久しぶりに着た上着のポケットから、半年前のレシートが出てきた。
飲み物。パン。小さな菓子。
その日のことは何も覚えていないのに、六百円ほど使ったことだけが残っていた。
紙は一度折られたあと、その形のまま少し丸くなっている。
印字はまだ読める。
店の名前。
時刻。
商品名。
金額。
どこかのコンビニへ入った。
棚から飲み物を取った。
パンを選んだ。
小さな菓子も一つ持った。
レジへ行った。
支払った。
レシートを受け取った。
そのあと、上着のポケットへ入れた。
そこまでは分かる。
その日にどこへ向かっていたのかは分からない。
仕事の途中だったのか。
帰るところだったのか。
誰かといたのか。
一人だったのか。
飲み物の名前は残っている。
パンの値段も残っている。
買った時刻まで分かる。
それなのに、そのとき自分が何を考えていたのかは何も出てこない。
レシートを裏返す。
何もない。
もう一度表を見る。
やはり、何も思い出さない。
ただ、その日にこの店へ入ったということだけが、紙の上に残っている。
*
もう一つのポケットに手を入れる。
指先に紙が触れる。
小さく折られている。
開く。
数字が数桁。
それだけだった。
説明はない。
誰が書いたのか分からない。
自分の字にも見える。
何の番号なのかも分からない。
電話番号にしては短い。
受付番号。
ロッカー。
整理券。
型番。
何かの寸法。
どれでもありそうで、どれとも決められない。
その紙がなくても半年間困らなかった。
もう必要ないのだと思う。
けれど、捨てる前に少し見る。
数字を見る。
裏を見る。
もう一度表を見る。
何も戻ってこない。
レシートの横に置く。
二枚の紙が机の上に並ぶ。
片方には、店名も日時も商品名も金額もある。
もう片方には、数字しかない。
情報量はまったく違う。
それでも、どちらも同じくらい遠い。
半年前には何らかの意味を持っていた。
今は、その意味だけが抜けている。
*
服のポケットには、残そうと思ったものより、出し忘れたものの方が長く残ることがある。
レシート。
切符。
飴の包み。
硬貨。
鍵。
紙片。
使い終わったもの。
まだ使うもの。
帰宅したら出すつもりだったもの。
少しだけ持っている必要があったもの。
手に持っている。
次に別のことをする。
鍵を開ける。
スマートフォンを使う。
傘を持つ。
荷物を持ち直す。
手を空けたい。
近くにポケットがある。
入れる。
それだけで、手の中から物が消える。
五分後に出すつもりだったのかもしれない。
家に着いたら出すつもりだったのかもしれない。
何も考えていなかったのかもしれない。
服を着ているあいだは、まだ身体の近くにある。
歩けば一緒に揺れる。
座れば押される。
階段を上れば上下する。
走れば中でぶつかる。
手を入れれば触れる。
けれど、服を脱ぐ。
ハンガーへ掛ける。
その瞬間、物だけが服側へ残る。
翌日、同じ服を着れば気づくかもしれない。
別の服を着れば、そのままになる。
季節が変われば、何か月も会わない。
半年前のレシートも、たぶんそうだった。
私が別の場所へ行っているあいだも、
別の服を着ているあいだも、
新しいレシートを受け取っているあいだも、
古い紙は上着の内側に入ったままだった。
*
外出するとき、自分で入れたことを覚えているものもある。
鍵。
スマートフォン。
財布。
イヤホン。
玄関を出る前にポケットを叩く。
右。
左。
ある。
鍵は玄関で使う。
スマートフォンは充電する。
財布は机や鞄へ戻す。
イヤホンはケースへ入れる。
帰る場所がある。
だから取り出される。
レシートには、それがない。
使い終わったティッシュにもない。
包み紙にもない。
番号だけ書かれた紙にもない。
どこへ戻せばいいのかが決まっていない。
机の上に置くには少し邪魔。
引き出しへしまうほどでもない。
捨ててもよさそうだが、今すぐ捨てる理由もない。
そういうものだけが、布の中に残りやすい。
*
別の服も見る。
ズボン。
古いコート。
普段着ている上着。
何もないポケット。
何もないポケット。
百円玉。
使いかけのティッシュ。
小さなネジ。
百円玉は財布へ戻す。
使いかけのティッシュは捨てる。
ネジだけが手に残る。
銀色。
指先でつまめる。
何のネジなのか分からない。
いつ入れたのかも分からない。
それでも、ゴミ箱の上まで持っていく気にならない。
何かから外れたものかもしれない。
何かの予備かもしれない。
自分で外して、一時的に入れておいたのかもしれない。
そう考えて部屋を見る。
机。
椅子。
棚。
機械。
どこか一か所くらい、このネジが抜けていてもおかしくない。
けれど、探すほどでもない。
捨てるほどでもない。
机の上に置く。
*
翌日。
ネジはまだそこにある。
何のネジなのかは分からない。
二日後。
まだそこにある。
少しだけ机の風景に馴染んでいる。
何かがぐらついたとき、
「あれだ」
と思うかもしれない。
その日のために残しておく。
三日後。
机を拭く。
ネジが邪魔になる。
端へ寄せる。
紙を置く。
また邪魔になる。
腕が触れる。
転がる。
床へ落ちる前に拾う。
捨てようかと思う。
でも、捨ててから必要になる場面を一度想像する。
やめる。
工具箱へ入れることもできる。
けれど、工具箱へ入れると、
「これは取っておくものだ」
と決めた感じがする。
何のネジか分からないまま、正式な場所だけ与えるのも少し違う。
手の中で転がす。
机の上には置きたくない。
捨てるほどではない。
近くに上着が掛かっている。
ポケットを開く。
ネジを入れる。
手を離す。
机の上から消える。
*
ポケットは収納場所としては頼りない。
鞄ほど入らない。
財布のように、何をどこへ入れるかも決まっていない。
引き出しのように静止していない。
座れば折れる。
歩けば揺れる。
走れば中身がぶつかる。
服を脱げば、身体から離れる。
洗えば水に入る。
長く保存するには向いていない。
それでも、物は集まる。
手を下ろした場所に入口があるからだ。
歩きながら入れられる。
話しながら入れられる。
別のことを考えながら入れられる。
片付けるというより、手を空ける。
何かを終わらせるというより、次へ進む。
レシートを受け取る。
歩き始める。
ポケットへ入れる。
ティッシュを使う。
ゴミ箱がない。
ポケットへ入れる。
ネジを手に持っている。
何のネジか分からない。
とりあえずポケットへ入れる。
それぞれの物は、何かの途中で入っている。
*
中身を全部机へ出すと、急に関係のないものに見える。
百円玉。
ティッシュ。
ネジ。
レシート。
番号の紙。
ポケットの中では一緒にいても気にならなかった。
机に並べると、なぜこの五つが同じ場所に入っていたのか分からない。
財布なら金銭やカードが集まる。
筆箱なら筆記具。
工具箱なら工具。
冷蔵庫なら食べ物。
ポケットだけは、何を入れる場所なのか決まっていない。
そのとき手にあった小さなものなら何でも入る。
用途は違う。
時刻も違う。
場所も違う。
一つにつないでいるのは、
その瞬間、私がそれを手に持っていた、
ということだけかもしれない。
*
ポケットから物を出すと、行き先を決めなければならない。
百円玉は財布へ。
ティッシュはゴミ箱へ。
鍵は定位置へ。
レシートは捨てる。
番号の紙は——
少し止まる。
ネジは——
もっと止まる。
何か分からなければ、どこへ置くかも決めにくい。
だから、ポケットにあるあいだは楽だ。
「ポケットに入っているもの」
という一つの状態で済む。
外へ出した瞬間に、
これは何か。
まだ必要か。
どこへ置くか。
捨てていいか。
ということが始まる。
ネジを机へ出したときもそうだった。
ポケットの中では、ただのネジだった。
机へ置いた途端、
何のネジか分からないことが問題になった。
*
洗濯前にポケットを確認する。
右。
何もない。
左。
紙。
ズボン。
何もない。
別のズボン。
硬貨。
何も入っていないと思っていた服から、何かが出る。
洗濯は、そういうものを強制的に外へ出す。
ティッシュを入れたまま洗うと、白い紙が細かく崩れる。
服に付く。
一枚だったものが、たくさんの破片になる。
レシートは柔らかくなる。
印字が薄くなる。
紙の形が崩れる。
硬貨やネジは残る。
洗濯槽の中で音を立てる。
カラカラ。
さっきまで服の中でほとんど存在していなかったものが、
急に聞こえるようになる。
*
服そのものにも、少しずつ何かが残る。
ポケット口が伸びる。
片側だけ布が擦れる。
いつも同じ位置にスマートフォンを入れていると、生地の形が少し変わる。
手を入れる場所だけ柔らかくなる。
物を全部出しても、
使われていた場所は新品のままではない。
何を入れていたかまでは分からない。
何回手を入れたのかも分からない。
けれど、そこに身体が通ったことは残る。
新しい服のポケットと、
何年も着た服のポケットでは、
手を入れたときの感じが違う。
手を下ろす。
入口がある。
考えずに入れる。
服によって深さが違う。
角度も違う。
浅いポケットなら、物が落ちそうになる。
深ければ、底まで腕を入れる。
横から入れるもの。
上から入れるもの。
ファスナーがあるもの。
ないもの。
同じポケットでも、身体の動きは少しずつ変わる。
*
どのポケットへ何を入れるかにも癖がある。
鍵はこっち。
スマートフォンは反対。
財布は後ろ。
意識して決めた覚えはないのに、毎回だいたい同じ場所へ入れる。
違うところへ入れると、
「ない」
と思う。
右へ手を入れる。
ない。
一瞬焦る。
左を探る。
ある。
持っていたのに、いつもの場所になかっただけで、なくしたように感じる。
物の位置を頭で覚えているというより、
手の行き先が決まっている。
ポケットは服についている。
同時に、身体の動きの中にもある。
*
古い服を手放すとき、最後にポケットを見る。
クリーニングへ出す前。
衣替え。
誰かへ譲るとき。
捨てるとき。
右。
左。
胸。
内側。
何もないか確認する。
財布や鍵のような大事なものだけではない。
紙片。
硬貨。
ティッシュ。
何か分からない小さなもの。
忘れていたとしても、
出てきた瞬間には自分の側へ戻る。
半年前のレシートもそうだった。
半年間まったく思い出さなかった。
それでも見つけると、一度読む。
店名を見る。
日付を見る。
商品を見る。
何か思い出すかもしれないと思う。
何も出てこない。
それから捨てる。
半年間持っていたものとの関係が、数秒で終わる。
*
長く残ったからといって、大切だったわけではない。
むしろ逆のこともある。
大切な手紙なら、机の引き出しへしまう。
写真なら、保存する。
必要な書類なら、ファイルへ入れる。
忘れたくないものには、場所を与える。
ポケットに残っているのは、
場所を与える前に忘れたものかもしれない。
半年前のレシートは、大切だったから半年残ったのではない。
存在を忘れたから残った。
番号の紙もそうだ。
必要だった時間はあった。
そのあと何も起こらなかった。
紙だけが残った。
近くにあることと、
覚えていることは同じではない。
身体から数センチしか離れていなかったのに、
半年間、その存在を知らなかった。
*
古着のポケットなら、少し事情が違う。
自分が入れたものではない可能性がある。
手を入れる。
何もない。
それなら終わる。
もし何かが出てきたら、
服より前にいた誰かの手が、一度そこへ入ったことになる。
レシート一枚から、その人の生活は分からない。
硬貨一枚から性格も分からない。
紙片から何かを決めつけることもできない。
ただ、
誰かがそれを手に持ち、
この布の中へ入れた。
その動作だけが残っている。
人はもういない。
物だけがいる。
あるいは、
物もなくなっていて、
ポケット口の擦れだけが残っている。
*
服は身体の外にある。
けれど、部屋より近い。
鞄より近い。
一日中、身体と一緒に動く。
ポケットは、その服の内側にある小さな空間だ。
外からは見えない。
手を入れなければ、中に何があるか分からない。
入れた本人さえ忘れる。
街で受け取ったものが入る。
店で返されたものが入る。
使い終わったものが入る。
拾ったものが入る。
そのまま身体と一緒に移動する。
そして、服を脱いだところで時間が止まる。
次に手を入れるまで。
*
ポケットの中身だけで一日は復元できない。
昼食は残っていない。
見た景色も残っていない。
会話もない。
電車に乗ったことも、切符を使わなければ分からない。
残るものには偏りがある。
小さいもの。
手に持てるもの。
その瞬間には捨てなかったもの。
きちんと収納するほどでもなかったもの。
そういうものばかりだ。
だから、ポケットの中を見て、
その人がどんな人かを決めることはできない。
レシートがあるからパンが好きだったとは言えない。
ネジがあるから何かを修理していたとも言えない。
百円玉があるから現金をよく使うとも限らない。
ただ、
何かを受け取り、
一度そこへ入れ、
出さなかった。
その小さな行為だけは残る。
*
レシートを受け取った。
まだ手にある。
次の人が待っている。
店を出る。
ポケットへ入れる。
ティッシュを使った。
近くにゴミ箱がない。
歩きながら折る。
ポケットへ入れる。
番号を書いた。
今は必要だ。
紙を折る。
ポケットへ入れる。
ネジを持っている。
何のネジか分からない。
考えるのをやめる。
ポケットへ入れる。
そのあと、別のことが始まる。
歩く。
話す。
帰る。
服を脱ぐ。
眠る。
翌朝、別の服を着る。
前のことは終わっていない。
ただ、見えなくなっている。
*
机の上には、もうレシートがない。
番号の紙もない。
百円玉は財布へ戻った。
ティッシュは捨てた。
ネジだけが見当たらない。
どこへ置いたか、一瞬考える。
そうだ。
別の上着のポケットへ入れた。
上着は近くに掛かっている。
取り出そうと思えば、すぐ取り出せる。
でも、取り出さない。
何のネジか分からないことに変わりはない。
ポケットから机へ出しても分からなかった。
机からポケットへ戻しても分からない。
変わったのは、
目に入らなくなったことだけだ。
*
数週間後、その上着を着る。
そのときまで覚えているかは分からない。
手を入れる。
指先に硬いものが触れる。
取り出す。
小さなネジ。
たぶん、また少し考える。
何のネジだったのか。
必要なのか。
捨ててもいいのか。
今度こそ思い出すかもしれない。
何かがぐらついていて、
そこに合うかもしれない。
工具箱へ入れるかもしれない。
捨てるかもしれない。
あるいは、
そのときも分からないかもしれない。
ネジを手のひらに乗せる。
少し見る。
近くの机へ置く。
しばらくして邪魔になる。
手に取る。
捨てるほどではない。
しまう場所を決めるほどでもない。
また近くの服を見る。
ポケットを開く。
入れる。
手を離す。
何かを決めたわけではない。
ただ、次に手を入れるところまで、
そのままにしておく。
たぶん、また忘れる。


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