ふと、夜空を見上げる。
満月。
まんげつ?
まだ満月ではない?
でも、見た目は満月に見える。
満月には、満月になる瞬間があるらしい。
その瞬間より前なら、どれだけ丸く見えても、まだ満月ではない。
では、99.9%なら「ほぼ満月」と言えるのか?
たぶんそう。
でも、98%は? 95%は?
どこから「ほぼ」になるのだろう。
そもそも、私は今日の月が何%なのか、見ても分からない。
丸い。
少し欠けてる?
そのくらいしか分からない。
満月。
こちらには名前がある。
ほぼ満月。
こちらは、満月そのものの名前ではなく、満月との距離を表している。
満月に近い。
でも、満月ではない。
「ほぼ完成」
「ほぼ同じ」
「ほぼ食べ終えた」
「ほぼ終わった」
どれも、そうだと言ってもよさそうなくらい近い。
でも、そうだとは言い切れない。
「ほぼ」は、曖昧だ。
いや。
むしろ逆かもしれない。
「ほぼ満月」と言うためには、どこかに「満月」が存在していなければならない。
基準がある。
そこに近い。
でも、届いてはいない。
そう考えると、「ほぼ」は境界をぼかす言葉ではなく、境界の存在を意識させる言葉でもある。
では、曖昧なのは何だろう。
月か。
言葉か。
私の見方か。
境界そのものか。
月はずっと連続して変化している。
ある瞬間に突然、「満月」になるようには見えない。
少しずつ満ちて、少しずつ欠けていく。
変化は連続している。
でも、言葉にすると、
満月。
満月ではない。
と分かれる。
では、その境界は人間が勝手に作ったものなのか。
「満月」という名前も、どこをそう呼ぶかという決め方も、人間がつくったものではある。
でも、月そのものは、名前とは関係なく変化し続けている。
その連続した変化の中に、私たちは一点を置いて、
「満月」
と呼んでいる。
そして、その前後にある月を、
まだ満月ではない。
もう満月ではない。
と分けている。
ただ、私にはその境界が見えない。
満月になる一分前と、
満月になった一分後を並べても、
たぶん私は区別できない。
境界はある。
でも、見分けられない。
そう考えると、「曖昧」という状態さえ怪しくなる。
対象が曖昧なのか。
境界が曖昧なのか。
それとも、境界は明確なのに、人の知覚がそこまで細かくないだけなのか。
満月。
ほぼ満月。
同じように見える。
でも、同じではない。
違いはある。
その違いを、私は認識することができない。
今のところ、「ほぼ満月」について考えていて一番気になるのは、曖昧さそのものではない。
明確な境界が存在していても、私たちはそれを知覚できるとは限らない。
そして、その見えない境界の近くに、「ほぼ」という言葉を置いている。
今のところ、私はそう考えることにした。


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