朝
部屋はまだ、夜の続きにあった。
カーテンの隙間から入る光が、床の上に細い線を作っている。
机の上には一冊の本が伏せられていた。
読みかけなのか、読み終えたのかは分からない。
ページの間には古い紙の栞が挟まっている。
窓際には小さな植木鉢がある。
土の表面は少し乾いていた。
伸びた葉の一枚がガラスに触れている。
風が吹くたび、微かな音を立てた。
椅子は机から少し離れた場所に置かれている。
戻し忘れたようにも見えた。
ただ、そこにあるだけにも見えた。
冷蔵庫が低く鳴る。
しばらくして止まる。
部屋にはまた、静けさが戻った。
またしばらくして、ケトルが鳴いた。
小さな音だった。
眠っていた部屋が、その音だけを受け取った。
火が止まる。
注がれる。
白いマグカップから、細い湯気が立ち上った。
朝の光の中で、それは一瞬だけ形を持った。
上へ伸びながら揺れ、薄くなり、消えていく。
窓際のカーテンが少し揺れた。
誰も触れていない。
開いた窓から入った風が、部屋の中にあるものを少しだけ動かした。
本のページが一枚だけ捲れる。
植木の葉が揺れる。
机の端に置かれた紙が僅かに浮く。
そしてまた止まる。
マグカップの隣には、小さなパンくずが一つ落ちていた。
床に落ちるほどではなく、片付けるほどでもない。
ただ、そこに残った。
本の横には、丸められていないレシートが置かれている。
印刷された文字は小さく、何を買ったものなのかはもう読めないほど掠れていた。
時間だけが佇んでいた。
窓の外で、信号が青になる。
自転車が一台通り過ぎる。
少し遅れて、もう一台。
遠ざかる音。
車の音。
誰かの話し声。
それらは部屋まで届き、そしてすぐに消えた。
昼になる。
光の位置が変わる。
陰影の映る壁が、ゆっくりと別の場所へ移動していく。
時折、マグカップの底がちらつく。
白い縁には薄い輪が残っている。
指が触れた場所だけ、少し温度が違っていた。
流しには皿が一枚伏せられている。
洗われたばかりの表面に、小さな水滴が残っている。
時間が経つにつれて、一つずつ消えていった。
机の上の本は、朝と同じ場所にある。
けれど、開かれたページだけが少し違っていた。
誰かが読んだ跡。
閉じる前に止めた跡。
そのどちらなのかは分からない。
午後
西日が部屋へ入ってくる。
床の上をゆっくり移動する光。
椅子の脚。
植木鉢。
机の下。
朝から変わらないものが、光の中で少しずつ違う表情になる。
スリッパが一つ、光の中に残っていた。
もう一つは、机の下の影にある。
二つは離れたまま、動かなかった。
夕方になる。
向かいの窓に明かりが灯る。
一つ。
また一つ。
この部屋には、まだ誰も戻らない。
冷蔵庫が低く鳴る。
しばらくして止まる。
部屋はまた静かになる。
けれど、朝とは少し違っていた。
湯気はもうない。
コーヒーの香りも消えている。
水滴も乾いている。
けれど、机の上の本は開いたまま。
植木の葉は窓に触れたまま。
椅子は少し離れた場所にある。
そこには、一日の小さな変化だけが残っていた。
夜
外の光が消えていく。
窓には部屋の中だけが映る。
白いマグカップ。
開いた本。
小さな植木鉢。
動かない椅子。
朝からそこにあるもの。
途中で少しだけ変わったもの。
そして、もう消えてしまったもの。
部屋は静かだった。
何も起きていないように見えた。
それでも、朝に立ち上った湯気が確かに存在したことを、残されたものだけが覚えていた。


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