灰になる前の孤島

雨の深夜、駅裏の古い喫煙所にひとり立つ男性

午前2時17分

男は毎晩、駅裏の古い喫煙所にいた。

理由はない。

正確には、理由を考えることをやめていた。

仕事は好きではなかった。

人間関係は面倒だった。

将来のことを考えると、胃の奥が少し重くなった。

でも、人生が壊れているわけではない。

借金があるわけでもない。

大切な人を失ったわけでもない。

ただ、何をするにも少し遅かった。

始めようと思った時には疲れていた。

変わろうと思った時には面倒になっていた。

男は、そういう人間だった。

大きな不幸はない。

大きな成功もない。

誰かを傷つけるほど悪い人間でもない。

何もない。

ただ、少しずつ期待されなくなる。

「あいつなら、まあ仕方ない」

いつの間にか、そういう扱いをされる側になっていた。

男は一人でいることが好きだった。

誰かといると気を使う。

何を話せばいいか考える。

相手の顔色を見る。

だから一人は楽だった。

でも、スマホを開いて通知が一件もない時だけ、少し落ち着かなかった。

自分でも面倒な人間だと思った。

放っておいてほしい。

でも、完全に忘れられるのは怖い。

人間なんて、そんなものだと思った。

喫煙所は街の端にあった。

古い灰皿。

剥がれた壁。

黄色く変色した照明。

誰も掃除しない床。

雨の日には水が溜まり、冬には冷たい風が入り込む。

快適な場所ではなかった。

むしろ、少し汚かった。

男はそこが好きだった。

……いや、好きという言葉は違った。

ただ嫌いではなかった。

そこには誰も期待していなかった。

綺麗になることも。

役に立つことも。

誰かに褒められることも。

だから、そこにいる間だけは自分も何者かにならなくていい気がした。

タバコに火をつける。

煙を見る。

スマホを見る。

数分だけのつもりが何十分も経つ。

それで一日が終わる。

何年も、それを繰り返していた。

燃えた夜

その喫煙所がニュースになったのは、ある冬の夜だった。

午前2時30分、男が帰ってから15分後。

喫煙所の裏に積まれていた段ボールから火が出た。

古い商店街。

使われなくなった倉庫。

隣接した建物。

火は予想以上に広がった。

消防車の赤い光が、眠る街を照らした。

翌朝、ニュースでは短く伝えられた。

「昨夜、駅裏の喫煙所付近で火災が発生しました。出火原因を調べています」

男はテレビを消した。

自分ではない。

それは分かっていた。

証拠もない。

疑われる理由もない。

それでも落ち着かなかった。

最後にあそこにいた。

最後に煙を吐いていた。

その記憶だけが、妙に頭を刺激した。

美しくなった島

数日後、火事の跡地がテレビに映った。

焼けた灰皿。

黒くなった壁。

崩れた屋根。

そして、焼け跡から見つかった一冊のノート。

誰のものか分からない。

表紙は焦げていた。

中には短い文章が残っていた。

名前はない。

日付だけ。

「寝坊した」

「上司の話が長い」

「昼のカレーが微妙だった」

「給料日。でも何も買わなかった」

「明日から本気出す」

「また寝た」

「電話しなかった」

「腹減った」

「ねむい」

男は少し笑った。

くだらない。

本当にくだらない。

誰かに見せるためでもない。

誰かを救うためでもない。

ただ、その日の気分を書いただけ。

なのにテレビでは別の言葉が流れていた。

「孤独を抱えた人々の記録」

「小さな心の避難場所」

男は画面を見る。

そこに映っている場所は、自分が知っている喫煙所とは少し違って見えた。

写真家が来た。

記者が来た。

街の人間が昔の場所について語った。

みんな、あの場所に意味を見つけようとしていた。

男は少し気持ち悪くなった。

違う。

あそこは、そんな綺麗な場所じゃなかった。

あそこにいた人間は、もっとくだらなかった。

自分も含めて。

仕事を少しサボった人。

家族からの連絡を後回しにした人。

酒を飲んでから来る人。

何年も同じ愚痴を言う人。

変わると言いながら何も変えない人。

あそこは人生を救う場所ではなかった。

ただ、人生から少し離れる場所だった。

それだけだった。

少女

火事の後、男は少女を見なくなった。

いつも深夜になると、喫煙所の端に座っていた少女。

タバコは吸わない。

ただ煙を見ていた。

年齢も分からない。

名前も知らない。

いつからいたのかも分からない。

最後に会った日の夜、少女は燃える前の喫煙所を見ながら言った。

「なくなるんだね」

男は答えなかった。

「寂しい?」

「別に」

少女は少し笑った。

「嘘」

男は煙を吐いた。

「ここ、好きだった?」

少女は灰皿を見る。

「分からない」

「……」

「……」

少し間があった。

「でも、なくなると困る人はいたと思う」

男は黙った。

少女は続けた。

「あなたも?」

男は答えなかった。

好きだから離れられない場所もある。

嫌いなのに離れられない場所もある。

逃げていると分かっていても、そこにしかいられない夜がある。

「……たぶん」

少女は既にいなかった。

灰になる前

火事から半年後、男は跡地へ行った。

そこには新しい建物が建っていた。

ガラス張りの施設。

小さなカフェ。

植物。

綺麗なベンチ。

壁には文字があった。

「人に優しい街づくり」

男は少し笑った。

たぶん、こっちの方が正しい。

安全で、綺麗で、誰でも座れる。

昔の喫煙所より、ずっと良い場所だった。

でも、男は座らなかった。

あの汚れた灰皿の横で。

何もせず煙を眺めていた時間。

あれが良かったわけではない。

あれが正しかったわけでもない。

ただ、あの時の自分には必要だった。

男はポケットからタバコを取り出した。

しばらく眺める。

火をつけようとして、やめた。

禁煙したわけではない。

明日にはまた吸うかもしれない。

ただ今日は、煙の向こう側に逃げなくても数分くらいは立っていられる気がした。

理由は分からなかった。

男は歩き出した。

男の背中には、新しい街ができていた。

煙は消えた。

灰も残っていない。

それでも、灰になる前の時間だけは、どこかに残っている気がした。

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