私が引っ越してから不思議なことが続いた。
最初は気のせいだと思った。
部屋の机にはいつも、一冊のノートを置いていた。
何も書いていない、まっさらなノート。
ある朝そのノートを開くと、1ページだけ増えていた。
誰か知らない人の文字。
「昨日、玄関で靴を脱ぐ音がした」
それだけが記されていた。
日記でもない。、予定でもない。、誰かへの手紙でもない。
ただ、そう書かれていた。
翌朝も、1ページ増えた。
「コップを置く音が少し大きかった」
その次の日は、
「窓を2度閉めた」
どれも、自分では覚えていないような、小さな出来事ばかりだった。
最初は誰かのいたずらだと思った。
だから監視カメラを付けた。
玄関も、机も、窓も映る位置に。
翌朝、映像を見返す。
でも夜の部屋には何も映っていなかった。
誰も入っていない。
ノートにも触れていない。
午前3時17分。
音だけが記録されていた。
紙を1枚づつ、ゆっくりと捲る音。
映像を止めて、何度も音だけを聞いた。
不思議なことに、聞くたびにページを捲る枚数だけが変わった。
それだけだった。
それから毎朝、ノートを開くことが日課になった。
そしてある夜、駅を出ると突然雨が降った。
私は急いで帰り、濡れた折り畳み傘を玄関に立て掛ける。
部屋へ入り、無意識にノートを開く。
そこには、
「玄関には、濡れた傘が1本ある」
とだけ書かれていた。
予言ではなかった。
報告とも違った。
ただ、この部屋には、私が見たものを、私より少し遅れて見ている誰かがいる。
そんな考えが、一度だけ頭をよぎった。
その考えは、すぐに忘れることにした。
そんな気がした。
その日を境に、文章は少しだけ変わった。
「今日はこちらを見ていた」
その日から、ページを捲る前に、部屋を見回す癖がついた。
誰もいない。
そう確認してから、ノートを開くようになった。
そう思って振り返る。
何もない。
それでも、「何もない」という確信だけが少し揺らいだ。
ある朝。
ノートは白紙だった。
ページは増えている。
けれど一文字も書かれていない。
私は、その白紙のページを閉じた。
それ以上、確かめようとは思わなかった。
翌朝からページは増えなくなった。
それから何年も経って、引っ越しの日が来た。
荷物を運び終え、最後に部屋を見回す。
机の周りはどこもかしこも空だった。
ノートもない。
電気を消し、玄関の鍵を閉める。
廊下を歩き始める。
数歩進んだところで、後ろから音がした。
紙をゆっくりと捲る音だった。
立ち止まる。
振り返ろうとして、足だけが止まった。
そのまま、振り返らずに歩いた。
理由は、今でも思い出せない。
ただ、振り返ってはいけない気がした。
そのまま階段を下りる。
外へ出る。
空は薄く曇っていた。
それ以来、あの部屋を思い出すことはほとんどない。
それでも新しいノートを開くたび、最初のページだけは少し時間を置いてから捲る。
その癖だけが、あの部屋から持ち帰ったものだった。
もし、あの日の続きを書こうとしている誰かがいるなら、邪魔をしたくないからだ。
あの部屋で何が起きていたのか、今でも分からない。
ただ、知らないものにはまだ、名前がないだけなのかもしれない。


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