Quiet Letter 11

淡い光が差し込む静かな室内と、奥の窓へ続くいくつもの開いた扉

誰かに惹かれるとき、その人のことばかり考えるようになるわけではない。

むしろ、少しだけ世界の見え方が変わる。

帰り道に、今まで気にしたことのなかったお店を見つける。

スーパーで知らない果物を見つけて、以前ならそのまま通り過ぎていたのに、少し立ち止まる。

聞いたことのない音楽を検索する。

普段なら選ばないドラマを観る。

遠回りになる道を、なんとなく歩いてみる。

本人はもうそこにいないのに、その人と話したあとだけ、今まで気づかなかったものが目に入る。

僕はたぶん、そういうことに弱い。

何を仕事にしているとか、どんな服を着るとか、休日に何をするとか。

人を知るための情報はいくらでもある。

でも、それだけでは、その人が世界のどこを見ているのかまでは分からない。

同じ道を歩いていても、看板の文字を見る人もいれば、古い家の窓を見る人もいる。

道端の花に気づく人もいるし、工事現場から聞こえる金属音を覚えている人もいる。

僕が何も見つけられなかった場所から、何かを拾って帰る人がいる。

そういう話を聞くと、「そんなものがあったのか」と思う。

自分もそこを通ったのに、見えていなかった。

少し悔しい。

でも、その悔しさが嫌いではない。

「分かる」と言われることより、

「私は少し違うかも」

と言われたことの方を、あとまで覚えていることがある。

否定されたからではない。

自分ひとりでは考えなかった方向へ、少しだけ視線が動くからだ。

たぶん僕が誰かに求めているのは、正しい答えを持っていることではない。

僕の話を全部理解してくれることでもない。

その人と話したことで、昨日まで考えもしなかったことを考えてしまうこと。

帰ったあとも、ひとつだけ質問が残っていること。

翌朝になっても、その質問の形が少し変わっていること。

そういう時間が好きなのだと思う。

話す内容は、たぶん何でもいい。

最近観た映画でも、

電車の窓から見えたものでも、

なぜか嫌いな言葉でも、

ずっと納得できないことでもいい。

好きなものについて話すときも、その「好き」そのものより、

どうしてそこを見つけたのか。

何を見落とさなかったのか。

その方が気になる。

同じものを見ても、同じところを見るとは限らない。

同じ道を歩いても、持ち帰るものは違う。

それは当たり前のことなのに、誰かと話すまで気づかないことがある。

自分が見ているものだけで、その場所のすべてを見たような気になっていたことにも気づく。

人を知るというのは、その人についての情報を増やすことだけではないのかもしれない。

その人がどこで立ち止まり、何に気づき、何を覚えているのかを知ること。

そうして、自分が見落としていたものの存在を知ること。

全部を知ることなんてできない。

たぶん、できない方がいい。

ただ、ときどき、

「そんなふうに見えるのね」

と言いたい。

そして僕が何気なく話したことを、相手もいつか別の場所で思い出すのなら、それは少し嬉しい。

まだ会ったことのない誰かについて考えるとき、顔も名前も浮かばない。

どこに住んでいるのかも、何をしている人なのかも分からない。

ただ、その人と話した日の帰り道だけは、少し想像できる。

来たときと同じ道なのに、何かひとつ、今まで気づかなかったものが見えている。

もし、あなたにも、誰かと話したあと、それまで気づかなかったものが目に入ったことがあるなら、そのとき、何が見えるようになりましたか。

僕は、その話を聞いてみたい。

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