靴を裏返すと、右だけ先に古くなっていた。
右のかかとの外側は斜めに削れ、左にはまだ角が残っている。
同じ日に買って、ずっと二つ一緒に歩いてきた靴だった。
床に並べる。
上から見ると、それほど違わない。
同じ色。
同じ形。
同じ紐。
つま先にはどちらも細かな傷があり、側面には薄い汚れがついている。
履き口も同じくらい柔らかくなっている。
右だけが特別古く見えるわけではない。
もう一度裏返す。
違いは下にある。
左のかかとには、まだ四角い輪郭が少し残っている。
右は角が丸くなり、そのまま外側へ向かって薄くなっている。
指でなぞる。
左にはわずかな段差がある。
右にはない。
何かにぶつけて欠けた傷ではなかった。
そういう傷なら、壊れた場所が分かる。
これは、壊れたという感じがしない。
毎日少しずつ消えていった形だった。
いつからこうなったのかは分からない。
昨日ではない。
たぶん先週でもない。
最初に履いた日から、もう始まっていたのかもしれない。
箱を開けたとき、左右の靴底はほとんど同じだった。
新品のゴムには細かな模様が残り、溝は深く、かかとの角もはっきりしていた。
右だけ先に履いたことはない。
右だけ長い距離を歩かせたこともない。
玄関を出るときは、いつも二つ一緒だった。
駅まで歩く。
階段を上る。
信号で止まる。
曲がる。
電車を降りてまた歩く。
雨の日には一緒に濡れた。
暑い日は同じアスファルトを踏んだ。
帰宅すれば、同じ玄関に並んだ。
右足だけ別の場所へ行ったことはない。
それでも、同じようには減らなかった。
歩くとき、右足を一歩出せば、そのあとには左足が出る。
右。
左。
右。
左。
見た目だけなら、かなり公平な動作に思える。
片方だけ家へ置いていくことはできない。
一歩進むたびに、二つとも同じ距離を運ばれている。
なのに、地面に残してきたものは同じではなかったらしい。
右足を地面へ置く。
体重が移る。
かかとが離れる。
左足が出る。
それを一日に何千回も繰り返している。
けれど、その一回一回を見たことはない。
歩いている最中に、
今の右足は何度傾いていたか。
かかとのどこから着いたか。
地面から離れる直前に、どちらへ擦れたか。
そんなことを考えない。
駅へ行こうと思えば、身体は駅へ向かう。
コンビニへ行こうと思えば、立ち上がって歩き始める。
歩くことそのものは、ほとんど身体へ任せている。
だから、自分がどう歩いているのかを、自分はあまり知らない。
試しに立ってみる。
両足を床につける。
まっすぐ立っているつもりになる。
右に体重が寄っているのかもしれないと思う。
少し左へ戻す。
すると、今度は左へ寄りすぎている気がする。
元はどこだったのか分からなくなる。
廊下を歩いてみる。
右足を見る。
かかとを見る。
足先を見る。
下ばかり見ていると、歩幅が小さくなる。
首が前へ落ちる。
歩く速度も変わる。
右のかかとを意識した瞬間、その一歩はもう普段の一歩ではない。
普通に歩こうとする。
普通が何だったのか分からなくなる。
腕の振り方まで気になってくる。
足音が急に大きく聞こえる。
意識せずにできていたことは、意識すると少し形を変える。
自分の顔なら鏡で見られる。
髪が伸びたことも分かる。
手なら目の前に出せる。
指先の乾燥も、小さな傷も見える。
けれど、自分が歩いている姿を、そのまま自分で見ることはできない。
鏡の前で歩いてみても、鏡を見るための歩き方になる。
片足を前に出して止まってみても、それは歩行の途中に似た姿勢でしかない。
立ち止まった瞬間、歩き方はなくなる。
だから、靴底に残った差を見る。
右の外側だけが減っている。
そこまでは分かる。
なぜかは分からない。
右へ体重を預けることが多いのかもしれない。
右足の向きが少し違うのかもしれない。
疲れたときだけ何かが変わるのかもしれない。
歩いてきた道も関係しているかもしれない。
でも、靴底はそのうちのどれなのかを教えない。
右が減っている。
ただ、その結果だけが残っている。
そこが少し面白かった。
理由まで刻まれていたら、これはもっと単純だったと思う。
「右足に体重をかけすぎています」
「この角度で着地しています」
そんな文字が靴底に出てくれば、確認して終わる。
けれど実際に残るのは、削れた形だけだ。
何が起きたのかを説明しないまま、起きたことだけがある。
しかも、一度の出来事ではない。
駅へ向かった朝の一歩。
疲れて帰った夜の一歩。
雨の中を急いだ日。
荷物を持っていた日。
近所しか歩かなかった日。
知らない町を長く歩いた日。
どれか一つが右のかかとを斜めにしたわけではない。
一歩だけなら、ほとんど何も変わらない。
十歩でも見えない。
百歩でも、たぶん分からない。
それが何千回、何万回と重なる。
そこで初めて、左右を並べたときに分かるほどの差になる。
一回では見えないものが、繰り返すことで形になる。
昨日と今日の靴底を比べても、おそらく違いは見つけられない。
それでも変わっている。
変化が小さすぎて、途中では見えないだけだ。
朝、靴を履く。
夜、脱ぐ。
次の日も履く。
雨で濡れれば乾かす。
泥がつけば拭く。
小石が挟まれば取る。
目につく汚れはなくなる。
けれど、削れた厚さは戻らない。
一日分ずつ、ほんの少しだけ減ったまま残る。
時間は時計にも残る。
写真にも残る。
カレンダーにも残る。
でも、何千回地面へ触れたかは、それらには書かれていない。
靴底にも数字は出ない。
三万二千歩。
雨の日、四千八百歩。
疲れていた夜、千二百歩。
そんな区切りはない。
日付もない。
場所もない。
ただ、右側が少し薄くなっている。
その面に、昨日と今日の境界線はない。
どこまでが一年前で、どこからが先週なのかも分からない。
古い一歩の上に次の一歩が重なり、さらにその上から別の一歩が重なる。
最後には、一つの形だけが残る。
写真なら一瞬を取り出せる。
日記なら順番を残せる。
靴底には、そのどちらもない。
順番が消えたあとに残った形だけがある。
たとえば、何も覚えていない日がある。
朝起きて、出かけて、帰って、眠った。
何を食べたか覚えていない。
誰とすれ違ったかも覚えていない。
駅まで歩いたことさえ、わざわざ記憶していない。
それでも、その日履いていた靴は地面に触れている。
覚えている一日も、忘れた一日も、靴底の上では同じように重なる。
楽しかったかどうかも残らない。
急いでいたかどうかも、そこからは読み取れない。
旅行へ行った日の一万歩と、近所を往復した日の千歩が、同じ面の中に混ざっていく。
意味は消える。
回数だけが物を変える。
それなら、これは記録と言うより、記録が終わったあとに残ったものに近い。
読むためにつくられてはいない。
思い出すためにつくられてもいない。
それでも、何もなかったわけではない。
靴底を見ていると、身体そのものより、身体が触れていた物の方がよく見えることがある。
いつも同じ場所を持つ鞄の取っ手。
端だけ光沢が出た机。
片側だけ柔らかくなった椅子。
スマートフォンの画面につく指の跡。
よく触る鍵の角。
どれも、記録しようとして残したものではない。
使った結果、勝手に残った。
靴底もその一つなのだと思う。
しかも靴底は、ほとんど見られない場所にある。
歩いているあいだは地面を向いている。
帰宅して靴を脱いでも、床へ伏せる。
翌朝、また履く。
毎日使っているのに、いちばん長く地面へ触れている面をほとんど見ない。
身体と地面のあいだにある薄い層。
夏の熱い舗装。
冬の冷たいコンクリート。
雨で濡れたタイル。
駅の階段。
スーパーの床。
土。
砂利。
横断歩道の白い塗装。
そこへ直接触れるのは足ではなく、靴底だ。
身体は靴の中にいる。
地面は靴の外にある。
その境目で、毎日少しずつ形が変わる。
水たまりを踏めば水は乾く。
砂がついても、いずれ落ちる。
泥を洗えば、その日の汚れはなくなる。
場所そのものは残らない。
駅の床も、坂道も、旅行先の舗装も持ち帰れない。
でも、そこで起きた摩擦だけは、厚さの差として少しずつ加わる。
だから、この右側の減り方が身体だけのものなのかも分からない。
いつも通る坂が関係しているかもしれない。
毎日同じ方向へ曲がる角。
同じ側から上る階段。
立ったまま待つ時間。
荷物を持つ側。
どれがどれだけ関係しているのかは、もう分けられない。
身体と場所が何度も出会った結果が、一つの面に混ざっている。
最初に右の摩耗を見つけたとき、少し不安になった。
右足に何か問題があるのではないかと思った。
歩き方が悪いのかもしれない。
姿勢を直した方がいいのかもしれない。
けれど、靴底を見てもそこまでは書いていない。
左が正しいとも書かれていない。
右が間違っているとも書かれていない。
二つが違う。
確認できるのは、それだけだった。
考えてみれば、右と左が同じである必要があると思っていたこと自体が少し不思議だった。
同じ身体についている。
似た形をしている。
二つ一組の靴を履く。
交互に歩く。
それだけで、同じように使われている気になっていた。
でも、手なら最初から違う。
字を書く手がある。
鞄を持ちやすい側がある。
スマートフォンを持つ側も決まってくる。
ドアノブへ自然に伸びる手がある。
信号を待つときに体重を預ける脚がある。
左右は一組でも、同じ仕事をしているわけではない。
それでも靴は、右と左を一足として売られている。
右だけ先に買い替えることはほとんどない。
片方が先に減っても、もう片方だけ残して履き続けることもない。
始まりは同じ日。
終わりもだいたい同じ日になる。
使われ方は違うのに、寿命だけは二つ一緒に決められる。
履き潰した靴を捨てる前に、上から見る。
まだ履けそうに見える。
布は破れていない。
紐も切れていない。
つま先に穴もない。
洗えばもう少しきれいになるかもしれない。
横から見る。
少し形が崩れている。
それでも致命的には見えない。
裏返す。
そこでようやく、時間が表に出る。
右のかかとは斜めになり、溝が浅くなっている。
場所によっては、模様がほとんど消えている。
左にはまだ残っている。
新品のころ、ここがどんな形だったのか思い出そうとする。
もっと角があったはずだ。
もっと深い溝があったはずだ。
でも、正確には覚えていない。
新品の靴底を覚えておこうと思って買うことはほとんどない。
変わる前の姿を覚えていないから、どれくらい変わったのかも完全には分からない。
目の前には最後の形だけがある。
この形になるまで、自分は歩いた。
それ以上のことは分からない。
古い靴を捨てる。
玄関から一足なくなる。
新しい箱を開ける。
紙をどける。
新しいゴムの匂いがする。
靴底を見てみる。
右も左も厚い。
溝が深い。
角が残っている。
二つを並べても、ほとんど差がない。
まだこちらの歩き方を知らない。
足を入れる。
最初は少し硬い。
かかとが落ち着かない。
甲の部分にも張りがある。
何日か履く。
中敷きが少し沈む。
履き口が柔らかくなる。
紐を締める位置が決まってくる。
足を入れたときの違和感が減る。
「馴染んできた」と思う。
その言い方では、靴の方が身体に合わせて変わったことになる。
たしかにそうなのだと思う。
硬かった部分が柔らかくなり、中敷きが沈み、曲がる位置が決まる。
けれど、その形をつくっているのは毎日入っている身体でもある。
同じ場所を押す。
同じところを曲げる。
同じ方向へ擦る。
靴が身体へ馴染むのと同時に、身体の使い方が靴へ少しずつ移っていく。
一か月経つ。
まだ裏返さない。
二か月経つ。
ある日、靴を持ち上げる。
また右側から減っている。
前の靴とまったく同じではない。
素材も違う。
底の形も違う。
その間に歩いた道も違う。
それでも、右のかかとの外側が少し早く丸くなっている。
前の靴はもうない。
前の摩耗も捨てた。
新しい靴には何も引き継がれていないはずなのに、似た差が戻ってくる。
靴は交換できる。
身体は続いている。
古い靴を捨てたとき、一度すべての摩耗は消えた。
右と左はまたほとんど同じ厚さへ戻った。
でも、それは身体がまっさらになったということではない。
記録される面だけが交換された。
身体はまた歩く。
新しい靴底へ、一から同じような差をつくり始める。
そう考えると、新品の靴底が少し奇妙に見える。
そこにはまだ何もない。
雨の日もない。
帰宅の道もない。
遠くまで歩いた日もない。
急いだ朝もない。
地面へ触れたこちらの時間が、まだ一度もない。
最初の一歩を踏む。
見た目は変わらない。
二歩目。
三歩目。
百歩。
まだ分からない。
千歩。
何も起きていないように見える。
それでも、途中では見えない変化が始まっている。
毎晩、靴底を写真に撮れば途中を見ることはできるのかもしれない。
同じ角度で撮影して、厚さを測る。
昨日と今日を拡大して比べる。
そうすれば、右と左の差がいつ現れ始めたかを、もう少し細かく追えるかもしれない。
けれど普段はそんなことをしない。
だから変化の途中はほとんど消える。
気づいたときには、すでに形になっている。
昨日突然斜めになったわけではない。
先週突然古くなったわけでもない。
ほんの少し斜めな状態から、もう少し斜めな状態へ移った。
また次の日、もう少し変わった。
そこに境目はない。
「この日から右だけ減っています」と言える一日は存在しないのかもしれない。
新品と古い靴の境目も同じだ。
買った日は分かる。
捨てた日も分かる。
その間はほとんど区切られない。
何百日分もの小さな変化がつながっている。
ある日それを見つける。
変化した瞬間より、気づいた瞬間の方がずっと後に来る。
右のかかとが減っていると知ってからも、歩き方はそれほど変わらなかった。
最初の数分だけ気になる。
右足がどう地面に着いているのか見る。
少し慎重に歩く。
けれど信号が変わる。
人を避ける。
次に行く場所を考える。
スマートフォンを見る。
気づけば右足のことを忘れている。
歩くことはまた身体へ戻っている。
右。
左。
右。
左。
こちらが見ていなくても、身体は続ける。
考えなくても駅へ着く。
一歩ずつ確認しなくても帰宅できる。
そのことに少し安心する。
もし歩くたびに、足首の角度や重心を自分で決めなければならなかったら、家を出るだけで疲れてしまう。
身体は多くのことを、いちいちこちらへ報告しない。
その代わり、ときどき結果だけを残す。
靴底は、こちらが見ていないあいだに変わっている。
誰にも見られず。
一日ごとの差も分からないまま。
右の外側から少しずつ。
そしてある日、裏返される。
そこで初めて、長いあいだ続いていたことが見える。
どの日がいちばん削ったのかは分からない。
どの道が強く残ったのかも分からない。
右足が何をしていたのかも完全には分からない。
分かるのは、右と左が同じではなかったということだけだ。
捨てる前に、もう一度靴を裏返す。
溝の奥に小さな石が挟まっている。
指で取る。
石は簡単に外れる。
その下には、もう戻らない摩耗した面がある。
左には残っている模様が、右にはほとんどない。
歩いた場所はもうそこにはない。
雨もない。
駅もない。
夜道もない。
何を考えて歩いていたのかも残っていない。
ただ、何度も地面へ触れた結果だけがある。
思い出せない何千もの一歩。
自分では見ることのできなかった身体の動き。
身体と地面のあいだで、毎日少しずつ起きていたこと。
靴を戻す。
上から見る。
ただ古くなった靴に見える。
もう一度、裏返す。
右と左が違う。
そこにだけ、歩いてきた時間が残っている。


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