誰かに惹かれるとき、その人のことばかり考えるようになるわけではない。
むしろ、少しだけ世界の見え方が変わる。
帰り道に、今まで気にしたことのなかったお店を見つける。
スーパーで知らない果物を見つけて、以前ならそのまま通り過ぎていたのに、少し立ち止まる。
聞いたことのない音楽を検索する。
普段なら選ばないドラマを観る。
遠回りになる道を、なんとなく歩いてみる。
本人はもうそこにいないのに、その人と話したあとだけ、今まで気づかなかったものが目に入る。
僕はたぶん、そういうことに弱い。
何を仕事にしているとか、どんな服を着るとか、休日に何をするとか。
人を知るための情報はいくらでもある。
でも、それだけでは、その人が世界のどこを見ているのかまでは分からない。
同じ道を歩いていても、看板の文字を見る人もいれば、古い家の窓を見る人もいる。
道端の花に気づく人もいるし、工事現場から聞こえる金属音を覚えている人もいる。
僕が何も見つけられなかった場所から、何かを拾って帰る人がいる。
そういう話を聞くと、「そんなものがあったのか」と思う。
自分もそこを通ったのに、見えていなかった。
少し悔しい。
でも、その悔しさが嫌いではない。
「分かる」と言われることより、
「私は少し違うかも」
と言われたことの方を、あとまで覚えていることがある。
否定されたからではない。
自分ひとりでは考えなかった方向へ、少しだけ視線が動くからだ。
たぶん僕が誰かに求めているのは、正しい答えを持っていることではない。
僕の話を全部理解してくれることでもない。
その人と話したことで、昨日まで考えもしなかったことを考えてしまうこと。
帰ったあとも、ひとつだけ質問が残っていること。
翌朝になっても、その質問の形が少し変わっていること。
そういう時間が好きなのだと思う。
話す内容は、たぶん何でもいい。
最近観た映画でも、
電車の窓から見えたものでも、
なぜか嫌いな言葉でも、
ずっと納得できないことでもいい。
好きなものについて話すときも、その「好き」そのものより、
どうしてそこを見つけたのか。
何を見落とさなかったのか。
その方が気になる。
同じものを見ても、同じところを見るとは限らない。
同じ道を歩いても、持ち帰るものは違う。
それは当たり前のことなのに、誰かと話すまで気づかないことがある。
自分が見ているものだけで、その場所のすべてを見たような気になっていたことにも気づく。
人を知るというのは、その人についての情報を増やすことだけではないのかもしれない。
その人がどこで立ち止まり、何に気づき、何を覚えているのかを知ること。
そうして、自分が見落としていたものの存在を知ること。
全部を知ることなんてできない。
たぶん、できない方がいい。
ただ、ときどき、
「そんなふうに見えるのね」
と言いたい。
そして僕が何気なく話したことを、相手もいつか別の場所で思い出すのなら、それは少し嬉しい。
まだ会ったことのない誰かについて考えるとき、顔も名前も浮かばない。
どこに住んでいるのかも、何をしている人なのかも分からない。
ただ、その人と話した日の帰り道だけは、少し想像できる。
来たときと同じ道なのに、何かひとつ、今まで気づかなかったものが見えている。
もし、あなたにも、誰かと話したあと、それまで気づかなかったものが目に入ったことがあるなら、そのとき、何が見えるようになりましたか。
僕は、その話を聞いてみたい。


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