その話、前にもしたよ

写真やスマートフォンが置かれた机に、窓辺の光と反射が重なって見える室内

「その話、前にもしたよ」

そう言われて、私は聞き返す。

「いつ?」

どこで話したのか。
その前に何をしていたのか。
何時ごろだったのか。

何も出てこない。

名前だけ出てこないときとは違う。

顔は浮かぶのに、会った場所だけ思い出せないときとも違う。

忘れていた、という感じがない。

言われるまで、そこに何かがあったこと自体を知らなかった。

「一緒にそこへ行ったよ」

「そのとき、こう言ってた」

ひとつずつ聞く。

場所だけ戻ることがある。

一言だけ、急につながることもある。

それまで何もなかったところに、そこだけ現れる。

でも、その前後は続かない。

何を聞いても、何も動かないこともある。

相手の話としてはわかる。

自分のことを話していることもわかる。

それでも、自分の中にその場面が出てこない。

写真を開く。

自分が写っている。
隣には誰かいる。

着ている服も、
いた場所もわかる。

そこに自分がいたことはわかる。

でも、写真を撮る前に何をしていたのか、そのあとどこへ行ったのかは戻ってこない。

写真の中には自分がいるのに、そこへ行くまでの自分がいない。

メッセージを開く。

自分の名前から、自分の言葉が送られている。

見覚えのある言い回し。
使いそうな句読点。
送信時刻まで残っている。

読めば、自分が書いた文章だと思える。

それでも、送ったときのことは思い出せない。

何を考えてその言葉を選んだのか。
その直前に何を読んでいたのか。

文章は残っている。

書いた側だけが、そこにつながらない。

自分の文章を、あとから来た自分が読んでいる。

覚えていないことを、覚えていない。

そのこと自体を、誰かに言われて初めて知る。

あなたが覚えていないことを、私も覚えていないことがある。

「そんなこと、あったっけ」

二人とも考える。

どちらからも、続きが出てこない。

どちらか一人が覚えていれば、そこから聞くことができる。

でも、二人とも覚えていない。

写真はない。

メッセージもない。

予定表にもない。

探す場所が、ひとつずつ減っていく。

何を探せばいいのかも、少しずつわからなくなる。

それでも、何も起きなかったということではない。

本当に何もなかったのかもしれない。

何かあって、二人とも覚えていないのかもしれない。

今ここにあるものだけでは、その二つを分けられない。

でも、ここで少し止まる。

あなたが覚えていないことを、私も覚えていない。

私はそう書いている。

まるで、二人が同じものを忘れたことが、最初からわかっているように。

あなたが覚えていないものと、私が覚えていないもの。

その二つが同じものだったのか、どうやって確かめればいいのだろう。

覚えているものなら、並べることができる。

同じ場所だった。

同じ言葉だった。

同じ順番だった。

違っていれば、違っていることもわかる。

けれど、比べようとしているものが、どちらにも残っていない。

それでも私たちは、

「それ、覚えてる?」

と言う。

「覚えてない」

「私も」

その瞬間、別々だったかもしれない二つの欠落が、ひとつの「それ」を指し始める。

「それ」と言う前には、あなたが覚えていないものと、私が覚えていないものがあった。

「それ」と言ったあとには、二人が覚えていないひとつのものがある。

でも、本当に同じものだったのかは、もう確かめられない。

同じ出来事を、二人とも覚えていないのかもしれない。

別々のことが抜けていて、あとから同じものとして扱っているのかもしれない。

覚えているものなら比べられる。

覚えていないものには、その比べるためのものがない。

あとから、記録が見つかることもある。

二人が写った一枚の写真。

短いメッセージ。

そこに二人がいたことはわかる。

言葉を交わしたこともわかる。

「何かあったのかもしれない」は、少しずつ「何かあった」に近づいていく。

それでも、自分の中では何も動かない。

そのとき何を見ていたのか。

どんな声で話していたのか。

何を考えていたのか。

写真は答えない。

送信時刻も答えない。

記録からわかることと、そこには残らないことがある。

残っているものがあれば、そこから確かめることはできる。

ここにいた。
この言葉を送った。
この時刻には、まだやり取りをしていた。

けれど、それを知ることと、そのときのことを思い出すことは違う。

何も残っていなければ、始める場所もない。

何かを失ったという感覚さえないまま、
その場所を通り過ぎることもある。

「その話、前にもしたよ」

そう言われたあとも、私はまだ思い出せない。

言われなければ、「思い出せないことがあること」にも気づかなかった。

覚えていないことを、覚えていない。

あなたが覚えていないことを、私も覚えていない。

その二つが、本当に同じものなのかもわからない。

残っているものがあっても、そこから戻らないものがある。

何も残っていなければ、確かめることもできない。

でも、何も起きなかったということではない。

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