古い作品を見返すと、今なら直せるところが見つかる。
形のゆがみ、うまくつながっていない部分、長すぎる間。
文章なら、余計な言葉を削り、足りない説明を加えることもできる。
けれど、直せるからといって、直してしまっていいのだろうか。
そこに残っているのは、単に技術が足りなかった証拠なのか。
それとも、当時の自分が何を見て、何を選び、どこまでできたのかを示すものでもあるのか。
昔は、できるようになりたかったことがある。
使い方のわからない道具。
名前だけ知っていた技術。
自分の手で形にしたかったもの。
どうやってつくるのか見当もつかなかった作品。
そのいくつかは、今では日常の一部になっている。
最初は手順を一つずつ確かめていた作業を、考えずに進められるようになる。
完成させること自体が難しかったものに、今では完成度を求める。
できたことよりも、できなかった部分を先に見つける。
できるようになったことは、やがて、できて当然のことになる。
もし昔の自分が今の生活を見たら、何を思うだろう。
「よくやった」と言ってくれるだろうか。
できるようになるまでの時間
初めて使う道具には、わからないことが多い。
どのように持つのか。
どのくらい力を加えるのか。
どこまで動かせばよいのか。
少し動かしては止め、結果を確かめる。
慣れてくると、その確認は少しずつ減っていく。
手の動きと道具の反応がつながり、意識を向ける場所が変わる。
道具をどう動かすかだけでなく、それを使って何をつくるかを考えられるようになる。
変化したのは道具ではない。
身体との関係だ。
しかし、その変化には、必ずしも記念日がない。
初めて成功した日は覚えていても、いつから失敗せずにできるようになったのかは覚えていない。
昨日までできなかったことが突然できる場合もあるが、多くの作業では、失敗と成功を繰り返しながら少しずつ慣れていく。
ある日はできても、次の日には失敗する。
何度も成功した後で、以前と同じ間違いをすることもある。
そうしているうちに、最初は難しかったことが、難しいと感じられなくなる。
身体は動きを覚えていても、できなかったころの感覚は薄れていく。
何かを身につけることには、以前の困難を忘れていく過程も含まれているのかもしれない。
昔の自分は、まだできなかったことを見る。
今の自分は、まだできていないことを見る。
同じものを前にしても、目を向ける場所が違う。
現在の自分は、完成したものの不足を見つける。
もっと正確にできたはずだ。
別の方法があったはずだ。
まだ完成とは呼べない。
けれど、昔の自分は、そもそもそれを完成させられることに驚くかもしれない。
その違いを生んだ時間を、ほかでもない本人が、いつの間にか思い出せなくなっている。
直せるものと、残っているもの
古い制作物には、その忘れてしまった時間が、別の形で残っていることがある。
今なら容易に直せる部分に、当時の自分が苦労した痕跡があるかもしれない。
現在では選ばない材料や手順に、そのころの知識や条件が現れているかもしれない。
しかし、今の完成度を基準にすると、最初に目につくのは欠点だ。
配置を変えたい。
接合をやり直したい。
文章の順序を整えたい。
映像の間を短くしたい。
以前は気づけなかった問題に気づくことも、技術を身につけた結果の一つだろう。
ただ、その能力があるからといって、古いものを現在の基準に合わせて直すべきだとは限らない。
今なら不要だと思う一文が、当時はどうしても必要だったのかもしれない。
現在は長すぎると感じる時間に、当時の自分が守ろうとしたものがあったのかもしれない。
反対に、深い意図があったと思っていた部分が、単に技術や環境の制約によって生じた可能性もある。
どちらなのかは、残されたものだけでは判断できないことがある。
もちろん、昔の制作物をすべて保存すべきだとは思わない。
安全性や機能に問題があれば、修正が必要になる。
現在の用途に合わせて変更したほうがよいものもある。
古い状態を記録したうえで、新しい版を制作する方法もあるだろう。
修正することが不誠実で、残すことが誠実というわけではない。
ただ、直すことによって何が良くなり、何が見えなくなるのかは考えておきたい。
現在の自分がつくり直したものが、必ずしも当時の自分がつくりたかったものと一致するわけではない。
昔の自分を、どこまで覚えているのか
そもそも、当時の自分が何を考えていたのか、今の自分はどこまで正確に覚えているのだろう。
写真には、撮影した瞬間に写っていたものが残る。
文章には、そのとき選んだ言葉が残る。
作品には、最終的に選ばれた形がある。
けれど、写真は画面の外まで保存しない。
文章には書かなかった考えが残らない。
完成したものを見ても、途中で捨てた案のすべてがわかるわけではない。
記録は過去を知る手がかりになるが、過去そのものではない。
一方で、記録が現在の記憶を訂正することもある。
昔から同じことを考えていたつもりが、当時の文章を読むと少し違っている。
長く続けてきたと思っていたことが、実際には何度も途切れていた。
やめたと思っていたことが、別の方法で続いている。
私たちは過去を振り返るとき、現在の自分に理解できる形へ整理してしまう。
今につながる出来事を選び、関係のなさそうな時間を省く。
結果がわかっているために、途中の判断まで必然だったように見える。
けれど、そのときの自分は、まだ結果を知らなかった。
今なら間違いだとわかる判断にも、当時は選ぶ理由があったはずだ。
まだ使っていない道具があり、読んでいない文章があり、会っていない人がいた。
現在の自分が知っていることを、当時の自分は知らなかった。
あのとき別の方法を選べばよかった。もっと早く始めればよかった。
そう思うことはある。
実際に避けられた失敗もあったかもしれない。
しかし、選ばなかった道の先に何があったのかまで、私たちは知っているわけではない。
現在の結果を知っていることと、すべての可能性を知っていることは違う。
過去の自分を未熟だったことにすれば、現在の自分は大きく成長したように見える。
でも、本当に昔の自分は何も知らなかったのだろうか。
そのころにしか持っていなかった視点や、当時の自分だから選べた方法もあったのではないか。
今では扱いに慣れた道具も、初めて使う人がどこで迷うのかは理解しにくくなっているかもしれない。
完成度を判断する基準が増えたことで、以前ならためらわずに試した方法を、今は選ばなくなっているかもしれない。
何かが見えるようになる一方で、以前は見えていたものが見えにくくなることもある。
できることが増えたという事実だけで、昔の自分より優れた人間になったと決めることはできない。
変わらなかったこと、変わったこと
成長を考えるとき、私たちは変化した部分を探しやすい。
身につけた技術。
増えた知識。
完成させたもの。
以前より短い時間でできるようになったこと。
けれど、長い時間を経ても変わらなかったものもある。
何度も気になってしまうこと。
離れても戻ってくる関心。
方法を変えながら、繰り返し考えている問い。
同じことを続けるのは、必ずしも同じ答えを繰り返すことではない。
使う道具が変わっても、取り組んでいる問題はつながっている場合がある。
反対に、同じ仕事を続けていても、そこに向ける関心や目的が変わっていることもある。
何が残り、何が変化したのかは、名前や肩書だけではわからない。
昔は完成を急いでいたのに、今は途中の状態を観察したいと思うかもしれない。
以前は人に伝えることを優先していたのに、今は伝わらない部分をそのまま残したいと思うかもしれない。
それらをすべて成長と呼ぶ必要はない。
また、昔は欲しかったのに、今は必要なくなったものもある。
かつて正しいと思っていたことを、今は正しいと思わなくなっているかもしれない。
以前は選ばなかった生活を、現在は選んでいるかもしれない。
昔の自分がそれを見たら、残念に思うこともあるだろう。
しかし、過去の自分は、未来に起きることを知らない。
当時の希望は確かに大切だったとしても、それだけで現在の選択をすべて決めることはできない。
昔の自分との約束を守ることと、昔の自分が知らなかった事情を引き受けること。
その二つが一致しない場合もある。
続けたことを誇らしく思う場合もあれば、やめたことを誇らしく思う場合もある。
逆に、続けたことを後悔する場合も、手放したことを後悔する場合もある。
変わったという事実だけでは、それが良かったのかどうかは決められない。
見せたいもの
もし昔の自分に、今の自分が持っているものを一つだけ見せられるとしたら、何を選ぶだろう。
完成した作品だろうか。
撮影した写真や、書いた文章だろうか。
長く使ってきた道具だろうか。
それとも、特別なものを選ばず、何でもない一日をそのまま見せるだろうか。
朝起きて、準備をして、必要な場所へ向かい、作業を終えて帰ってくる。
その一連の行為の中にも、以前はできなかったことが含まれているかもしれない。
昔は知らなかった場所を、今では迷わず歩いている。
以前は人に尋ねていたことを、自分で判断している。
現在の自分にとっては何でもない行為に、昔の自分が驚く可能性はある。
もしかすると、自慢したいものには関心を示さず、机の上の小さな道具を指して、どうやってそれを使えるようになったのかと尋ねるかもしれない。
その質問に、すぐ答えられるだろうか。
始めた理由は覚えていても、続けてきた理由は一つではない。
偶然手に取ったものが長く残り、強く望んで始めたものが短い時間で終わることもある。
自分で選んだと思っていることの中にも、環境や他人の判断によって決まった部分がある。
反対に、流れに任せたつもりのことの中にも、小さな選択が積み重なっている。
人生の変化をすべて努力の成果として語ることも、すべて偶然だったことにすることも、どちらも正確ではない。
何を達成と呼ぶのか。その基準を誰が決めるのか。
他人から認められたことを、自分でも大切だと思える場合がある。
一方で、周囲から評価された成果に、自分ではあまり意味を感じられないこともある。
誰にも知られていなくても、自分で選び、取り組み、完成させたものを大切に思う場合もあるだろう。
昔の自分が誇らしく思うものと、今の自分が誇らしく思うものが、一致するとは限らない。
褒められないこと
昔の自分が今の自分を見たら、落胆する可能性もある。
思っていたほど遠くへ行けなかった。
望んでいたものが手に入っていない。
以前は簡単にできていたことが、今では難しくなっている。
時間が経てば、必ず以前より多くのことができるようになるわけではない。
身体の状態や生活の条件が変われば、できることも変わる。
努力しても望んだ結果に届かないことがある。
その事実を、無理に成長という言葉で肯定する必要はない。
失敗したことは失敗したこととして残してよい。
失ったものは、失ったものとして認めてよい。
苦しかった経験から何かを学んだとしても、その経験が必要だったとは限らない。
後から得られた意味によって、当時の苦しみが消えるわけではない。
誇りと後悔は、同じ人生の中にあってもよい。
何かを達成したという事実と、別の何かを失ったという事実は、互いを打ち消さない。
昔の自分がそれを見たとき、どちらに目を向けるかはわからない。
そもそも、昔の自分に褒めてもらいたいという願いは、どこから生まれるのだろう。
もしかすると、昔の自分がまだ持っていた驚きを借りたいのかもしれない。
今では当たり前になりすぎて、自分では気づかなくなった達成を、初めて見る人の目で確かめたいのかもしれない。
しかし、昔の自分が今の自分を最もよく理解できるとは限らない。
その人は、現在までに何が起きたのかを知らない。何を選び、何を諦め、何を守ろうとしてきたのか。
その間の時間を理解しなければ、完成したものだけを見ても、現在の自分の一部しかわからない。
そして、今の自分が想像する昔の自分も、記憶から組み立てた存在だ。
その人が「よくやった」と言ったとしても、それは実際に届いた言葉ではない。
現在の自分が、過去の自分の姿を借りて、現在の自分に向けた言葉なのだ。
だから無意味だというわけではない。
ただ、それを過去の自分からの確かな評価として受け取ることはできない。
今の自分も、いつか過去になる
昔の自分の判断を、今の自分は変えることができる。
古い文章を書き直すことも、作品の構成を変更することもできる。
現在の技術を使えば、以前の不足を補える場合もある。
けれど、現在の判断も、いつか古い判断になる。
今は残したいと思うものを、何年か後には必要ないと考えるかもしれない。
今は修正すべきだと思う部分を、後になってそのまま残しておけばよかったと思うかもしれない。
未来の自分は、現在の自分が知らない事情を知っている。
その関係は、今の自分と昔の自分の関係に似ている。
現在の自分も、まだ知らないことばかりだ。
今できないことが、いつかできるようになるとは限らない。
今できることが、これからもできるとは限らない。
だから、現在の能力を永遠の証明として扱う必要も、現在の不足を未来まで続く結論にする必要もない。
昔の自分を未完成な存在として見る必要はないし、今の自分を完成した存在として考える必要もない。
どちらも、その時点で知っていることと、使えるものと、置かれた条件の中で判断している。
もし昔の自分と本当に会えたとしても、こちらが想像するような会話になるとは限らない。
今の自分が見せたい成果には関心を示さず、別のことを尋ねるかもしれない。
こちらが説明しようとする前に、当時の生活について話し始めるかもしれない。
その人には、その人の今日がある。
終えなければならないことがあり、明日の予定があり、今の自分にはもう思い出せない関心がある。
昔の自分は、今の自分をつくるためだけに生きていたわけではない。
その時間を、現在の成果に役立ったかどうかだけで評価することはできない。
手を加える前に
古い作品を前にすると、今なら直せるところが見つかる。
それは、以前は気づけなかったものが見えるようになったということでもある。
ただ、直せるようになったことと、直すべきかどうかは、別の問題だ。
修正するなら、何を変えたのかを知っていたい。
残すなら、なぜ残すのかを考えていたい。
当時の判断を理解できないこともあるだろう。
記録が残っていなければ、何を意図し、何を諦めたのかを確かめられない場合もある。
その不確かさまで、今の自分の判断で埋めなくてもいい。
昔の自分は何もできなかったわけではない。
今の自分も、すべてができるわけではない。
その間に、できるようになったことがある。
できなくなったこともある。
続けたことがあり、やめたこともある。
それらを一つの言葉で評価することは難しい。
昔の自分が今の自分を褒めるかどうかは、最後までわからない。
それでも、古いものと今のものを並べてみることはできる。
何が変わったのか。
何が残っているのか。
以前は難しかったことを、今はどう扱っているのか。
かつて遠くにあったものが、いつから手の届く場所にあったのか。
古い作品を直す前に、もう一度見てみたい。
何が足りないのかだけではなく、そこに何が残っているのかを。
昔は、できるようになりたかった。
今は、できることを当たり前だと思っている。
いつからそうなったのだろう。
もし昔の自分がここにいたら、褒めるより先に、こう尋ねるかもしれない。
どうやって、これができるようになったのか。
昔の自分が知ったら「よくやった!」って誇らしく思うことは何?


コメント