十四歳の彼は、自分がここにいる理由を知らなかった。
知らないまま、毎日のようにその理由を考えていた。
そして高校に入ると、その問いを忘れる時間が増えていった。
自分はなぜ存在しているのか。
その問いを持ち始めたのは十四歳より前だった。十歳になる前には、もうあったという。
何か大きな出来事をきっかけに考え始めたのかは、残されていない。
気づいたときには、そこにあった。
答えは見つからなかった。
そもそも正解があるのかも分からなかった。
何を答えても、その人にとっては間違いではないのかもしれない。
けれど、「何を答えてもいい」ということは、彼にとって自由ではなかった。
誰も答えを決めてくれない、ということでもあった。
自分がここにいる理由を、自分で見つけなければならない。
頼れる大人がいなかったわけではない。
生活の中には大人がいた。
困れば助けてもらえることもあっただろう。
それでも、この問いをそのまま渡せる相手はいなかった。
何を言ってほしいのか、自分でも分からなかった。
大丈夫だと言ってほしいのか。
いつか分かると言ってほしいのか。
意味なんてなくてもいいと言ってほしいのか。
どれも少し違った。
だから、結局は自分で考えた。
何度も同じところへ戻った。
自分はなぜここにいるのか。
自分がいなくても同じなのではないか。
その問いは、生活から切り離された哲学ではなかった。
彼にとっては日々の中にあった。
中学生になると、彼は自分の存在を周囲に示そうとした。
ここにいる。
自分はここにいる。
そう知らせるように、自分なりに存在感を作ろうとした。
誰かに名前を呼ばれる。
何かを頼まれる。
自分がしたことに反応が返ってくる。
誰かの記憶の中に残る。
そういう小さな出来事が、自分がそこにいることを確かめる方法になった。
現在の心理学では、人生の意味は一つの感覚だけではないと考えられている。
人生や出来事がある程度つながって見えること。
向かう先があること。
そして、自分が存在していることには何らかの重要性があると感じられること。
彼が探していたものに近いのは、最後の感覚だったのかもしれない。
何を目指すかよりも先に、
自分がここにいることで、何かが変わるのか。
そのことを知りたかった。
中学三年生になると、高校を選ぶ時期が来た。
彼には一つだけ期待があった。
高校に入れば、少しは変わるだろう。
何が変わるのかは分からない。
自分なのか。
周囲なのか。
考え方なのか。
ただ、今いる場所から別の場所へ移れば、今とは違う自分になれるような気がした。
未来はまだ決まっていない。
だから期待できた。
同時に、決まっていないから不安でもあった。
自分で選べるということは、自分で選ばなければならないということでもある。
青年期には、進路、友人、所属する集団、その後の仕事など、それまで誰かによってある程度決められていたものが、少しずつ自分の選択になっていく。
「自分は何者なのか」という問いが、「自分は何を選ぶのか」という問題へ近づいていく。
ある日、高校見学へ行った。
その日の彼は、少し変に上機嫌だった。
まだそこへ入学できると決まったわけではない。
ただ見に来ただけだった。
それでも、その場所は明るく見えた。
自分の知らない人たちがいた。
知らない関係があった。
知らない一日が流れていた。
その中に、自分がいる可能性があった。
ここへ来たい。
そう思った。
それまで未来は、時間の先にあるものだった。
何年後。
何歳。
高校生。
大人。
高校見学のあと、それは場所になった。
行きたい場所になった。
今とは違う自分がいるかもしれない場所になった。
その学校へ入学した。
友人をたくさん作ろうと思っていた彼には、早い段階で頼れる友人ができた。
そして部活動を選ぶことになった。
入学前には運動部へ入ろうと思っていた。
ところが、ある部活を見学したとき、直感的に思った。
ここだ。
細かく比較して決めたわけではない。
理由を順番に並べたわけでもない。
入部届を出した。
そのときには紙を一枚提出しただけだった。
あとから見れば、その紙一枚が高校生活の大部分を変えることになる。
人は、自分が何者かを完全に理解してから選ぶわけではない。
むしろ、選んだあとで生活が変わり、その中で自分も変わっていく。
彼にも、それが起きた。
部活は忙しかった。
溜息をつく暇もないくらい、次々にすることがあった。
学校へ行く。
人に会う。
部活へ行く。
何かをする。
帰る。
翌日の準備をする。
また次の日が来る。
それまで、一日の中には考える時間がたくさんあった。
何もしていない時間ができると、問いが戻ってきた。
自分はなぜここにいるのか。
何のために存在しているのか。
高校に入ると、その問いが聞こえない時間が増えた。
消えたわけではない。
解決したわけでもない。
ただ、それより先に、人の声があった。
今日することがあった。
誰かに呼ばれることがあった。
自分から誰かに声をかけることがあった。
意味について考えてから生きるのではなく、生きているうちに一日が終わった。
翌日には、またすることがあった。
人生の意味は、大きな使命を見つけたときにだけ生まれるものではない。
起きる。
出かける。
人に会う。
いつものことをする。
戻る。
そうした反復の中でも、自分の生活がどこかにつながっているという感覚は作られる。
彼は「自分の存在意義」を説明できるようにはならなかった。
それでも生活は、以前より濃くなった。
友人がいた。
先輩がいた。
部活動があった。
やがて、後輩が入ってきた。
誰かが自分を知っている。
自分も誰かを知っている。
自分が今日そこにいなければ、ほんの少しだけ違う一日になる。
それまで彼は、自分がここにいることを誰かに分かってもらおうとしていた。
今度は、それを確認する前に、すでに関係の中にいた。
一年が過ぎた。
彼の感覚では、一週間ほどだった。
それほど速かった。
先輩たちが卒業した。
それまで当たり前にいた人がいなくなる。
今度は自分たちが残る側になる。
彼は、後輩にもこの場所で感じたものを知ってほしいと思った。
後輩のため。
部活のため。
人のため。
そう考えて動くようになった。
少し前まで、彼は自分の存在を確かめようとしていた。
今度は、自分のことを確認するより先に、誰かのためにすることを探していた。
役に立てば存在価値が得られる、ということではなかった。
誰かがいるから、その人のために何かをしたくなる。
場所があるから、その場所を少しでもよくしたくなる。
自分の内側だけを見続けなくてもよいほど、外側に関わるものが増えていった。
「私は何者か」という問いに、彼は言葉で答えなかった。
高校へ行った。
部活を選んだ。
人と関わった。
後輩を迎えた。
それを繰り返していた。
考えて見つけた自分ではなく、行為のあとに残った自分がいた。
しかし、問いそのものがなくなったわけではなかった。
ある日、彼は突然部活を休んだ。
それまでほとんどなかったことだった。
その日、昔の問いを思い出した。
そして、以前にはなかった問いが次々に出てきた。
こんなに楽しくていいのか。
こんなに幸せでいいのか。
楽しいなら、それでいいはずだった。
幸せなら、喜べばいいはずだった。
彼自身も、ずっと今とは違う場所へ行きたいと思っていた。
高校へ入れば何かが変わるかもしれないと期待していた。
そして実際に変わった。
友人ができた。
場所ができた。
役割ができた。
毎日は速くなった。
望んでいたものに近い時間の中にいた。
それなのに、そこにいる自分を疑った。
最初の問いは、
自分はなぜ存在するのか。
だった。
今度は、
自分はここにいていいのか。
に近かった。
幸福が目の前にあるのに、それを自分が受け取っていいのか分からない。
許可を出す人などいない。
それでも、どこかから許可されなければならないような気がする。
問いは滝のように出てきた、と当時の彼は書いた。
悲しくなった。
泣きたくなった。
一人になりたくなった。
だから休んだ。
誰かに会えば、説明しなければならない。
しかし、自分でも説明できない。
楽しいのに苦しい。
幸せなのに怖い。
存在する理由がないことに苦しんでいた少年が、今度は幸福の中に存在している自分を疑っている。
問いは消えずに、形を変えていた。
一日考えた。
すべての答えが出たわけではない。
当時の文章にも、「答えを一部だけ発見できた」とある。
一部だけ。
その言い方は残しておいた方がいい。
全部分かったことにしていない。
何かを少しだけ見つけ、翌日へ進んだ。
彼は人のいる場所へ戻った。
自分が考えていたことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
完全に言葉にはできなかった。
それでも、目の前にいた人たちは理解しようとしてくれた。
それだけで状況は変わった。
誰かが「あなたの存在意義はこれだ」と教えたわけではない。
彼の代わりに問いへ答えたわけでもない。
ただ、そこにいた。
人は、どれだけ近くにいても完全には同じ経験を持てない。
自分の人生を、別の人に代わってもらうこともできない。
何を選ぶかも、何を失うかも、最後には自分のものとして残る。
それでも、完全には分かり合えないことと、一緒にいることは矛盾しない。
説明できない部分が残ったままでも、関係が切れないことがある。
彼は泣いた。
うれし涙だった、と書いている。
その日から、この人たちのためにもっと何かをしたいと思った。
以前から「人のために」と考えていた。
けれど、少し順番が変わっていた。
誰かに必要とされれば、自分には価値がある。
そう証明したいのではない。
自分がうまく説明できないままでも、そこにいてくれた人がいた。
だから、自分もその人たちがいる場所に何かを返したかった。
時間が過ぎた。
高校三年生の終わりが近づいた。
進路はすでに決まっていた。
それでも、一つだけ気になることがあった。
卒業ではない。
部活を引退することだった。
部活は、いつの間にか高校生活の一部分ではなく、生活そのものの一部になっていた。
入学することより。
卒業することより。
そこを離れることの方が大きく感じられた。
どれだけ大切な場所でも、そこには永遠にいられない。
どれだけ自分の一部になっても、時間が来れば離れなければならない。
選択には、選ばなかったものが残る。
時間には、戻れない場所ができる。
青春が可能性の時間であるなら、同時に、可能性が少しずつ閉じていく時間でもある。
卒業式の日。
彼は式を「さらっと」終え、部室へ向かった。
一般には大きな節目とされる卒業式より、そのあとの時間の方が彼には重要だった。
後輩たちが卒業を祝ってくれた。
その時間は、卒業式より濃く、長く感じられた。
実際に何分だったのかは関係ない。
一年が一週間のように過ぎることもあれば、短い時間が長く残ることもある。
高校へ入ってから、時間はずっと速かった。
最後だけ、その速度が少し変わる。
もう終わると知ると、それまで背景だったものが前に出てくる。
人の顔。
声。
部室。
何度も繰り返した時間。
彼は涙ぐみながら、後輩へ「その全て」を引き継いだと書いた。
もちろん、すべてを渡すことはできない。
自分が感じた楽しさを、そのまま渡すことはできない。
同じ人間関係も、同じ時間も再現できない。
次にそこへいる人には、その人たちの時間が始まる。
だから引き継ぐということは、自分たちの時間を保存することではなかったのだと思う。
自分たちがいた場所を空けること。
次の人がそこで次の時間を始められるようにすること。
自分がいた証拠を残し続けるのではなく、自分がいなくてもその場所が続く状態を作ること。
そこで、最初の問いが少し別の形になる。
自分には意味があるのか。
そこから、
自分はここにいていいのか。
そして最後には、
自分がここを離れたあと、何が残るのか。
自分がいなくなっても、世界は続く。
部活も続く。
後輩は次の日を生きる。
学校には新しい人が入ってくる。
自分がいなくても困らない日が、やがて来る。
それは、十四歳のころの彼が怖れていたことに近い。
自分がいなくても同じなのではないか。
しかし、高校生活の終わりで同じ事実に触れたとき、意味は少し違っている。
世界が自分なしでも続くことと、自分がそこにいた時間が無意味であることは、同じではなかった。
自分が永遠に必要とされ続けなければ、存在した意味が失われるわけではない。
誰かの後に入り、
そこで時間を過ごし、
次の誰かへ場所を渡す。
自分も、その流れの一部になる。
青春を「成長」という一言でまとめると、この揺れが消えてしまう。
彼は一方向に強くなったわけではない。
存在について考えなくなったあと、また考えた。
人に囲まれたあと、一人になりたくなった。
幸福を得たあと、その幸福を疑った。
所属したあと、そこから離れた。
問いは解決されず、形を変えながら残った。
それでも、最初と最後では何かが違っている。
最初の彼は、存在意義を答えとして探していた。
どこかに正しい理由があり、それを見つければ自分がここにいていいと分かるような気がしていた。
高校生活で起きたことは、そうではなかった。
高校へ行った。
友人ができた。
部活を選んだ。
忙しくなった。
先輩が卒業した。
後輩が来た。
誰かのために動いた。
一日休んだ。
戻った。
理解しようとしてくれる人がいた。
引退した。
卒業した。
どれも、それだけなら小さな出来事だった。
けれど、その連続の中で、十歳になる前から抱えていた問いが聞こえない時間があった。
人生の意味を発見したからではない。
生活があったからだ。
自分を説明するより先に、その日があった。
自分の価値を決めるより先に、人がいた。
自分がここにいてよい理由を探すより先に、すでにそこにいた。
青年期は、自分というものがまだ決まっていないことに気づく時期でもある。
進路を選ぶ。
関係を選ぶ。
場所を選ぶ。
そのたびに、何かを選ばずに残す。
自由だから不安になる。
可能性があるから迷う。
自分だけでは生きられないのに、最後には自分で選ばなければならない。
人といることで自分が見え、自分と他者が完全には同じになれないことも知る。
そして、どれだけ重要な時間にも終わりがあることを知る。
それらは、青春の外側にある哲学ではない。
進学すること。
一枚の入部届を書くこと。
一日休むこと。
翌日に戻ること。
卒業式のあとに部室へ行くこと。
そういう出来事の中に、すでにある。
存在意義も同じだった。
どこかから与えられる一つの答えではなかった。
人生が少しつながって見えること。
向かう先があること。
自分が誰かや何かとの関係の中にいること。
自分が存在したことで、ほんの少しでも何かが変わったと感じられること。
それらは一度完成して終わるものではない。
場所が変われば組み直される。
人と離れれば揺れる。
役割がなくなれば、また分からなくなる。
十四歳の彼は、それを知らなかった。
だから「存在意義」という一つの言葉の中に、答えを探した。
高校生になった彼も、その答えを説明できるようになったわけではない。
ただ、
友人がいた。
部活があった。
後輩がいた。
忙しい一日があった。
休んだ日があった。
戻る場所があった。
理解しようとしてくれる人がいた。
離れなければならない日が来た。
彼は、それらを通過した。
そして高校生活は終わった。原稿も、その先を詳しくは書いていない。
彼は新しい道へ進み始めた。
十歳になる前から抱えていた問いに、最終的な答えが出たわけではない。
それでも、三年間の中には確かに、問いを考えなくてもよい時間があった。
自分がなぜ存在するのか分からないまま、
そこにいた。
人と過ごした。
何かをした。
誰かへ渡した。
そして離れた。
存在意義は、生きる前に見つけておかなければならない理由ではなかったのかもしれない。
少なくとも、あの三年間はそうだった。
少年は存在意義を見つけなかった。
存在意義が分からないまま、三年間を生きた。
その三年間が終わったあと、
そこに意味があったことだけが残った。


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