娘が見ていない時間

戸棚に並ぶ三本の青い洗剤と、流し横の水切りかごに残る皿

青い洗剤が二本ある。

「今日、何買うの」

「洗剤。もうないから」

娘は戸棚を見る。

一本は手前。
もう一本は、その奥。

母も戸棚を見る。

「ないでしょ」

湯が沸く。

母は火を止め、急須に湯を注ぐ。

「お茶飲む?」

娘はまだ戸棚を見ている。

「少しだけ」

母は湯呑みを二つ出す。

片方を娘の前へ置く。

「熱いよ」

「うん」

母も座る。

少し飲む。

「今日は買い物だけ?」

「うん」

「何買うの」

母は湯呑みを持ったまま答える。

「洗剤」

娘はもう一度、戸棚を見る。

壁の時計は朝の時間を指している。

「そろそろ行く」

娘が立つ。

「もう?」

「仕事あるから」

「忙しいねえ」

玄関へ行く。

母が後ろから来る。

「じゃあね」

「気をつけて」

外へ出る。

ドアが閉まる。

     *

昼。

娘は弁当の蓋を開ける。

スマートフォンに母からの着信はない。

向かいの席で誰かが電話に出る。

「はい、もしもし」

一度だけ顔を上げる。

弁当に戻る。

     *

仕事を終える。

スーパーへ寄る。

牛乳。
卵。
豆腐。

洗剤売り場を通る。

青い容器が並んでいる。

そのまま通り過ぎる。

     *

五時を少し過ぎている。

家に着く。

鍋を火にかける。

母へ電話する。

呼び出し音。

一回。

二回。

三回。

四回。

出ない。

切る。

鍋に蓋をする。

     *

玉ねぎを切る。

五時半。

もう一度かける。

出ない。

包丁を置く。

画面には母の名前。

少し待つ。

鍋へ戻る。

     *

六時を過ぎる。

窓の外は暗い。

母へ電話する。

呼び出し音だけが続く。

「買い物かな」

電話を切る。

鍋の蓋が小さく鳴る。

     *

七時。

食卓に一人分。

テレビの音。

母からの連絡はない。

半分ほど食べて、箸を置く。

電話する。

今度は長く鳴らす。

呼び出し音が続く。

出ない。

娘は皿を流しへ持っていく。

上着を取る。

     *

八時前。

母の家。

玄関は暗い。

呼び鈴を押す。

返事はない。

もう一度。

静かなまま。

鍵を開ける。

「お母さん」

廊下の明かりをつける。

台所へ行く。

戸棚を開ける。

青い洗剤が三本並んでいる。

三本とも正面を向いている。

娘はそのまま見る。

朝は二本だった。

流しの横には皿が並んでいる。

まだ乾ききっていない。

一枚の下に水が残っている。

居間。

誰もいない。

寝室。

誰もいない。

玄関へ戻る。

靴が一足ない。

     *

母へ電話する。

廊下の奥で固定電話が鳴る。

一回。

二回。

三回。

四回。

娘は玄関に立っている。

スマートフォンを切る。

家の中が静かになる。

     *

外へ出る。

右を見る。

左を見る。

角まで歩く。

母はいない。

コンビニまで行く。

店の中を見る。

戻る。

近所へ電話する。

「今日、母見なかった?」

しばらく聞く。

「うん。分かった」

もう一人。

「夕方くらい」

聞く。

「そう」

切る。

母の家へ戻る。

玄関から台所が見える。

三本の青い洗剤が、明かりの下に並んでいる。

     *

八時半。

車を出す。

母がよく行くスーパー。

駅の前。

バス停。

小さな公園。

信号待ちで歩道を見る。

高齢の女性が一人歩いている。

顔を見る。

違う。

信号が青になる。

車を出す。

     *

十時。

娘の家。

食卓には、途中まで食べた夕食が残っている。

冷めている。

上着を着たまま座る。

母の番号。

地図。

母の番号。

時計。

また母の番号。

電話する。

出ない。

     *

十一時を過ぎる。

スマートフォンが光る。

母ではない。

消す。

母の番号を開く。

閉じる。

地図を開く。

閉じる。

水を飲む。

戻る。

座る。

「買い物だけ行って、早めに帰るわ」

朝の声だけが残る。

時計を見る。

     *

十一時半。

母の家へもう一度行く。

玄関の明かりをつける。

「お母さん」

返事はない。

朝、二人で使った湯呑みは片づいている。

戸棚を開ける。

三本。

閉める。

流しの皿は乾いている。

部屋の明かりを一つだけ残す。

鍵を閉める。

     *

零時を過ぎる。

娘は自宅に戻る。

携帯電話を充電器へ差しかける。

画面が光る。

知らない番号。

見る。

切れる。

数秒後、また同じ番号。

すぐに出る。

「はい」

「夜分遅くにすみません。警察です」

充電器に触れていた手が止まる。

名字を確認される。

「そうです」

「お母さまを保護しています」

娘は立ったまま聞く。

「お怪我はありません」

息を吐く。

「どこですか」

場所を聞く。

電話の向こうで別の声がする。

「こちらに座って待っていてくださいね」

少し離れて、

「帰るところなんです」

娘は上着を取る。

「今から行きます」

電話を切る。

鍵を取る。

玄関へ行く。

止まる。

部屋へ戻る。

財布を取る。

     *

警察署。

母は椅子に座っている。

膝に鞄。

壁の時計を見る。

入口を見る。

娘が近づく。

母が顔を上げる。

「あら」

「何してたの」

母は少し笑う。

「帰るところだったの」

「どこへ?」

母は住所を言う。

町名。

番地。

娘は最後まで聞く。

「そこ、もうないよ」

母が娘を見る。

「ない?」

「うん」

「そうなの」

母は入口を見る。

     *

「帰ろう」

母が立つ。

鞄を肩に掛ける。

自動ドアが開く。

母が右へ行く。

娘は左へ向かう。

足音が離れる。

娘が止まる。

振り向く。

「こっち」

母も止まる。

右を見る。

娘を見る。

娘はその場で待つ。

母が向きを変える。

少しずつ近づいてくる。

二人で駐車場へ歩く。

     *

車の中。

母は助手席から窓の外を見ている。

赤信号。

閉まった店。

マンションの明かり。

「こんな遅くまで悪いね」

「うん」

「仕事だった?」

娘は前を見る。

「今日はもう終わったよ」

信号が青になる。

     *

母の家。

母が鍵を開ける。

廊下の明かりをつける。

靴を脱ぐ。

娘も入る。

台所に、青い洗剤が三本並んでいる。

母はその前を通る。

戸棚を開ける。

湯呑みを二つ出す。

「お茶飲む?」

「飲む」

急須を出す。

湯を沸かす。

母は時計を見る。

「もうこんな時間」

湯が沸く。

急須に注ぐ。

少し待つ。

湯呑みに注ぐ。

娘の前へ置く。

「熱いよ」

「うん」

母も座る。

一口飲む。

娘も飲む。

「今日、遅かったね」

「うん」

母はもう一口飲む。

「明日、何時?」

「いつも通り」

「そう」

母はうなずく。

娘は戸棚を見る。

青い洗剤が三本並んでいる。

一番奥の一本まで、正面を向いている。

母は湯呑みを両手で持っている。

娘は三本を見る。

少しして、母を見る。

母はもう、お茶を飲んでいる。

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