る。
帰って冬を入れ、長袖を一枚羽織る。
同じ一日の中で、身体だけが何度も季節をまたいだ。
朝は春。
昼は冬。
夜は秋。
いつの間にか、それが普通になっていた。
ある日、友人が部屋に来た。
窓のことは話していなかった。
暑い日だった。
友人が立ち上がり、
「ちょっと開けてもいい」
と言った。
返事をする前に窓を開けた。
秋だった。
乾いた風が部屋へ入った。
友人は窓辺に立って、
「涼しいな」
と言った。
私は友人の顔を見た。
窓の外では、真夏の光が道路に落ちている。
部屋には秋の風が入っている。
友人はしばらく外を見て、
「外よりこっちの方が涼しいな」
と言った。
それだけだった。
帰ったあと、私は窓を開けた。
夏。
次は春。
冬。
秋。
何度か繰り返してから、やめた。
夏になった。
外でも蝉が鳴き始めた。
昼間は冬か秋を待つことが増えた。
窓を開ける。
夏。
蝉。
閉める。
もう一度。
夏。
また蝉。
外の蝉と、窓から聞こえる蝉は少し距離が違った。
外の方が近い。
窓から来る夏の蝉は、もう少し遠くにいるように聞こえた。
ある夜、雷が鳴った。
雨が強くなっていた。
窓を開ける。
冬。
雨音が遠のき、かわりに冷たい風が入った。
雪の前のような匂いがした。
窓の外では稲光がしている。
私は窓際に椅子を持ってきた。
雷を見る。
冬の空気を吸う。
いつもの景色が、少し遠く見えた。
秋になった。
外の空気が涼しくなると、窓から秋が入ってきても、以前ほど違いが分からなかった。
それでも匂いは違った。
外の秋は、雨上がりの土の匂いがする。
窓から来る秋は、もっと乾いている。
北の秋なのかもしれないと思った。
海の近くかもしれない。
標高の高い場所かもしれない。
何年か前。
何年か先。
けれど、窓の外を覗いても、見えるのはいつもの道だった。
景色は来ない。
雪も入ってこない。
落ち葉も飛んでこない。
蝉そのものが部屋へ来ることもない。
風と温度と湿り気と匂いと音だけが入ってくる。
それに気づいてから、開けてすぐ季節を決めるのを少し待つようになった。
最初は寒くても、しばらくすると鳥が鳴くことがある。
湿っていると思ったら、乾いた草の匂いがすることもある。
すぐ分かる日もあれば、よく分からない日もあった。
分からない日は、何となく春にした。
春がいちばん曖昧だった。
ある冬の日。
朝から雪が降っていた。
車の屋根にも、歩道の端にも白いものが積もっていた。
暖房をつけていても床が冷たい。
私は暖かい季節を入れようと窓を開けた。
冬だった。
外より少し冷たい風が入った。
閉める。
もう一度。
冬。
三回目。
冬。
四回目も冬だった。
窓際の床が冷えていく。
いったんやめた。
十分待つ。
冬。
昼。
冬。
夜。
冬。
その日は一度も変わらなかった。
翌朝も冬だった。
その次の日も。
一週間経っても。
窓を開ければ、冷気が入った。
私はまたノートを出した。
最後に書いたページには、
九月十八日 二十三時四十二分 春
とあった。
その下から続けた。
一月十二日 七時十四分 冬。
七時十五分 冬。
七時二十分 冬。
十二時三分 冬。
十八時四十八分 冬。
二十三時十一分 冬。
翌日も、
冬。
冬。
冬。
数ページ進んだところでやめた。
春になれば分かると思った。
外も春になれば、窓から春が入る。
その冬は暖房を使った。
窓を開けるのは、換気のときだけになった。
短く開ける。
冷たい風。
すぐ閉める。
外も冬だったから、それほど困らなかった。
春になった。
雪がなくなった。
道端の植木に新しい葉が出た。
桜が咲き始めた。
朝、久しぶりに窓の前へ立った。
取っ手に手をかける。
少し迷った。
開ける。
冷たい風。
乾いた空気。
鼻の奥に、かすかな雪の匂い。
私はすぐに閉めた。
もう一度。
冬。
窓の外では桜の枝が揺れている。
向かいの家では布団を干している。
薄い服を着た子どもが走っていく。
もう一度。
冬。
その日は、それ以上開けなかった。
夏になった。
外では蝉が鳴いた。
窓を開ける。
冬。
秋になった。
冬。
次の春。
冬。
窓の外だけが変わっていった。
桜。
濃い緑。
落ち葉。
雪。
また桜。
窓を開ける。
冷たい風。
乾いた空気。
一年が過ぎても変わらなかった。
雨の日にも試した。
晴れた日にも。
朝。
昼。
深夜。
一センチだけ。
半分。
全部。
それでも冬だった。
一度だけ、少し暖かい気がした。
春かもしれないと思い、窓を大きく開けた。
しばらくすると指先が冷えた。
いつもより寒く感じた。
やがて、確かめる回数が減った。
開ける。
冬。
閉める。
それだけになった。
そのうち、窓を開けなくなった。
カーテンだけを開けて外を見る。
桜。
雨。
強い日差し。
落ち葉。
雪。
風は入らない。
匂いも来ない。
音も少し遠い。
春になれば桜を見る。
夏になれば緑が濃くなる。
秋には葉が落ちる。
冬には白い息が見える。
外へ出れば、もっとはっきりした。
玄関を開ける。
暑い。
帰ってドアを閉める。
冷房。
別の日。
玄関を開ける。
冷たい。
帰る。
暖房。
部屋の中は、だんだん変わらなくなった。
暑ければ冷房をつける。
寒ければ暖房。
洗濯物には除湿機。
乾燥すれば加湿器。
暗ければ照明をつける。
生活は問題なく続いた。
それでも、ときどき朝起きた瞬間、今日が何月なのか分からなかった。
カーテンを開ける。
木の葉を見る。
人の服を見る。
それで思い出す。
八月。
十一月。
三月。
ある夏の夕方。
買い物から帰ると、部屋に熱がこもっていた。
冷房をつけた。
冷たい風が出る。
しばらくすると涼しくなった。
それでも、カーテンは動かない。
机の紙も動かない。
冷たい空気が、部屋の中だけを回っている。
私は窓を見た。
長いあいだ開けていなかった。
取っ手を回す。
冷たい風が入ってきた。
冬だった。
すぐには閉めなかった。
冷房を止めた。
窓をもう少し開ける。
カーテンが大きく膨らんだ。
机の紙が一枚、床へ落ちた。
空気が部屋の奥まで入る。
足元から冷えていく。
私は押し入れから毛布を出した。
夏なのに、毛布を肩へ掛けて窓際に座った。
外は夏の夜だった。
向かいの木の葉が揺れている。
虫の声がする。
少し離れた道路を車が通る。
誰かが自転車で帰ってくる。
マンションの廊下で、ドアが閉まる。
窓からは冬の空気が流れ込んでいる。
毛布の外へ出した腕が冷える。
裸足の裏から、床の冷たさが上がってくる。
窓枠に手を置く。
冷たい。
そのまま手を外へ出した。
ぬるい。
戻す。
冷たい。
もう一度、外へ。
暖かい。
窓枠ひとつを挟んで、手の甲と手首に別の温度が触れた。
椅子を少し後ろへ引く。
寒さが弱くなる。
また窓へ近づく。
冷える。
部屋の中央まで歩く。
少し暖かい。
廊下側には、まだ昼間の熱が残っていた。
窓際。
部屋の中央。
廊下。
私は何度か、そのあいだを歩いた。
数歩で寒くなる。
数歩で戻る。
寒くなると窓から離れた。
少し暖まると、また近づいた。
窓は開けたままだった。
外では虫が鳴き続けている。
冷たい風がカーテンを持ち上げる。
私は毛布を肩に掛け、窓から少し離れたところに座った。
しばらくして、また窓際へ戻る。
指先が冷える。
また離れる。
夜が深くなるまで、それを繰り返した。
虫の声が少なくなった。
車も減った。
それでも冷たい風は入ってくる。
私はようやく窓を閉めた。
急に静かになった。
カーテンが止まる。
部屋に残った冷気が、少しずつ薄くなっていった。
毛布を肩に掛けたまま、ベッドに入った。
翌朝。
目が覚めて、しばらく天井を見ていた。
カーテンの隙間から朝の光が入っている。
部屋は少し冷えていた。
窓の前へ行く。
取っ手に手をかける。
少し迷う。
開ける。
風が入った。
冷たい。
でも、昨日ほどではなかった。
もう少し開ける。
カーテンが動く。
遠くで鳥が鳴いた。
空気は少し湿っている。
頬に触れる風は冷たい。
手を外へ出すと、それほどでもない。
春かもしれない。
秋かもしれない。
冬の終わりにも似ている。
夏の朝にしては冷たい。
一度閉めて、もう一度開ければいい。
そう思った。
取っ手には触れなかった。
風が入る。
机の紙が少し動く。
鳥がもう一度鳴いた。
朝の光が向かいの壁に当たっている。
私は窓際の椅子に座った。
しばらくすると、最初ほど寒く感じなくなった。
道路を半袖の人が歩いていった。
少しあとに、薄い上着を着た人が通った。
どちらも見送った。
風が部屋の奥まで入る。
カーテンが壁に触れる。
戻る。
また膨らむ。
昼近くまで、窓は開いていた。
数日後。
朝、窓を開ける。
暖かい風。
鳥の声。
そのままにする。
別の日。
雨。
少し開ける。
冷たい風。
濡れた道路の匂い。
そのままにする。
夜。
窓を開ける。
ほとんど風がない。
カーテンも動かない。
そのままにする。
ノートは机の引き出しに入ったままだった。
最後の方には、
冬。
冬。
冬。
と続いている。
その下は空白だった。
ある朝。
カーテンを開ける。
外は曇っている。
窓を開ける。
少し冷たい空気が入る。
湿り気。
遠くで鳥が鳴く。
道路を車が一台通る。
音が消える。
風が入る。
カーテンが揺れる。
机の紙が一枚だけめくれる。
私はそれを直さない。
風が止む。
少し待つ。
また入ってくる。
窓は開いたままだった。


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