水を十センチ動かす

青緑色の水中に複数の木の幹が立ち、手前は明瞭に、奥は水の濁りによって輪郭が薄れて見える水没林の風景

海の中では、目に見える距離と、身体が受け取る距離が一致しないことがある。

光は水を通るあいだに変わり、遠くの輪郭は弱くなる。

そこに木があっても、陸上と同じように木を見ることはできない。

「海の中の森」という言葉について考えている。

青い水の中に木々が立つ風景を想像することはできる。

けれど、気になっているのは、その景色そのものではない。

一本の木を海へ入れたとき、何が起きるのか。

木の寸法は変わらない。

変わるのは、その木へ至るまでの環境だ。

空気ではなく、水がある。

光は水を通り、身体は水を押し分けて進む。

遠くなるほど輪郭は弱くなり、色の見え方も変わる。

水の透明度が下がれば、そこに何かがあることは分かっても、それが何なのか判別しにくくなる。

近づけば、すべて分かるわけでもない。

枝が別の枝と重なる。身体の位置を変えると、それまで見えていたものが隠れ、別の形が現れる。

木を見るつもりでも、水は視界から消えない。

森も、木だけではできていない。

同じ本数の木でも、等間隔に並んでいる場合と、密集している場合では、その中で身体ができることが違う。

通れる幅があるか。
向こう側まで見通せるか。
枝がどの高さで重なるか。
光がどこまで届くか。

一本一本の形だけでなく、それらの間隔や重なりによって、森の内部は変わる。

調べていくと、「海の中の森」には、成立の仕方が異なる二つの森が実際にあることが分かった。

海では、大型の海藻や海草が密集し、三次元的な環境を形成することがある。

「海中林」と呼ばれるものだ。

一方には、かつて陸上にあった森林が海面の変化などによって水没し、海底に残された「沈水林」や「海底林」がある。

一方は、水の中で森のような構造がつくられる。

もう一方では、森があった場所そのものが別の環境に包まれる。

木を海へ運んだわけではない。

同じ場所へ水が来る。

物そのものが同じでも、周囲が変われば、身体との関係は同じではなくなる。

海の中へ入った木は、同じ高さ、同じ太さであっても、陸上と同じ仕方では近づけない。

歩く代わりに水の中を進む。

進む速度も違う。

呼吸の仕方も、視界も、手を伸ばしたときの身体の安定も違う。

物ではなく、そこへ至るまでの環境を動かす。

振り返ると、制作の中でも似たことを繰り返している。

金属を切る。
木を組む。
光源を移す。
映像を数秒短くする。
文章の一行を移す。
Webページで、ある要素が現れる位置を変える。

たとえば、物を十センチ動かす。

それだけで別の物の背後に入り、一方向から見えなくなることがある。

通路へ近づけば、その横を通る身体の向きが変わる。

光源との角度がずれれば、影も伸びたり縮んだりする。

文章の一行を前へ移せば、前後を読む順序が変わる。

Webでは、同じ画像でも最初の画面にあるのか、スクロールした先にあるのかで出会い方が違う。

映像では、数秒を残すか切るかで、次の像へ移る前に見られるものが違う。

素材や媒体が違っても、動かしているのは物だけではない。

その周囲にある距離、順序、時間、光、身体の位置まで一緒に動く。

「海の中の森」は、何かの象徴というより、そうしたことを考えるための場所に近いのかもしれない。

水が入る。

見えていたものが見えにくくなる。

けれど、単純に情報が減るわけではない。

水の透明度が現れる。
光の方向が現れる。
物同士の重なりが強くなる。
身体をどちらへ動かしたかが、次に見えるものを決める。

何かが見えにくくなったことで、それまで気にしていなかったものが前へ出てくる。

だから、海そのものを再現したいわけではない。

森そのものを再現したいわけでもない。

青い光を置けば海になるわけではないし、木を何本か並べれば森になるわけでもない。

知りたいのは、それらが「海」や「森」として経験される手前で、何が起きているのかということだ。

どれほど物が密集すれば、奥まで一度に見通せなくなるのか。

何が重なれば、その向こうにある形を確定できなくなるのか。

身体の位置が変わると、何が消え、何が現れるのか。

「見えない」にも違いがある。

暗くて見えない。
遠くて見えない。
重なって見えない。
濁って見えない。
角度によって見えない。
まだそこまで移動していないから見えない。

理由が違えば、そのあとに身体がすることも違う。

近づく。
横へずれる。
回り込む。
角度を変える。

それでも分からないことはある。

一本の木が見える。

その背後に、別の形がある。

位置を変えると、二つだと思っていたものが三つになる。

さらに進めば、最初に見えていた一本が別のものに隠れる。

場所についての理解は、どこか一か所で完成するのではなく、身体の位置が変わるたびに組み替えられていく。

海の中なら、そこへ水の状態も加わる。

同じ場所に同じ物があっても、光や透明度が違えば、確認できる範囲も違う。

対象だけを見ることはできない。

対象までのあいだも、一緒に見ることになる。

「海の中の森」という言葉に残したいのは、その構造なのだと思う。

木だけを切り出さない。

水だけも切り出さない。

物があり、そのあいだを水が満たし、そこへ身体が入る。

位置がずれる。
光が変わる。
重なりが変わる。
見える範囲が変わる。

それまで持っていた場所の理解も、そこで組み直される。

一本の木の向こうに何があるのか。

それを最初からすべて見せない。

ただ隠すのではなく、身体が動いたとき、それまで見えていた関係そのものが別の形になる余地を残す。

一本の木の向こうが見えなくなるところから、まだ考えている。

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